都市論、からの結婚論

July 11th, 2012

最近、地方都市や地域の話に、前より少しずつ興味が出てきている。自分は東京の人間だし、仕事でがっつり地方シフトするわけではないけれど、今後の社会なり経済なり価値観なりを考えていくと自然に視野には入ってくる。(僕らが宿をやってる)新島のあるべき未来は?っていうテーマも個人的にあったりするし。

で、地方といえば、人口と仕事が減って経済縮小、という意味では基本的に厳しいぞということで、そこからコミュニティなり共同体なりの話が出てくるんだけど、いずれにせよ住む場所として維持するためには、仕事をつくれないといけない。仕事というのはザ・資本主義的な意味の仕事だけを意味する必要はもちろんないんだけど、当面マジョリティを占めるであろういわゆる産業というやつは、技術の進化とともに大きな流れとしては効率的集約化、そして都市化が進んできた。もちろん物事というのは、ある方向に進むと逆方向の動きも生まれるわけで(グローバル進むとローカルも、ハイテク進むとハイタッチも・・ってやつ)、分散に向かった動きはあるし、むしろ加速する可能性もあるのだけど。

地理的に見たときにはしかし、全体として産業(と人口)は東京集中がまだ進んでる。人が必要以上に集まりすぎれば、満員電車で疲れるし、土地も高くなるし、ゆえにローンが重くなって人生がどんどんつらくなるはずなのだが・・
なんていうか、広い公園で100人がバーベキューするときにわざわざ真ん中でギューギューに押し合いへし合いしながら食べる必要はないのに、的な。確かに肉を焼いてるところから離れているとウマい肉を食べ損なうリスクはあるんだけど、そこはルール設定というか、焼けたらまとめてグループごとに配っていくとか、はたまた地方分権的に、仕込みまでは一カ所集中でやるけど焼き場はいくつかに分散するとか、いろいろ方法はある。地方にいると情報が少ないとか人材が来ないといった現実はあるのだろうけど、日本の構造はちょっといびつに思える。

基本的に、都市も適度に集中、適度に分散、がいいに決まってる。そのためには仕事の分散が必要なんだけど、伝統工芸とか渋い観光とかいきなり自給自足、だけだとさすがに解ききれず、やっぱりある程度、太い産業の分散がないと厳しいだろう。インテルやナイキがいてこそ素敵に成り立つポートランドとか、シーメンスの経済活動と一体で皆健全に街を愛するドイツのエアランゲンみたいな話や、欧米でふつうに大企業の本社が分散している感じは、東京にいるとやっぱり不思議に感じる。どうしてそれができちゃうんだろうと。

多分、日本人に比べると若干、人生や幸せのあり方を全体的にバランスよく想像する力、をみんなが持てているということがまずあるのだろう。そして、仕事する上でやりとりする相手との距離が離れているのも、不便なこともあるけどむしろ余裕があってこそ仕事もはかどる、的なマインドも共有できているんだろう。その上で、社会の仕組み的にも流動性が確保されているというか、別の都市に行っても技があれば仕事につけるというのがあるから、人生の組み立て方に選択肢がいろいろあると。人生を自分なりにフェーズ分けしていくということもやりやすい。ホームタウンで仕事して、今度はしばらく都心でバリバリやって、奥さんの仕事や子育てのためにまた別の場所にいって、また戻って、でもずっと自分のプロスキルを活かして進化してるみたいな。ハイキャリアの人も地方のホームタウンで質の高い仕事ができるし、企業側も質の高い人材を地方でバランスよく確保することもできるという関係。中心都市での人生も、地方での人生も、それぞれの魅力があって、どちらにも仕事の機会や文化が健全にあって、それをいつでも選んで移動できるというのは豊かな状態だろう。

しかし、そういう分散と流動性が確保された社会では、家族的、夫婦的な問題はおこらないのかちょっと気になる。移動することにバリアがなくて、情報環境や自由度が進化して、それぞれが色んな選択肢を意識すると、奥さんと旦那のモードが違ってぶつかることもあるだろう。そこでお互いに折り合いをつけて一緒に歩めれば素敵だけれど、「あなたはそっちいくのね。私は今はここがいいわ、じゃまた5年後に」という選択の自由もあるべきだと思う。で、そういう状況を想像すると、必然的にポジティブ離婚が増える気がするわけだ。いまのところ僕は、それを肯定的に捉えていく方がいい気がする。(つづく)



レバレッジ論

June 23rd, 2012

ゆるいヤツだとよく言われますが、僕は何気に仕事が大好きで、
予定のない週末に喫茶店で仕事のことを考えるのが至福の時間だったりします。
1年半前から走ったり泳いだりチャリ通勤したりというのを日常的にやるようになったのも、
運動すると仕事の能率も上がるし、体が調子よくなれば集中力も上がって仕事の成果も出る、
だから気分がいい、というのがかなり大きい理由だった。つまり僕はいっぱい仕事をしたい。
人並み以上にせっかちなので、無駄を減らす技術とか、遊びも「有意義」なものにするだとか、
ややキモい自己啓発系のノリも含めて、ノウハウ本みたいのもこっそり読んだりもした。

もちろんそうはいっても、友達と飲んでバカ話するとか山に行くとか
映画見るとか本読むとか新島でぼーっとするとかピアノの練習とか、色々必要なことがある。
基本的に割と日々の時間の自由度があるから、ある程度マネジメントしないといけないのだが、
その技もけっこう進化してきた。運動するようになってからは、
「あ~今日も寝っ転がってるうちに夕方になっちった~」みたいなことはあまりなくなったし、
総じてだいぶ無駄がなくなって、これ以上キャパを広げる余地が見えなくなってきた。
好きな仕事はしているし一応食えてはいるけれど、まだまだもっとやりたい、
でも自分レベルの才能では、もっともっと効率的にやらないと、思いに追いつかない・・

で先日、堤清二(=辻井喬)の自伝を読んだ。
なにげに僕は彼にあこがれみたいなものを持っている。
というか、彼は自分が意識する先人としてかなり上位にいる。
西武百貨店を成長させながら、パルコをつくりロフトをつくりセゾン美術館をつくり、
そして無印良品をつくり、クレディセゾンもつくった。
それだけでもスゴすぎるのに、同時にずっと文学者として詩を書き続けた人だ。
「なんでそんな時間があるんだ?!」と改めて思った。
工夫して詩を書く時間をつくり出すとか、そういう話じゃなく、
彼の場合はもう、とにかく詩を書く!というのがありきなはずだ。
人を活かして信じて任せることでクリエイティブな時間を確保しよう!とかそういう次元じゃない。

会社や事業の規模は目的ではないけれど、僕は色んなことをやりたい。
自分の場合は一つのメッセージを追求して深く深く掘り下げ続けて
死ぬまで磨き上げ続けるというのも難しいし、
多作なアーティストのように一人で猛烈にアウトプットするというのも無理だ。
やっぱりレバレッジというやつをやらなきゃいけない。

ということで考えてみると、やっぱり単純な話に行きつく。
当たり前といえば当たり前の話だけど、要するに、
 一つの重大なアイディアや選択が大きな流れを生んでいく、
 一言の威力が人の意思を数年間にわたって高める力を持つ、
 一晩の出会いと酒と会話が大きな物語につながっていく、
ということがどれだけできるかどうかだ。
そういうことの積み重ねで、究極的にはそこにいるだけで周りに才能が集まっていく
というのが理想ということになる。
ノートの技術とか合間時間の活用とか「2次会には行くな!」とかいうたぐいの話もありだけど、
結局、発想と判断の力、人間とビジョンの魅力がなければあまりにも限界があると。
大きく発想したり深く遊ぶ中から、一言の価値が大きく上がるようにならねばならないなと。

でもこないだスタルク(=philippe starck)が言ってた。
パーティ行って人と仲良くなるよりも、
机の前でペンと紙、あるいはコンピュータを前にしている時間が一番クリエイティブだと。
(彼は補足して「あ、あと(創造的であるために必要なのが)セックスね。
奥さんとしかしないけどねw」と言ってた。かっこいい・・)
これは合点がいった。自分がルノアールでの一人シンポジウムが大好きなのも、
そこで色んな考えが生まれるのが快感だから。それを少しずつ塗り重ねていくことが
仕事でも個人でも自分なりのメッセージになってきてる実感があるから。

ともかく僕の場合は、もっと大きく遊んで、人とも熱く話して、
そして一人でもたくさん考えて、みんながわくわくするストーリーをつくれるようになるしかないなと。
人の役に立たないテキストで失礼しました。



原発論

June 23rd, 2012

こんなことを言うとけっこう批判的に見られるんだろうけど、
僕は今まで原発の問題をちゃんと真剣に考えては来なかった。
もちろんある程度のアンテナは張っているけれど、かなり中途半端だ。

でも最近、近い仲間が再稼働反対の意思を表明したりするのを聞きながら、
もっと知ったり考えたりしようと思うようになっている。
ゆるいけどマジメな人、でありたい自分としては、
時点時点の自分の思うところを少し表明して、突っ込まれたり学ぶきっかけにしたり
するのもいいのではないかと思った。
(いやぁ、去年までじゃ考えられないマジメさですな。これでも・・)

僕の場合、こないだの首相の再稼働の宣言を読んで、それほど大きな違和感がなかった。
つまり再稼働そのものに明確に反対する意思がない。
自分がどういう方向に一票入れるか今すぐ決めなきゃいけないとしたら、
「部分的に再稼働し10-15年後の脱原発を目指す。その過程の状況イメージをきちんと共有」
というのが一番近い。

そもそも前提として、僕は明確に意見を固められるほどの情報を持っていない。
もっとゴリゴリ情報を調べ、視点を広げる努力をもっとしていくことで、
たぶん意見の精度は上がると思うし、考え方も変わるかもしれない。
でもこんな複雑な問題に対して、別の本業をがんばりながら
自分自身が本当に正しい答えが出せるかというと、そんな自信はない。

僕は女友達から自分の知らない男のことで「こんなこと言われたけど、彼、どう思ってるんだろう?」
と聞かれたり、マーケットや現場の状況を知らない事業について「この戦略、正しいよね?」
と聞かれても、「恐らく・・・ではないか。でも断言はできないね」と応える人間である。
もちろん「ここはいずれにせよ、こう言ってあげた方が絶対にいいはずだ!」という確信があるときは、
無理やり理屈やストーリーをつくってでも言い切って押しまくることはするけれど。
再稼働に関しては、少なくとも、自分が絶対反対を表明することが世界を幸せにするとは確信できてない。

なので現時点では、自分が「この人の考え方と感性には納得感がある。そういう視点・筋道で
考えているならば、この人の考えが正しい可能性が高い」という判断をするのがいいと思っている。
考え方のアングルがちゃんとしている人を支持して信じるということは、意見足りうると思う。
「違うだろ。お前の考えはなんだ?」と言われそうだけど、
少なくとも感覚や半端な情報で判断するのが誠実だとは思えない。

原発に関しては「情報が不十分だろうがなんだろうが、とにかくダメだ!結論は明らかだ!」
という考え方もあるだろうと思う。
モラル的に非常に微妙な例だけど、蛾(ガ)がとにかく死ぬほど嫌いな僕は、
蛾がいるだけでその部屋には絶対にいたくないわけだけれど、それに対して
「それは感覚論だ。あなたにとってのリスクを具体的に分析把握した上で考えてみなさい」
なんて言われたら相当イラっとくる。人の自然な感覚は重要だ。
毎年1万人死ぬクルマはとりあえずあってもいいけど原発や放射線はどーしてもダメ!
(あるいは、なくてもなんとかなるでしょ!!)と多くの人が思っているのは事実だから、
幸せ最大化的に言えば、そういうある種感覚的な原理原則論も考慮すべきだろうと。
人間はいつも客観的に考えて行動するわけじゃないし、100%客観的に幸せや不安を感じるなんてことは
大抵できないから、リスクとリターンバランスの最適化という論理的な話だけでは決めるべきではない。

同時に、個人的には、相当深く考えた上で「今後は脱原発に向かわねばならない」と言う人の意見には
アンテナを張って学ぼうと思うけど、再稼働とにかく反対!という人の言うことを見ていると、
物事の全体解決でなく部分解決の発想に近いことが多いように思える。
内田樹さんという人も、素敵なことを言う人だと思ったことはあるけれど、
原発関係の話はそういう意味で全然しっくり来なかった。

スチュアート・ブランド(whole earth catalogの人。stay hungry, stay foolishの人)は、
地球全体の物理的な分析や、現実的な人間の行動や感覚、人の意思の持つ可能性などを
けっこう広く深く考えた上で、原子力は有力な選択肢の一つだと言っているようだ。
昔は猛烈な反原発主義者だったのに、長年の研究の結果、
「ごめん、考えは変わった。自分は浅かった。フクシマを経てもそれは元に戻らない」と言っている。
今の世界の現実の状況をふまえると、エネルギー消費を減らし、再生エネルギーを増やす努力をしても、
そこまでの間に化石燃料等の影響で地球の自然の体系が壊れてヤバいことになるというのが
彼の重要なポイントのようだ。感覚的にはまだ一部疑問も残っているものの、
僕は彼の考える筋道や枠組み自体は、多くの反対論者より正しく見える。

ともかく、自分や他の人たちの感覚感情も重視はするものの、
その自分の感情自体が、本当の長期全体最適の答えにたどり着くであろう視点と切り離せないし
感情の不合理は修正すべきだという気持ちとともにある。

客観的すぎて多様性を評価しているだけで原理原則が一つに収斂しない、というのは
ダメだけど、幼稚な認識でもそのままなんとなく同調するように教育されている(?)
悪い意味での日本人的な動きはしたくないなあと思う。



寿司論

May 13th, 2012

前に、greenzの兼松くんと小野くんと飲んでたときに、僕は寿司の話を得意げに話した。
本にも書いたネタだけど、簡単に言うと「お金に関する自分の価値観・バロメーターは、
ウマい寿司を気がねなく食べに行ける経済力があること。そこは確保したい。
それ以上については他の大事なこととのバランス次第でしかない」という話である。
自分にとってはそれはカレーではダメだし、フェラーリではない。
とにかく回る寿司しか食べられないのはいやだ。
だから僕は”それなりに”稼がないといけない、と。

そしたら2人に即座に言われた。
「うーん、僕らはちょっと違うかなぁ。うまい寿司を握っていている人が友達で、
だからすごく安く食べさせてくれる、というのが理想ですねぇ」と。
僕は一瞬で「あ。なるほど・・先行ってる。。」と、自分の感覚が既にちょっと古いんだと感じた。
古いからダメとかいう話でもないんだけど、世の中は彼らの価値観の方に動いてるのは確かだろう。
いずれにせよ僕はスシを食うための手段において想像力が欠けていたわけで。
とりあえず今後はうまいスシを握る人と仲良くなることにする。

ところで、ウマいものを知るとそれほどウマくないものを食べるのがつらくなる、という面がある。
ウマいものを知るのは幸せなことだけど、正直に言うと、
ペヤングを食べる時間の幸せ度は、昔の方がちょっと高かった。
そういう意味で、ときどき「知らない幸せ」みたいなものを意識する。
もちろん「一流のものを知っている」的なこともいいんだけれど、それは
優越感みたいな意味であるならば大した価値はなく、
自分がそれによって本当に質の高いものをつくったりに感動を与えたりできなきゃ意味がない気もする。
ともかく腹を満たすとウマく感じなくなるように、欲望を満たすほど快楽が減っていく面がある。

僕の提唱する(?)「幸せ微分論」というのがあるが、これはつまり、
幸せ感というのは絶対値ではなくて、昨日より進化していること、
そして今日より明日は進化できると思えることにある、
あるいは、欲望は少しずつ満たしていくのがいい、というもの。

大人になるとなかなか感動しなくなるよね、的な話がたまに出るけれど、これは重大な問題だと思う。
不感症になったからお金使って派手にやるというのもあんまりイケてなくて、
むしろ自然に帰った方が感動したりもするわけで、
そうした感動のシフトをしなやかに繰り返し持続できる柔軟なマインドや行動力のようなものを持っていたいと思ったりする。



合間論

May 12th, 2012

こないだヒカリエのイベントで「合間」の話というのをした。
ユトレヒトの江口さんが「aiiima」という一種のギャラリーというかショーケースのようなスペースをつくったのにちなんで、「合間」についての話をしろ、という振りだった。
せっかくなのでどんな話をしたか書きとめておくことにする。

ビルの合間から入っていく神田のそば屋「眠庵」。そもそも合間というのは渋くソソるもので、
感性鋭い人がそこを選ぶ。で、眠庵はとても美味い。合間の店が美味いのには理由があるのだ、という話

R不動産は、ショップとメディアの合間であって、どこまでいってもどちらかに振りきるものではないという話。
そしてそのチームの組織も会社と個人の合間の形であって、それが合っているとうい話。

自分はビジネスマンにもクリエーターにもなれない合間キャラであることに悶々としていたが、
それが実はすごくトクなことなのだとわかったという話

もともと世の中は荒野しかなかったところに人が領域をつくってきたわけで、
特に都市では、フロンティアを探そうとするとそれは合間にあるという話

全部整理して合間がなくなるとつまらんよねぇという話
人はヒマだと何でも整理したがる、会社でもなんでも「役割」を整理したがるんだけど、
整理しすぎるとライトセンター間落球、が起こる。合間の曖昧さも大事だねぇという話

人は進化すると合間に入っていく、どこからも見える真ん中で満足する人は退化する、
人は何かをつかもうとすると合間に入っていくのだ、という話

R不動産でやってるtoolboxなんかは、人間性と合理性の合間。
デジタルによって人間性を合理的に拡大する、という話なんだ、という話

多くのネットサービスやネット自体がそうであるように、
個人性、人間性、あるいは地域性を成立させ拡張させるためにも合理性やデジタル性を組み合わせる
というのが僕のテーマの一つであり、それもある意味で合間、
つまりどちらでもなくどちらでもあることなんだ、といったような感じの話

・・我ながら、わかるようなわからないような感じはするものの、
  自分的にはけっこう色んなヒントを得られるテーマであった。さすが江口さん、深い。



エロキャラ2

May 4th, 2012

前回の振りに応えてさっそく竹本さん(トビムシ)から、以下、文章がきた。
「エコとエロ その理論と現実」という連続講座、をやっていたとは・・
やはり先を行かれていたか。

しかしそもそも自分の発言とか文章を一人で語るというのは、
やってみたらやっぱり非常に照れくさい感覚があるので、
できればこういう場もちょくちょく人を巻き込んだりしたいなと思いつつある。
ブログだかなんだかわからなくなりそうだけど、まああまり深く考えないことに。

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Eat, drink, and be merry, for tomorrow you shall die.

「どうしても途中からエロ話に移行せざるを得ないという良好な関係」にある、
「このあたりの話にはやけに前のめりにのってくる友人」と、
「よりクリエイティブなエロ話でも展開しよう」というフリ、に、
それなりに、身構え(反発)し、身悶え(喜び)もする竹本です。はじめまして。

エロとかエコ(ノミー)とか、あとエコ(ロジー)とか。直近だと、エデュ(ケーション)も。
いずれ林くんはとても論理的だ。
どうしよもない下ネタ、も、どうしよもない理論(林厚見単独説が多い)に基づき、(かつてのジャンボ鶴田のバックドロップ並みに)強引な論理展開をみせる。
かつ、論理的必然に発したりもする(しかも低音美声で)。

林くんと僕は、当然に、嗜好そのものに重なりもあれば異なりもある。
が、その思考的嗜好性は似ている。と思う。
ふたりとも、論理性を志向する右(脳)派、なのか、藝術性を志向する左(脳)派、なのか、
40歳になってなお(互いに)未明ではあるが、それぞれ、よくよく思考する。それ(だけ)は間違いない。
実際、林くんのテクストには、「一人シンポジウム(無言)」や、「一人ブレスト(無声)」が、それなりの頻度で登場する。それ即ち、言わずもがな、である。

旧約聖書のいずこかに、Eat, drink, and be merry, for tomorrow we die 「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」とある。と思う。
林くんは、まさにそんな感じ(?)である。イタリア的、とか、ラテン系、とか、よりも、そんな感じ(?)である。
人生があと10年だったら、1年だったら、1カ月だったら、1週間だったら、1日だったら、ということを、結構真剣に考えたりしている。
そして、思考するだけでなく、陽明学よろしく、な感じで、行動に移る。移るべく準備に入る(という行動に移る)。
それが(また)精緻であり、それが(また)エロである。

かく言う僕も、4年ほど前、某社若手社員向け研修として、「エコとエロ その理論と現実」という連続講座を請負った(?)ことがある。
もしかすると、当時からそれなりに、林くんと近似する問題意識(?)を有していたのかもしれない。そう記憶を改ざんしたりする。
であれば、こうして、林くんのブログ、「快楽サステナブル」に登壇させてもらうのも、そこで意思伝達させてもらうのも、もっと言えば、連歌のように謳わせてもらう、のも、必要必然かもしれない。そう確信に導いたりする。

とはいえやはり、真面目に考えると、人様のブログに土足であがるはどうか、と真面目に考えてしまう。
ので、決して真面目に考えずに、(せめて)内履きであがってしまおう、と不真面目に思う。
いやあるいは、ここで僕が謳うその必然性を、林くんの精緻な理論(但し、単独説)に基づき、
(かつてのタイガース―プレックス並みに)美しくも強引な論理性で説いてもらえれば幸い、と(も)真面目に思う。

いずれにしても、ということで。
しばしの登壇を許し願う、食し呑みながらの今宵ひととき。

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うーむ。だいぶネチっこいキャラだと思われてるんだな。。
それにしても、理論と現実が気になるな。理論はともかく現実が気になる。

(ちなみに竹本さんは、森つくったり、ワリバシのメディア化したり、
うちのtoolboxで扱ってる無垢板タイルもつくってたり、
環境関連の法律つくりまくったり、してて、
隠岐の海士町に住んでるけど割と東京にいたり西粟倉にいたりする人)



エロキャラ

May 1st, 2012

先日マンジョルノ先輩に、facebookで、(林厚見は)たまにいいこと言うけど、
エロである。と断定されてしまった。
「ちょっ、いきなりパブリックにエロキャラ呼ばわりすか!!」とビビったが、
住宅総研の主任研究員である兄貴分にそう言われた以上、反論はしにくい。

確かに下ネタは好きだ。しょうもない下ネタも、しょうもなくない論理的な下ネタも好きだ。
そして正直なところ、エロキャラとしての自負もある。
それはいわゆる「俺は草食じゃないぜ!」というそれではなくて、もっとマジメな話として。

今朝、家からランニングをして三田綱町の住宅街や白金あたりの商店街を走りながら、
「時間をかけてゆっくりできた街はいいもんだな」と素直に思った。
一瞬でドカドカとマンションができたような町より、時間が積み重なった町がいい。
即席というのはペヤング以外は基本的によろしくない。もう日本には即席タウンは要らない。

不動産や金融の世界はしかし、どんどん資本を使いたがる。
急いでたくさん仕事をしないといけないシステムになっている。
ゆっくりやればいいのに、そこまで急がなくても幸せになれるのに、そうはできない。

もっと時間かけてやってきましょうよ、
そんなに新しいモノとか商業ビルとかいっぱいつくらなくてもいいじゃん、
お金かけなくてもドキドキできるっしょ、
と思うわけだけど、なかなかそうもいかない。

で、エロ論に戻る。いや、エロというか、LOVEというか、
これは快楽サステナビリティ的に、本質的に重要である。
要するに、お金をかけなくてもワクワクできること。
電気とか、エネルギーをそれほど使わなくても楽しくて幸せになること。
もちろん、LOVE&EROを求めればそこそこ消費や経済力も求めたり、
がんばったりもしなきゃいけないが、それはそれで健全である。
なおエロとラブを一緒に語るな!という話はまあここでは置いておく、
ていうか、当たり前だし、あくまで例えだし。

ともかく、歌って食べて愛して、それでいいじゃんというイタリア的な感覚はやっぱり良い。
たくさんモノつくったり捨てたり、バブったり上場したりしなくても、とりあえずは人生豊かじゃん、みたいな。
そういうベーシックなところでハッピーであれば、あまり間違えない。
とはいえ、それをグローバルなんとかがぶっ壊しに来るから
それなりに気合入れてがんばんないといけないのは事実だし、
それも適度にやりながらエキサイトするのもおもしろいんだけど、
ともかく物質的、ステータス的でないことにもう少し欲をシフトしておく方が、多分よい。
21世紀に地球が一つの限界を見た今、人の営みの本質に少し戻ろうぜと。
マンジョルノ先輩は、イタリア人みたいだからマンジョルノさんなんだろうけど、
だからきっとポジティブにエロキャラ呼ばわりしてくれていると思う。
だから僕は自負を持ってエロキャラを続けようと思うわけだ。

ところで、愛の最大化の観点からすると、下手すると今の日本の結婚制度なんかも
もはやLOVEのポテンシャルを阻んでいるかもしれない。そこにも「間の答え」を見つけるべきな気がする。

ふぅ。
エロキャラからだいぶ引っ張って熱弁してみたけど、まあ、冗談なんで。
走りながらこういうことを考えてると割と長く走れたりするもので。。
これもいわゆる、しょうもなくない論理的な下ネタでして。

ところで、このあたりの話にはやけに前のめりにのってくる友人がいる。
その竹本さんは、トビムシという、かなりスゴいことをしている会社をやっている。
彼とはだいたい、森とかデザインとか金融とか建築とかの話とかをし始めるのだが、
どうしても途中からエロ話に移行せざるを得ないという良好な関係を維持している。
こないだも大井町の路地裏で肉寿司を食べながらそういう展開になった。
で、その後の謎のスナック「ぺんぎん村」でおばちゃんに乗せられてヘロヘロになりながら、
まじめな話をもう少し引っ張ろうということになった。
彼にも時々ここに登場してもらって、よりクリエイティブなエロ話でも展開しようかと思う。



家賃の役割論

May 1st, 2012

前から若干続きで、家賃の話。
坂口恭平さん的に「家賃なんて払わずに、自分で家をつくってしまいなよ」というのは発想としてアリだし、よく聞く「家賃もったいないからマンション買った」という話も、気持ちとしてわからなくはない。
ちなみに自分は、地価が上がり続け人口が増え続ける時代が終わった今、買う借りるのどっちが正しいという一般論はないし、お得な賃貸やお得な購入、かどうかという話も、正確には”自分にとってトクかどうか”という話だけだと思っている。「一般的には微妙だが自分にとってはイイ」のがお得、一般評価はむしろ逆にもなりうるという感覚。

ところで家賃というのは、広い意味での割賦払い、あるいはある種の共同購入である。家を建てるときには、材料と手間というコストがかかり、それを誰かが負担する。賃貸においては、利用者がそれを少しずつ負担して、リレーしていくわけだ。
要するにこれは「役割分担」だ。買う人がいて、造る人がいて、使う人がいる。お金を最初に出す人や、使う分だけお金を払う人がいる。全部一人でやらずに分担している。

当たり前のことだけど、人間は今までそれをずっとやってきた。役割分担とルールの進化。
無人島で1人になったら、全部自分でやらないといけない。5人くらいいると、木のぼりが上手いやつと潜りがうまいやつで、フルーツ係と魚係を分ける。家づくりがうまいヤツが住みかをつくり、料理がうまい女子は家づくりはせずに料理で貢献する。キャンプに行くと、遊ぶ時間を増やすために役割分担をして仕事を効率よく進める。キャンプ場では役割の進化や技術革新がいっぱい起こるものだ。

ともかく、その無人島的状況から役割分担とルールの進化がぎゅーーんと進んだ結果が現代で、国家とか、業界とか、会社とか、法律とか税金とか、提携とか、シェアとか、色々なことになっている。
住処に関しては、大家さんとか、賃貸とか、銀行とか、不動産屋とか管理会社とか。
家賃を払うというのは「家を自分でつくらないで他のことをする」という選択とも言える。僕の場合は、DIYもちょっとだけやりたいけど、全部一人はさすがにきつい。自分の手でモノをつくるのが得意かというと実はそうではないので、他の得意なことをやって、それで得たお金で誰かに頼む。

役割が進化すると効率が上がって、それはある意味、自由を生む。自分の役割も選択できるようになる。
選択の自由が生まれるのは素晴らしい。とにかく自由や快楽を生むべく、人間はルールや役割分担を進めてきたけれど、それで果たしてよくなってるのかどうか、というと、必ずしも世の中は直線的に豊かで平和にはならず、問題がいっぱい起こる。欲のせいだ。人間の欲はフェアじゃなく、わがままだし、我慢というのが苦手なものだ。今は絶対ラーメン食べない方がいいと思っても、食べてしまう。(いや、ラーメンはいいんだけど)

短期的欲望が、長期全体最適を邪魔し、快楽持続性を阻む。
そして、役割分担を合理的効率的にばかり考えて、人間性を無視するのもまずい。かつ、柔軟でないといけない。

家賃の話とはだいぶ離れちゃったが・・・
坂口さんの話なんかは、そうした役割分担のちょっとおかしなところや、あなた、別の選択もあるぜ、ということを本能的に投げかけてるようなところがある。
僕らは新しい役割定義を考えて、やってみて、新しいルールを提示していかないといけない。



土地公有化の話

April 22nd, 2012

ちょっと前に坂口恭平さんと対談するかもしれない話があって、結局それは流れたんだけど、彼が言っている土地公有化の話はやっぱり気になった。まだそのあたりの話についてきちんと勉強したりじっくり考えたわけではないけど、今の時点での印象を残しておくことにする。ちなみに坂口さんのゼロ円ハウスの本は前にちょっと読んでおもしろいな~と思っているし、熊本で自分の国家のようなものをつくって内閣総理大臣を名乗ったりといういかれた感じにはけっこう共感を持っている。

先進国でも、道路も含めて色んな公有地があるけれど、基本的には土地は当たり前に私有化されるものだということになっている。で坂口さんは「家は自分でタダで建てられるけど、土地はお金がないと持てないのはなんかおかしい」と。仮に富士山を私有させたら削られるかもしれなくて、でもそれはまずい、といった話も聞いたことがある。なるほど・・

ゼロベースで考えてみると、私有の方がいい理由というのはあまりない気がする。今いきなり何もない国家ができて、そこで新たに全ての制度をつくるなら、自分ならとりあえず公有ベースで検討するだろう。おそらく一番の理由は、土地の私有化はバブルを生みやすい、つまり経済のブレを拡大しすぎて”過剰”な状況を時々つくるから。国が土地を全部所有して利用を仕切りすぎると恐いことになるリスクもあるが、利用者の利用権が強ければよいわけだし、所有権に強い意味を持たせない形はつくれるだろう。他にも色々と双方の善し悪しがあるのだろうけど、あまり強い理屈は今のところ思いつかないので、あるなら知りたいところ。やっぱり権力や富を手にした人は、土地を押さえたくなるだろうから、勝者のルールが広がったのが、私有化の基本的な経緯のように思える。

ただし現状の日本で、今公有化することは現実的には厳しいし、賛成しない。大変すぎて、労力に見合わない。もともと公有と私有でどっちがよかったか、という選択も、それほど圧倒的な善し悪しの差ではない気がするし。ただ、今後数十年くらいの中で、大災害なり大革命で前提が大きくひっくり返るようなことがありえるだろうから、そういう時に備えて一つのシナリオとしてイメージするのは無意味ではないと思う。自分が今それをじっくり研究する予定はないけれど、そこまで世の中の枠組みが変わることもありえるんだ、とは思っている。

土地の値段は利用価値から決まる。ある土地にマンションを建てたら家賃がどのくらいになるか、あるいはいくらなら売れるか、が尺度の一つになって、その場所の価値をみんなが将来に向かってどの程度価値が保たれる場所かという推測などが加わって値段が決まっていく。金利も関係する。ちなみに今の日本でも森の奥に行くとタダで使える、あるいはほぼタダで買える土地はたくさんある。そういう土地は持っていても税金はほぼタダになる。

土地の利用価値に差がある以上、そこに値段がないと厄介なことになる。都会のいい場所は取り合いになって、恐いおっさんたちや、セールに押しかけがちな猛烈おばちゃんたちが独占しちゃうかもしれない。価値交換、フェアネスの担保のための道具立ては必要だろう。

つまり利用権の値段は必要、ということになるが、それは既に借地、借地権という制度がある。ただ、借地するにも誰から借りるかというと今は地主がいる。公有化ベースになると、その地主が国になったりして、そうするとバブル創造装置ではなくて経済コントロール装置としてうまく使えるのかもしれない。が、でも国のバランスシートに入るということになると、国が破たんしたら他の国にとられたりとか、超根本的な構造は変わらないのかも。

というところまでとりあえず考えはじめてみたものの、ほんとはその先を考えないとおもしろくない。ひとまずきっかけということで。どうやら今まで日本でも土地公有化論をとなえた人がそれなりにいるようなので、そのうちそういう本でも読んでみようかなと。

坂口さんはそれとは別に「家賃て、おかしくねえ?!」ということも言っているみたいで、不動産屋としてはちょっと気になる。「家賃て当たり前に必要、ではないよね」ってことなんだと思うけど、ちょっとそのへんのことを考えていたら割とそこから外れて自分なりに色々としっくりくる話が出てきたので、次はそれを書こうと思う次第。



答えは間にある

April 18th, 2012

要は多様性のデザイン、バランスの設計だと思うんですよね、という話。

最近よく”脱成長”的な話を目にするが、感覚的には共感を感じるものの、
じゃあ脱してどういうことになるのかという話は曖昧なことが多い気がしている。
なんとなく気分的に、ほっこり主義的な話で終わったりする。
「こういう考え方があると思うんだ」「もっとこっちに行こうよ!」という話はよくあるけど、
どういう全体観やバランスであるべきか、という話は少ない気がする。

基本的には、真っ当な形での経済成長のエンジンがあって、それと同時に、
新しい価値観や、アブナい形での成長に対するアンチテーゼが育って、共存していくのがいい。
で、それらがどのような関係や構造にあるのか、どういう多様性やバランスの全体像に
持っていくのが一番いいのか、そのためにどうしていくのがいいのか、
という客観的な話がもっと必要だという気がする。
「がんばって成長しないとこれから所得レベルが下がっていっちゃうけど、
それでも幸せになれるよね、所得と幸せって関係ないよね」的な話はもちろん一理ある。
自分も所得と幸せが比例しないことなんてめちゃくちゃ実感しながら生きてきた。

一方で、けっこうキッツいことになるよなぁという気もする。失業も犯罪も増えるのはいやだし、会社が次々中国に買われて中国人にいじめられたりしたら、つらいし。僕はあまり貧しい地域や時代を見ていないから、かつて東北の農家が貧しくて娘を500円で売ったりしてた的な話はリアリティがないし、みんなそこまで想像していないけど、とにかく貧しくなるのはきついに違いない。
現状はまだまだ古い価値観が新たな時代に合う形にシフトしていく途中だから、”脱成長”的マインドやメッセージが力を持つのはよいことだと思うが、デキるやつがみんな社会起業家!を標榜する感じになるとさすがにバランス悪いだろうし。
スローで素敵なマインドで、それでお金なくても存分に楽しめる人、あるいはそうした価値観なり考え方をメッセージングすることで結局自分は稼げちゃって困らない一部の人はいいけれど、みんなでそっちに行っちゃうと結構マズい。多くの奥さんが、困る。

僕は規模拡大やメジャー化自体を仕事での目標と目的にしていないから、肉食事業家から見ればだいぶほっこり系に見えるだろうけれど、実は「ほっこり系の素敵なたひとたち」への懸念を持っている。
ほっこり系の方が感性が豊かな場合が多いから、メッセージの表現力や強度はあるが、全体観的視点が弱かったりする。価値観や社会像は豊かで素晴らしいものを持っているのに、それを実現する現実的な手立てやバランスについて詰める技術に欠けている場合が多い。そこが勿体ない。いまいちビジョンに欠けるゴリゴリビジネスな人の方が意外とバランス感はあったりして、それが保守的な方向へ導く力を持ってしまったり。

正しいマイノリティが、マイノリティであるゆえに敗退し、全体最適・長期最適がなされなくなるのは悲しい。
だから、メッセージングにとどまらず、全体視点やバランス視点からも物事を解いていくための現実的なトレーニングを積むべきではないか、と。

世の中の、というか日本の多くの議論は、右か、左か、で主張しあうか、はたまた何となく同調しておくか、そのどちらかであることが多いなと思う。それぞれの異なる切り口や意見があって、お互いいい部分を認めながら一緒に具体的にすりあわせていく議論が下手だと思う。

答えはだいたい”間”にあるものだと思っている。100%いい人とか、100%悪いひとなんてあまりいなくて、だいたい誰しも素敵なとこと邪悪なとこが両方あるものだし。客観性というのは大事なもので、それが欠けると刹那的な感情が世の中の制度を決めてしまうような危ない状況につながる。

いずれにせよ、幸せ(価値観)の多様性と、その健全なバランスが保たれていて、そこに選択の自由が確保されていること、それが豊かさなはずで。その多様性とかバランスがどういう状態だとよいのかを考えて、実際に少しでもよりよい状態に近づけることが自分の仕事なんだと数年前に思うようになってから、だいぶすっきりした気がする。分析好きだねぇとか言われるけど、自分はそれでいいと割り切ることにした。



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