June 23rd, 2012
こんなことを言うとけっこう批判的に見られるんだろうけど、 僕は今まで原発の問題をちゃんと真剣に考えては来なかった。 もちろんある程度のアンテナは張っているけれど、かなり中途半端だ。
でも最近、近い仲間が再稼働反対の意思を表明したりするのを聞きながら、 もっと知ったり考えたりしようと思うようになっている。 ゆるいけどマジメな人、でありたい自分としては、 時点時点の自分の思うところを少し表明して、突っ込まれたり学ぶきっかけにしたり するのもいいのではないかと思った。 (いやぁ、去年までじゃ考えられないマジメさですな。これでも・・)
僕の場合、こないだの首相の再稼働の宣言を読んで、それほど大きな違和感がなかった。 つまり再稼働そのものに明確に反対する意思がない。 自分がどういう方向に一票入れるか今すぐ決めなきゃいけないとしたら、 「部分的に再稼働し10-15年後の脱原発を目指す。その過程の状況イメージをきちんと共有」 というのが一番近い。
そもそも前提として、僕は明確に意見を固められるほどの情報を持っていない。 もっとゴリゴリ情報を調べ、視点を広げる努力をもっとしていくことで、 たぶん意見の精度は上がると思うし、考え方も変わるかもしれない。 でもこんな複雑な問題に対して、別の本業をがんばりながら 自分自身が本当に正しい答えが出せるかというと、そんな自信はない。
僕は女友達から自分の知らない男のことで「こんなこと言われたけど、彼、どう思ってるんだろう?」 と聞かれたり、マーケットや現場の状況を知らない事業について「この戦略、正しいよね?」 と聞かれても、「恐らく・・・ではないか。でも断言はできないね」と応える人間である。 もちろん「ここはいずれにせよ、こう言ってあげた方が絶対にいいはずだ!」という確信があるときは、 無理やり理屈やストーリーをつくってでも言い切って押しまくることはするけれど。 再稼働に関しては、少なくとも、自分が絶対反対を表明することが世界を幸せにするとは確信できてない。
なので現時点では、自分が「この人の考え方と感性には納得感がある。そういう視点・筋道で 考えているならば、この人の考えが正しい可能性が高い」という判断をするのがいいと思っている。 考え方のアングルがちゃんとしている人を支持して信じるということは、意見足りうると思う。 「違うだろ。お前の考えはなんだ?」と言われそうだけど、 少なくとも感覚や半端な情報で判断するのが誠実だとは思えない。
原発に関しては「情報が不十分だろうがなんだろうが、とにかくダメだ!結論は明らかだ!」 という考え方もあるだろうと思う。 モラル的に非常に微妙な例だけど、蛾(ガ)がとにかく死ぬほど嫌いな僕は、 蛾がいるだけでその部屋には絶対にいたくないわけだけれど、それに対して 「それは感覚論だ。あなたにとってのリスクを具体的に分析把握した上で考えてみなさい」 なんて言われたら相当イラっとくる。人の自然な感覚は重要だ。 毎年1万人死ぬクルマはとりあえずあってもいいけど原発や放射線はどーしてもダメ! (あるいは、なくてもなんとかなるでしょ!!)と多くの人が思っているのは事実だから、 幸せ最大化的に言えば、そういうある種感覚的な原理原則論も考慮すべきだろうと。 人間はいつも客観的に考えて行動するわけじゃないし、100%客観的に幸せや不安を感じるなんてことは 大抵できないから、リスクとリターンバランスの最適化という論理的な話だけでは決めるべきではない。
同時に、個人的には、相当深く考えた上で「今後は脱原発に向かわねばならない」と言う人の意見には アンテナを張って学ぼうと思うけど、再稼働とにかく反対!という人の言うことを見ていると、 物事の全体解決でなく部分解決の発想に近いことが多いように思える。 内田樹さんという人も、素敵なことを言う人だと思ったことはあるけれど、 原発関係の話はそういう意味で全然しっくり来なかった。
スチュアート・ブランド(whole earth catalogの人。stay hungry, stay foolishの人)は、 地球全体の物理的な分析や、現実的な人間の行動や感覚、人の意思の持つ可能性などを けっこう広く深く考えた上で、原子力は有力な選択肢の一つだと言っているようだ。 昔は猛烈な反原発主義者だったのに、長年の研究の結果、 「ごめん、考えは変わった。自分は浅かった。フクシマを経てもそれは元に戻らない」と言っている。 今の世界の現実の状況をふまえると、エネルギー消費を減らし、再生エネルギーを増やす努力をしても、 そこまでの間に化石燃料等の影響で地球の自然の体系が壊れてヤバいことになるというのが 彼の重要なポイントのようだ。感覚的にはまだ一部疑問も残っているものの、 僕は彼の考える筋道や枠組み自体は、多くの反対論者より正しく見える。
ともかく、自分や他の人たちの感覚感情も重視はするものの、 その自分の感情自体が、本当の長期全体最適の答えにたどり着くであろう視点と切り離せないし 感情の不合理は修正すべきだという気持ちとともにある。
客観的すぎて多様性を評価しているだけで原理原則が一つに収斂しない、というのは ダメだけど、幼稚な認識でもそのままなんとなく同調するように教育されている(?) 悪い意味での日本人的な動きはしたくないなあと思う。
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お名前:
原発論
June 23rd, 2012
こんなことを言うとけっこう批判的に見られるんだろうけど、
僕は今まで原発の問題をちゃんと真剣に考えては来なかった。
もちろんある程度のアンテナは張っているけれど、かなり中途半端だ。
でも最近、近い仲間が再稼働反対の意思を表明したりするのを聞きながら、
もっと知ったり考えたりしようと思うようになっている。
ゆるいけどマジメな人、でありたい自分としては、
時点時点の自分の思うところを少し表明して、突っ込まれたり学ぶきっかけにしたり
するのもいいのではないかと思った。
(いやぁ、去年までじゃ考えられないマジメさですな。これでも・・)
僕の場合、こないだの首相の再稼働の宣言を読んで、それほど大きな違和感がなかった。
つまり再稼働そのものに明確に反対する意思がない。
自分がどういう方向に一票入れるか今すぐ決めなきゃいけないとしたら、
「部分的に再稼働し10-15年後の脱原発を目指す。その過程の状況イメージをきちんと共有」
というのが一番近い。
そもそも前提として、僕は明確に意見を固められるほどの情報を持っていない。
もっとゴリゴリ情報を調べ、視点を広げる努力をもっとしていくことで、
たぶん意見の精度は上がると思うし、考え方も変わるかもしれない。
でもこんな複雑な問題に対して、別の本業をがんばりながら
自分自身が本当に正しい答えが出せるかというと、そんな自信はない。
僕は女友達から自分の知らない男のことで「こんなこと言われたけど、彼、どう思ってるんだろう?」
と聞かれたり、マーケットや現場の状況を知らない事業について「この戦略、正しいよね?」
と聞かれても、「恐らく・・・ではないか。でも断言はできないね」と応える人間である。
もちろん「ここはいずれにせよ、こう言ってあげた方が絶対にいいはずだ!」という確信があるときは、
無理やり理屈やストーリーをつくってでも言い切って押しまくることはするけれど。
再稼働に関しては、少なくとも、自分が絶対反対を表明することが世界を幸せにするとは確信できてない。
なので現時点では、自分が「この人の考え方と感性には納得感がある。そういう視点・筋道で
考えているならば、この人の考えが正しい可能性が高い」という判断をするのがいいと思っている。
考え方のアングルがちゃんとしている人を支持して信じるということは、意見足りうると思う。
「違うだろ。お前の考えはなんだ?」と言われそうだけど、
少なくとも感覚や半端な情報で判断するのが誠実だとは思えない。
原発に関しては「情報が不十分だろうがなんだろうが、とにかくダメだ!結論は明らかだ!」
という考え方もあるだろうと思う。
モラル的に非常に微妙な例だけど、蛾(ガ)がとにかく死ぬほど嫌いな僕は、
蛾がいるだけでその部屋には絶対にいたくないわけだけれど、それに対して
「それは感覚論だ。あなたにとってのリスクを具体的に分析把握した上で考えてみなさい」
なんて言われたら相当イラっとくる。人の自然な感覚は重要だ。
毎年1万人死ぬクルマはとりあえずあってもいいけど原発や放射線はどーしてもダメ!
(あるいは、なくてもなんとかなるでしょ!!)と多くの人が思っているのは事実だから、
幸せ最大化的に言えば、そういうある種感覚的な原理原則論も考慮すべきだろうと。
人間はいつも客観的に考えて行動するわけじゃないし、100%客観的に幸せや不安を感じるなんてことは
大抵できないから、リスクとリターンバランスの最適化という論理的な話だけでは決めるべきではない。
同時に、個人的には、相当深く考えた上で「今後は脱原発に向かわねばならない」と言う人の意見には
アンテナを張って学ぼうと思うけど、再稼働とにかく反対!という人の言うことを見ていると、
物事の全体解決でなく部分解決の発想に近いことが多いように思える。
内田樹さんという人も、素敵なことを言う人だと思ったことはあるけれど、
原発関係の話はそういう意味で全然しっくり来なかった。
スチュアート・ブランド(whole earth catalogの人。stay hungry, stay foolishの人)は、
地球全体の物理的な分析や、現実的な人間の行動や感覚、人の意思の持つ可能性などを
けっこう広く深く考えた上で、原子力は有力な選択肢の一つだと言っているようだ。
昔は猛烈な反原発主義者だったのに、長年の研究の結果、
「ごめん、考えは変わった。自分は浅かった。フクシマを経てもそれは元に戻らない」と言っている。
今の世界の現実の状況をふまえると、エネルギー消費を減らし、再生エネルギーを増やす努力をしても、
そこまでの間に化石燃料等の影響で地球の自然の体系が壊れてヤバいことになるというのが
彼の重要なポイントのようだ。感覚的にはまだ一部疑問も残っているものの、
僕は彼の考える筋道や枠組み自体は、多くの反対論者より正しく見える。
ともかく、自分や他の人たちの感覚感情も重視はするものの、
その自分の感情自体が、本当の長期全体最適の答えにたどり着くであろう視点と切り離せないし
感情の不合理は修正すべきだという気持ちとともにある。
客観的すぎて多様性を評価しているだけで原理原則が一つに収斂しない、というのは
ダメだけど、幼稚な認識でもそのままなんとなく同調するように教育されている(?)
悪い意味での日本人的な動きはしたくないなあと思う。