質と量

August 4th, 2012

学生の頃のある日、友達と話していて気づかされたことがあった。それは「いいものが必ずしもいっぱい売れるわけではない」という、今思えばあまりにも当たり前の現実の話なんだけれど、そのとき僕は「そうか!! やはりそうなのかあああ!!」とやけに反応して、ある意味合点がいったのを覚えている。確か岩波映画がなくなるという話だか何かから、そういう話になったような気がする。別にそれ以前も、いいものは売れるはずだと信じていたとかいうわけではなくてむしろ、そうでもないんだなと感じつつ大して意識的に考えていなかったというだけだと思う。

で、そこから今に至るまで、そのことについてはいつも考えたり壁にぶつかったりしてきた。だいたい自分がおもしろいと思うものはど真ん中のメジャーではなくて、一方で超マニアでも超最先端でもなくその間であることが多いから、自分がイメージすることは大当たりするでもなく圧倒的固有でもないというようなコンプレックスがあった。本当はこういうものを多くの人が買ったり体験した方が世界はよくなるのに世の中では売れないのはいかがなものかとか、一見わかりにくいけどいいものを広げるにはどうしたらいいのかとか、はたまた、自分がいいと思うものをつくればいい、売れるかどうかなんて関係ねえ、と言えちゃうほど自分が確立できていないとか、そんなことを毎日のように考えてきた気がする。

本当にいいものは多くの人が感動するんだ、というのもあるけれど、多くの人が理解し賞賛するものだけがいいもの、というわけでもない。難しいことを誰でもわかるように説明することは素晴らしいけど、一部の人しか理解できないけどものすごい価値があるものはある。メインストリームになっていくエッジもあれば、そうはならないエッジもあって、どちらがいいかは一概に言えない。

昨日、内沼晋太郎くんや島浩一郎さんのやっている下北沢のB&Bという本屋にいって、Brutus編集長の西田さんとBeamsのバイヤーのボスである南馬越さんのトークというのを聞いたのだが、本屋自体と同様、期待した以上に楽しいものだった。僕はファッションの話は深いところは全然わからないけど、上海小吃で下ネタ全開だったマゴさんがプロとしてどんなふうに動いているのかが垣間見えてとてもおもしろかったし、お2人の、世の中に一歩前の時代感を見せていく役割とか、ビジネスとのバランスとか、それらにおいて必要なあざとさとか、自分の普段の興味の軸に沿った話もいろいろあって飽きなかった。最後には、R不動産の本もつくってくれている菅付雅信さんも壇上に混じってこれまたシャレた流れになったのだけど、そこで一人の若者が「かつてはエッジなものやカルチャーを伝える雑誌が多かったけど、どんどんなくなっている。平べったいものが受けるようになっている。エッジなことというのがもう求められていないのか?」というような質問をした。そしたら菅付さんは「新しい考えやカルチャーというようなことの、総量は変わらないと思う」と。「以前はそれがもっとパッケージされていたけど、今はそれがパッケージとして伝えられたり流行っていったりするわけじゃなくてもっと自然にあるんじゃないか。こうしてトークイベントがやたら増えたりデモが増えたりしてるのも含めて」と。

ある時代には、その若者のいう”エッジなこと”は、広告なり雑誌なりファッションなりという形でビジネスにいっぱい落とし込まれ、人はその情報・メッセージをお金で買う構造になっていたんだけど、そうじゃなくなってきた。そもそも親の世代の頃はマルクスとかサルトルとか読んでムズかしいこと考えて議論するのがシャレオツだったようだし、僕の生まれるちょっと前までは学生運動で石投げるのもある意味でかっこよかったんだろうし、今(あるいはちょっと前)でいうところの”クリエイティブ”的なことやビジネスが、粋の分野的にメジャーであったのもそんなに長い歴史ではないんだろう。粋や風流や芸術はもちろんいつの時代もあるし、そこにトレンドもあるものだけど、70年代くらいからの大きな波が転換点に来てるんだろう。そして新しいまっとうな世界や価値観を追求するところにおもしろいエッジな話はどんどん生まれていて、それは別にファッションやアートの雑誌に出てくるものでもない。(もちろん本当のエッジというのはそもそも雑誌に出てくるものでもないので、あくまでちょっと先を行く感覚や情報みたいな話のことだとは思うけど)

で、トークを聞いていて思ったのは、質と量みたいな話。マゴさんは多分ビームスで一番売れる商品を買ってくるバイヤーというよりは、自社の存在の意味を保ち磨くための動きをしている人で、西田さんはBRUTUSを多く売る使命もあるけれど、恐らく部数の拡大が至上ミッションとは捉えていない。人や経済の健全なあり方を考えれば、それは正しくて、質と量が長期的にうまく回っていく感じをちゃんとわかっているんだと思った。例えば僕はマガジンハウスはその事業全体を拡大していくことを目指せばいいと思うけど、それはBRUTUSを20万部売れる雑誌にするというゴール設定をすべきということにはならない。僕らのR不動産も同じような面がある。

今の経済システムは、質より量を追いなさいというルールになっていて「量のためには質が必要だから、そのルールは別に不健全じゃないよね?」というわけだ。それに対して「ほんまかいな」というのが、まあ少し先を行ったセンスという感じか。
質が上がれば量も上がることはあるし、そうでないこともある。量がなくても質がつくれるともいえるし、そうとも限らない場面もある。ともかく質と量は別の話でありつつ、同時に互いに微妙な関係がある。みたいな話を僕は多分考えるのをやめられないんだろう。。



空間の編集権

July 17th, 2012

R不動産でやっているtoolboxというサイトのコンセプトは「自分の空間を編集するための道具箱」ってやつなんだけど、こないだCCCの増田さんは「そう、色んな世界で”編集権の移動”がもっと起こっていくんだよね」と言っていた。音楽でいえば、アルバムのA面~B面のストーリーというのもだいぶ過去の話になってしまった。CDがでてきたときに中2だった僕は、A面の最後の曲とかB面の1曲目というものがなくなることに違和感があったけど、今、ipod, itunesのプレイリストに気持ち悪さはもちろんない。洋服はだいぶ昔からそういうふうに変わってきたし、携帯はフォルムのデザインより楽しいアプリを自分がどう編集し楽しむかということになった。これから本や雑誌がそういう流れで変わっていくだろうし、テレビも徐々に同じことがおこってくる。デジタルの進化、ツールの開発、情報チャネルの多様化、で、ユーザーへの編集権の移動は進んでいく。

空間の話でいうと、とくに都市の住宅においては、外側のハコはiphoneのようにある程度定型化して、中で変化するアプリケーションなりアクセサリーが変化進化し続けるというようなことが一つの流れとして出てくると思っている。スケルトンとインフィルが分かれるという話とは別に、ハコは合理的にシンプルに、中はより人間的に、という方向。建築に比べて内装に関しては、その編集権がユーザーに移動しやすい。もちろん洋服のようにさっと「選んで、着る」というようにはいかないので、編集やインストールする作業はプロの力を借りなければそうそう美しく完結できないんだけど、いずれにしてもプロの役割範囲は変わってくる。情報を得る、選ぶ、シミュレートする、教えを乞う、インストールする、してもらう、アップデートする、直す、いじる・・・そうした手順のあり方が変わっていく。

ユーザーにとっての編集の手立てやプロセスをひっくるめてインターフェースと呼ぶならば、そこに便利で豊かな世界をどうつくっていけるかというのはとてもおもしろい領域だと思う。新たな形やプレーヤがいろいろ出てくるだろうし、新しいかたちのクリエイションやそれをビジネスにする機会・方法もきっと現れてくる。多分この世界はいきなり全てが変わるわけではないし、今までのような建築家やデザイナーならではの仕事の価値は残るけれど、特にリノベーションなりリフォームにおいては、ハウスメーカーやセンスのいい工務店や量販店がそれぞれ力を増す中で、旧来の設計アトリエ的な手順がどうしても割高感を増していってしまうという状況は考えられる。

ともかく編集権がユーザーに移動していくとして、それがどのように起こっていくのかは僕らも鋭意研究中なわけだけどいずれにしてもデザイナーが支配する領域変わり、役割も変わることになる。減る部分もあるし、増える部分もある。後者は、道具立ての開発、つまりコンテンツやアプリケーションをデザインしたり、あるいはインターフェースの構造をデザインするということとか。そして僕らのミッションは、味気ない効率合理主義者たちがこの変化の先を支配しないよう、人間的で豊かな流れをつくること。

僕自身は学校を出るときにそれまで憧れていた建築家になるのをやめたけど、いい空間をつくること・増やすことは、やっぱり諦められないわけで、、自分が設計から離れても、マッチングとか、デベロプメントとか、場づくりとかインターフェースだとか、メディアづくりとか、手段はけっこうなんでもいいんだけど、いいアイデアやこだわりの技や素材がコンビニに置いてあるくらいに誰の目にもふれる状況とか、おもしろいカタチや質感を24時間考えているようなすごい人たちが生み出すものが世の中にふつうに広がっていくような状況をつくりたいなあと。今の情報環境や技術によってそれは実現できる気がする。



つづき

July 11th, 2012

快&楽が続く人生→そのための都市と産業の分散構造→それを担保する価値観や夫婦関係という、だいぶ無理のある話の流れで恐縮ですが・・(しかも深く検証とかしていないので割とゆるいという。。)

まあともかく、社会の自由度が上がると「なんか私たち、生き方がいつも一致するわけじゃないね」っていうことは増えていき、離婚圧力は上がる。ならば「夫婦が一生一緒」が基本であるという現代の常識が果たして今後もベストなのか?という話がつい出てきてしまう。

かつてはお見合いや親の指示で結婚した人も多く、それでけっこう安泰に夫婦関係が長続きしたりしていた。それは社会的な制約が強かったからでもあるわけだが、その制約とセットでそこに幸せなかたちがあった。しかし現代社会というやつは、そういう制約から離れようとしてきた。テレビをつくり電話や車をつくったように、人間は自由度や効率や快楽を求めて変化してきた。技術の進化や民主主義の進化や個人の自由の尊重や女性の社会的地位の進化などなどが、そういう制約を徐々に解き放っている。昔のような拘束あってこその幸せはもうワークしない。

僕が思うに人生のモード選択の自由度が上がることはよいことで、それを前提に、夫婦関係も流動性ベースにふった方がいいのではないか。自分の周りのデキる女たちは「結婚ってマストじゃないんですよね、ほんとに」と考えている人は明らかに増えている。その彼女らも、人間の本能として子供を生みたいという気持ちはあるはずだが、結婚関係の固定化には本質的な意味を感じにくく、縛りがデメリットになるというわけだ。結果、少子化へ向かう。これはよくない。

ここにも答えは間にある。近いものではフランスのパックス制度(準結婚、的な制度。続いてもいい試用期間みたいな感じ)がものすごく受け入れられ、それで子供がたくさん生まれているというのを見れば明らかに思える。一生続けるも幸せ、違いがでてきたらそれぞれの幸せのために前向きに分かれるのもよし、という流動的なかたちが当たり前になれば、倫理的問題はおこらないと思う。もちろん子供が小さいうちは一緒にいてあげよーねという常識感覚やルールはあった方がいいけど、無言夫婦や浮気両親のもとにいるくらいなら一旦ポジティブに解散しようという感覚もあっていい。そのようにふってしまうと意外と今より長続きしたりする気もする(正確には、長続きするマッチングが生じる機会が増える)。で、自分はどうかというと、一生コミット型でいこうとは思ってるけど、強いて言えばパックス的なかたちを自分たちに合ったかたちでカスタマイズするのがいいのかもという感覚。

で、ぎゅーんと話を戻しますと・・
地方の町が健全に維持されて、中心都市もウツ的でない、という状況になるには、政策や政治構造だけじゃなくて、生き方の常識とか、共有するマインドが変わる必要がある。新しいあり方を実践する大企業を国がサポートするのも重要だし、社会的な流動性を上げる仕組みも必要だし、「間」の夫婦制度もあるべきだし、同時に、地方の魅力を実践的に発信する若者のメッセージや、それを皆が共有していくことも大事だと思う。
もう都市計画は地図を描くようなことをする時代じゃないけど、かといってコミュニティ論だけでも政策論だけでもなく、社会システムや価値観の、統合的なビジョン論にならざるを得ない。いろんな視点、分野の人がお互いある程度全体感を共有しながら、多様性を肯定しながら組み立てていく。

僕はもっと都市や地域の色々な幸せなあり方を理解できないといかんなと思いつつ、そんな終わりのない(リアリティすらない?)うんちくをいいながら、周りから「うんちくはわかった。で、お前はいつ結婚すんだYO!」と突っ込まれる日々が続く。



都市論、からの結婚論

July 11th, 2012

最近、地方都市や地域の話に、前より少しずつ興味が出てきている。自分は東京の人間だし、仕事でがっつり地方シフトするわけではないけれど、今後の社会なり経済なり価値観なりを考えていくと自然に視野には入ってくる。(僕らが宿をやってる)新島のあるべき未来は?っていうテーマも個人的にあったりするし。

で、地方といえば、人口と仕事が減って経済縮小、という意味では基本的に厳しいぞということで、そこからコミュニティなり共同体なりの話が出てくるんだけど、いずれにせよ住む場所として維持するためには、仕事をつくれないといけない。仕事というのはザ・資本主義的な意味の仕事だけを意味する必要はもちろんないんだけど、当面マジョリティを占めるであろういわゆる産業というやつは、技術の進化とともに大きな流れとしては効率的集約化、そして都市化が進んできた。もちろん物事というのは、ある方向に進むと逆方向の動きも生まれるわけで(グローバル進むとローカルも、ハイテク進むとハイタッチも・・ってやつ)、分散に向かった動きはあるし、むしろ加速する可能性もあるのだけど。

地理的に見たときにはしかし、全体として産業(と人口)は東京集中がまだ進んでる。人が必要以上に集まりすぎれば、満員電車で疲れるし、土地も高くなるし、ゆえにローンが重くなって人生がどんどんつらくなるはずなのだが・・
なんていうか、広い公園で100人がバーベキューするときにわざわざ真ん中でギューギューに押し合いへし合いしながら食べる必要はないのに、的な。確かに肉を焼いてるところから離れているとウマい肉を食べ損なうリスクはあるんだけど、そこはルール設定というか、焼けたらまとめてグループごとに配っていくとか、はたまた地方分権的に、仕込みまでは一カ所集中でやるけど焼き場はいくつかに分散するとか、いろいろ方法はある。地方にいると情報が少ないとか人材が来ないといった現実はあるのだろうけど、日本の構造はちょっといびつに思える。

基本的に、都市も適度に集中、適度に分散、がいいに決まってる。そのためには仕事の分散が必要なんだけど、伝統工芸とか渋い観光とかいきなり自給自足、だけだとさすがに解ききれず、やっぱりある程度、太い産業の分散がないと厳しいだろう。インテルやナイキがいてこそ素敵に成り立つポートランドとか、シーメンスの経済活動と一体で皆健全に街を愛するドイツのエアランゲンみたいな話や、欧米でふつうに大企業の本社が分散している感じは、東京にいるとやっぱり不思議に感じる。どうしてそれができちゃうんだろうと。

多分、日本人に比べると若干、人生や幸せのあり方を全体的にバランスよく想像する力、をみんなが持てているということがまずあるのだろう。そして、仕事する上でやりとりする相手との距離が離れているのも、不便なこともあるけどむしろ余裕があってこそ仕事もはかどる、的なマインドも共有できているんだろう。その上で、社会の仕組み的にも流動性が確保されているというか、別の都市に行っても技があれば仕事につけるというのがあるから、人生の組み立て方に選択肢がいろいろあると。人生を自分なりにフェーズ分けしていくということもやりやすい。ホームタウンで仕事して、今度はしばらく都心でバリバリやって、奥さんの仕事や子育てのためにまた別の場所にいって、また戻って、でもずっと自分のプロスキルを活かして進化してるみたいな。ハイキャリアの人も地方のホームタウンで質の高い仕事ができるし、企業側も質の高い人材を地方でバランスよく確保することもできるという関係。中心都市での人生も、地方での人生も、それぞれの魅力があって、どちらにも仕事の機会や文化が健全にあって、それをいつでも選んで移動できるというのは豊かな状態だろう。

しかし、そういう分散と流動性が確保された社会では、家族的、夫婦的な問題はおこらないのかちょっと気になる。移動することにバリアがなくて、情報環境や自由度が進化して、それぞれが色んな選択肢を意識すると、奥さんと旦那のモードが違ってぶつかることもあるだろう。そこでお互いに折り合いをつけて一緒に歩めれば素敵だけれど、「あなたはそっちいくのね。私は今はここがいいわ、じゃまた5年後に」という選択の自由もあるべきだと思う。で、そういう状況を想像すると、必然的にポジティブ離婚が増える気がするわけだ。いまのところ僕は、それを肯定的に捉えていく方がいい気がする。(つづく)



レバレッジ論

June 23rd, 2012

ゆるいヤツだとよく言われますが、僕は何気に仕事が大好きで、
予定のない週末に喫茶店で仕事のことを考えるのが至福の時間だったりします。
1年半前から走ったり泳いだりチャリ通勤したりというのを日常的にやるようになったのも、
運動すると仕事の能率も上がるし、体が調子よくなれば集中力も上がって仕事の成果も出る、
だから気分がいい、というのがかなり大きい理由だった。つまり僕はいっぱい仕事をしたい。
人並み以上にせっかちなので、無駄を減らす技術とか、遊びも「有意義」なものにするだとか、
ややキモい自己啓発系のノリも含めて、ノウハウ本みたいのもこっそり読んだりもした。

もちろんそうはいっても、友達と飲んでバカ話するとか山に行くとか
映画見るとか本読むとか新島でぼーっとするとかピアノの練習とか、色々必要なことがある。
基本的に割と日々の時間の自由度があるから、ある程度マネジメントしないといけないのだが、
その技もけっこう進化してきた。運動するようになってからは、
「あ~今日も寝っ転がってるうちに夕方になっちった~」みたいなことはあまりなくなったし、
総じてだいぶ無駄がなくなって、これ以上キャパを広げる余地が見えなくなってきた。
好きな仕事はしているし一応食えてはいるけれど、まだまだもっとやりたい、
でも自分レベルの才能では、もっともっと効率的にやらないと、思いに追いつかない・・

で先日、堤清二(=辻井喬)の自伝を読んだ。
なにげに僕は彼にあこがれみたいなものを持っている。
というか、彼は自分が意識する先人としてかなり上位にいる。
西武百貨店を成長させながら、パルコをつくりロフトをつくりセゾン美術館をつくり、
そして無印良品をつくり、クレディセゾンもつくった。
それだけでもスゴすぎるのに、同時にずっと文学者として詩を書き続けた人だ。
「なんでそんな時間があるんだ?!」と改めて思った。
工夫して詩を書く時間をつくり出すとか、そういう話じゃなく、
彼の場合はもう、とにかく詩を書く!というのがありきなはずだ。
人を活かして信じて任せることでクリエイティブな時間を確保しよう!とかそういう次元じゃない。

会社や事業の規模は目的ではないけれど、僕は色んなことをやりたい。
自分の場合は一つのメッセージを追求して深く深く掘り下げ続けて
死ぬまで磨き上げ続けるというのも難しいし、
多作なアーティストのように一人で猛烈にアウトプットするというのも無理だ。
やっぱりレバレッジというやつをやらなきゃいけない。

ということで考えてみると、やっぱり単純な話に行きつく。
当たり前といえば当たり前の話だけど、要するに、
 一つの重大なアイディアや選択が大きな流れを生んでいく、
 一言の威力が人の意思を数年間にわたって高める力を持つ、
 一晩の出会いと酒と会話が大きな物語につながっていく、
ということがどれだけできるかどうかだ。
そういうことの積み重ねで、究極的にはそこにいるだけで周りに才能が集まっていく
というのが理想ということになる。
ノートの技術とか合間時間の活用とか「2次会には行くな!」とかいうたぐいの話もありだけど、
結局、発想と判断の力、人間とビジョンの魅力がなければあまりにも限界があると。
大きく発想したり深く遊ぶ中から、一言の価値が大きく上がるようにならねばならないなと。

でもこないだスタルク(=philippe starck)が言ってた。
パーティ行って人と仲良くなるよりも、
机の前でペンと紙、あるいはコンピュータを前にしている時間が一番クリエイティブだと。
(彼は補足して「あ、あと(創造的であるために必要なのが)セックスね。
奥さんとしかしないけどねw」と言ってた。かっこいい・・)
これは合点がいった。自分がルノアールでの一人シンポジウムが大好きなのも、
そこで色んな考えが生まれるのが快感だから。それを少しずつ塗り重ねていくことが
仕事でも個人でも自分なりのメッセージになってきてる実感があるから。

ともかく僕の場合は、もっと大きく遊んで、人とも熱く話して、
そして一人でもたくさん考えて、みんながわくわくするストーリーをつくれるようになるしかないなと。
人の役に立たないテキストで失礼しました。



原発論

June 23rd, 2012

こんなことを言うとけっこう批判的に見られるんだろうけど、
僕は今まで原発の問題をちゃんと真剣に考えては来なかった。
もちろんある程度のアンテナは張っているけれど、かなり中途半端だ。

でも最近、近い仲間が再稼働反対の意思を表明したりするのを聞きながら、
もっと知ったり考えたりしようと思うようになっている。
ゆるいけどマジメな人、でありたい自分としては、
時点時点の自分の思うところを少し表明して、突っ込まれたり学ぶきっかけにしたり
するのもいいのではないかと思った。
(いやぁ、去年までじゃ考えられないマジメさですな。これでも・・)

僕の場合、こないだの首相の再稼働の宣言を読んで、それほど大きな違和感がなかった。
つまり再稼働そのものに明確に反対する意思がない。
自分がどういう方向に一票入れるか今すぐ決めなきゃいけないとしたら、
「部分的に再稼働し10-15年後の脱原発を目指す。その過程の状況イメージをきちんと共有」
というのが一番近い。

そもそも前提として、僕は明確に意見を固められるほどの情報を持っていない。
もっとゴリゴリ情報を調べ、視点を広げる努力をもっとしていくことで、
たぶん意見の精度は上がると思うし、考え方も変わるかもしれない。
でもこんな複雑な問題に対して、別の本業をがんばりながら
自分自身が本当に正しい答えが出せるかというと、そんな自信はない。

僕は女友達から自分の知らない男のことで「こんなこと言われたけど、彼、どう思ってるんだろう?」
と聞かれたり、マーケットや現場の状況を知らない事業について「この戦略、正しいよね?」
と聞かれても、「恐らく・・・ではないか。でも断言はできないね」と応える人間である。
もちろん「ここはいずれにせよ、こう言ってあげた方が絶対にいいはずだ!」という確信があるときは、
無理やり理屈やストーリーをつくってでも言い切って押しまくることはするけれど。
再稼働に関しては、少なくとも、自分が絶対反対を表明することが世界を幸せにするとは確信できてない。

なので現時点では、自分が「この人の考え方と感性には納得感がある。そういう視点・筋道で
考えているならば、この人の考えが正しい可能性が高い」という判断をするのがいいと思っている。
考え方のアングルがちゃんとしている人を支持して信じるということは、意見足りうると思う。
「違うだろ。お前の考えはなんだ?」と言われそうだけど、
少なくとも感覚や半端な情報で判断するのが誠実だとは思えない。

原発に関しては「情報が不十分だろうがなんだろうが、とにかくダメだ!結論は明らかだ!」
という考え方もあるだろうと思う。
モラル的に非常に微妙な例だけど、蛾(ガ)がとにかく死ぬほど嫌いな僕は、
蛾がいるだけでその部屋には絶対にいたくないわけだけれど、それに対して
「それは感覚論だ。あなたにとってのリスクを具体的に分析把握した上で考えてみなさい」
なんて言われたら相当イラっとくる。人の自然な感覚は重要だ。
毎年1万人死ぬクルマはとりあえずあってもいいけど原発や放射線はどーしてもダメ!
(あるいは、なくてもなんとかなるでしょ!!)と多くの人が思っているのは事実だから、
幸せ最大化的に言えば、そういうある種感覚的な原理原則論も考慮すべきだろうと。
人間はいつも客観的に考えて行動するわけじゃないし、100%客観的に幸せや不安を感じるなんてことは
大抵できないから、リスクとリターンバランスの最適化という論理的な話だけでは決めるべきではない。

同時に、個人的には、相当深く考えた上で「今後は脱原発に向かわねばならない」と言う人の意見には
アンテナを張って学ぼうと思うけど、再稼働とにかく反対!という人の言うことを見ていると、
物事の全体解決でなく部分解決の発想に近いことが多いように思える。
内田樹さんという人も、素敵なことを言う人だと思ったことはあるけれど、
原発関係の話はそういう意味で全然しっくり来なかった。

スチュアート・ブランド(whole earth catalogの人。stay hungry, stay foolishの人)は、
地球全体の物理的な分析や、現実的な人間の行動や感覚、人の意思の持つ可能性などを
けっこう広く深く考えた上で、原子力は有力な選択肢の一つだと言っているようだ。
昔は猛烈な反原発主義者だったのに、長年の研究の結果、
「ごめん、考えは変わった。自分は浅かった。フクシマを経てもそれは元に戻らない」と言っている。
今の世界の現実の状況をふまえると、エネルギー消費を減らし、再生エネルギーを増やす努力をしても、
そこまでの間に化石燃料等の影響で地球の自然の体系が壊れてヤバいことになるというのが
彼の重要なポイントのようだ。感覚的にはまだ一部疑問も残っているものの、
僕は彼の考える筋道や枠組み自体は、多くの反対論者より正しく見える。

ともかく、自分や他の人たちの感覚感情も重視はするものの、
その自分の感情自体が、本当の長期全体最適の答えにたどり着くであろう視点と切り離せないし
感情の不合理は修正すべきだという気持ちとともにある。

客観的すぎて多様性を評価しているだけで原理原則が一つに収斂しない、というのは
ダメだけど、幼稚な認識でもそのままなんとなく同調するように教育されている(?)
悪い意味での日本人的な動きはしたくないなあと思う。



寿司論

May 13th, 2012

前に、greenzの兼松くんと小野くんと飲んでたときに、僕は寿司の話を得意げに話した。
本にも書いたネタだけど、簡単に言うと「お金に関する自分の価値観・バロメーターは、
ウマい寿司を気がねなく食べに行ける経済力があること。そこは確保したい。
それ以上については他の大事なこととのバランス次第でしかない」という話である。
自分にとってはそれはカレーではダメだし、フェラーリではない。
とにかく回る寿司しか食べられないのはいやだ。
だから僕は”それなりに”稼がないといけない、と。

そしたら2人に即座に言われた。
「うーん、僕らはちょっと違うかなぁ。うまい寿司を握っていている人が友達で、
だからすごく安く食べさせてくれる、というのが理想ですねぇ」と。
僕は一瞬で「あ。なるほど・・先行ってる。。」と、自分の感覚が既にちょっと古いんだと感じた。
古いからダメとかいう話でもないんだけど、世の中は彼らの価値観の方に動いてるのは確かだろう。
いずれにせよ僕はスシを食うための手段において想像力が欠けていたわけで。
とりあえず今後はうまいスシを握る人と仲良くなることにする。

ところで、ウマいものを知るとそれほどウマくないものを食べるのがつらくなる、という面がある。
ウマいものを知るのは幸せなことだけど、正直に言うと、
ペヤングを食べる時間の幸せ度は、昔の方がちょっと高かった。
そういう意味で、ときどき「知らない幸せ」みたいなものを意識する。
もちろん「一流のものを知っている」的なこともいいんだけれど、それは
優越感みたいな意味であるならば大した価値はなく、
自分がそれによって本当に質の高いものをつくったりに感動を与えたりできなきゃ意味がない気もする。
ともかく腹を満たすとウマく感じなくなるように、欲望を満たすほど快楽が減っていく面がある。

僕の提唱する(?)「幸せ微分論」というのがあるが、これはつまり、
幸せ感というのは絶対値ではなくて、昨日より進化していること、
そして今日より明日は進化できると思えることにある、
あるいは、欲望は少しずつ満たしていくのがいい、というもの。

大人になるとなかなか感動しなくなるよね、的な話がたまに出るけれど、これは重大な問題だと思う。
不感症になったからお金使って派手にやるというのもあんまりイケてなくて、
むしろ自然に帰った方が感動したりもするわけで、
そうした感動のシフトをしなやかに繰り返し持続できる柔軟なマインドや行動力のようなものを持っていたいと思ったりする。



合間論

May 12th, 2012

こないだヒカリエのイベントで「合間」の話というのをした。
ユトレヒトの江口さんが「aiiima」という一種のギャラリーというかショーケースのようなスペースをつくったのにちなんで、「合間」についての話をしろ、という振りだった。
せっかくなのでどんな話をしたか書きとめておくことにする。

ビルの合間から入っていく神田のそば屋「眠庵」。そもそも合間というのは渋くソソるもので、
感性鋭い人がそこを選ぶ。で、眠庵はとても美味い。合間の店が美味いのには理由があるのだ、という話

R不動産は、ショップとメディアの合間であって、どこまでいってもどちらかに振りきるものではないという話。
そしてそのチームの組織も会社と個人の合間の形であって、それが合っているとうい話。

自分はビジネスマンにもクリエーターにもなれない合間キャラであることに悶々としていたが、
それが実はすごくトクなことなのだとわかったという話

もともと世の中は荒野しかなかったところに人が領域をつくってきたわけで、
特に都市では、フロンティアを探そうとするとそれは合間にあるという話

全部整理して合間がなくなるとつまらんよねぇという話
人はヒマだと何でも整理したがる、会社でもなんでも「役割」を整理したがるんだけど、
整理しすぎるとライトセンター間落球、が起こる。合間の曖昧さも大事だねぇという話

人は進化すると合間に入っていく、どこからも見える真ん中で満足する人は退化する、
人は何かをつかもうとすると合間に入っていくのだ、という話

R不動産でやってるtoolboxなんかは、人間性と合理性の合間。
デジタルによって人間性を合理的に拡大する、という話なんだ、という話

多くのネットサービスやネット自体がそうであるように、
個人性、人間性、あるいは地域性を成立させ拡張させるためにも合理性やデジタル性を組み合わせる
というのが僕のテーマの一つであり、それもある意味で合間、
つまりどちらでもなくどちらでもあることなんだ、といったような感じの話

・・我ながら、わかるようなわからないような感じはするものの、
  自分的にはけっこう色んなヒントを得られるテーマであった。さすが江口さん、深い。



エロキャラ2

May 4th, 2012

前回の振りに応えてさっそく竹本さん(トビムシ)から、以下、文章がきた。
「エコとエロ その理論と現実」という連続講座、をやっていたとは・・
やはり先を行かれていたか。

しかしそもそも自分の発言とか文章を一人で語るというのは、
やってみたらやっぱり非常に照れくさい感覚があるので、
できればこういう場もちょくちょく人を巻き込んだりしたいなと思いつつある。
ブログだかなんだかわからなくなりそうだけど、まああまり深く考えないことに。

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Eat, drink, and be merry, for tomorrow you shall die.

「どうしても途中からエロ話に移行せざるを得ないという良好な関係」にある、
「このあたりの話にはやけに前のめりにのってくる友人」と、
「よりクリエイティブなエロ話でも展開しよう」というフリ、に、
それなりに、身構え(反発)し、身悶え(喜び)もする竹本です。はじめまして。

エロとかエコ(ノミー)とか、あとエコ(ロジー)とか。直近だと、エデュ(ケーション)も。
いずれ林くんはとても論理的だ。
どうしよもない下ネタ、も、どうしよもない理論(林厚見単独説が多い)に基づき、(かつてのジャンボ鶴田のバックドロップ並みに)強引な論理展開をみせる。
かつ、論理的必然に発したりもする(しかも低音美声で)。

林くんと僕は、当然に、嗜好そのものに重なりもあれば異なりもある。
が、その思考的嗜好性は似ている。と思う。
ふたりとも、論理性を志向する右(脳)派、なのか、藝術性を志向する左(脳)派、なのか、
40歳になってなお(互いに)未明ではあるが、それぞれ、よくよく思考する。それ(だけ)は間違いない。
実際、林くんのテクストには、「一人シンポジウム(無言)」や、「一人ブレスト(無声)」が、それなりの頻度で登場する。それ即ち、言わずもがな、である。

旧約聖書のいずこかに、Eat, drink, and be merry, for tomorrow we die 「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」とある。と思う。
林くんは、まさにそんな感じ(?)である。イタリア的、とか、ラテン系、とか、よりも、そんな感じ(?)である。
人生があと10年だったら、1年だったら、1カ月だったら、1週間だったら、1日だったら、ということを、結構真剣に考えたりしている。
そして、思考するだけでなく、陽明学よろしく、な感じで、行動に移る。移るべく準備に入る(という行動に移る)。
それが(また)精緻であり、それが(また)エロである。

かく言う僕も、4年ほど前、某社若手社員向け研修として、「エコとエロ その理論と現実」という連続講座を請負った(?)ことがある。
もしかすると、当時からそれなりに、林くんと近似する問題意識(?)を有していたのかもしれない。そう記憶を改ざんしたりする。
であれば、こうして、林くんのブログ、「快楽サステナブル」に登壇させてもらうのも、そこで意思伝達させてもらうのも、もっと言えば、連歌のように謳わせてもらう、のも、必要必然かもしれない。そう確信に導いたりする。

とはいえやはり、真面目に考えると、人様のブログに土足であがるはどうか、と真面目に考えてしまう。
ので、決して真面目に考えずに、(せめて)内履きであがってしまおう、と不真面目に思う。
いやあるいは、ここで僕が謳うその必然性を、林くんの精緻な理論(但し、単独説)に基づき、
(かつてのタイガース―プレックス並みに)美しくも強引な論理性で説いてもらえれば幸い、と(も)真面目に思う。

いずれにしても、ということで。
しばしの登壇を許し願う、食し呑みながらの今宵ひととき。

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うーむ。だいぶネチっこいキャラだと思われてるんだな。。
それにしても、理論と現実が気になるな。理論はともかく現実が気になる。

(ちなみに竹本さんは、森つくったり、ワリバシのメディア化したり、
うちのtoolboxで扱ってる無垢板タイルもつくってたり、
環境関連の法律つくりまくったり、してて、
隠岐の海士町に住んでるけど割と東京にいたり西粟倉にいたりする人)



エロキャラ

May 1st, 2012

先日マンジョルノ先輩に、facebookで、(林厚見は)たまにいいこと言うけど、
エロである。と断定されてしまった。
「ちょっ、いきなりパブリックにエロキャラ呼ばわりすか!!」とビビったが、
住宅総研の主任研究員である兄貴分にそう言われた以上、反論はしにくい。

確かに下ネタは好きだ。しょうもない下ネタも、しょうもなくない論理的な下ネタも好きだ。
そして正直なところ、エロキャラとしての自負もある。
それはいわゆる「俺は草食じゃないぜ!」というそれではなくて、もっとマジメな話として。

今朝、家からランニングをして三田綱町の住宅街や白金あたりの商店街を走りながら、
「時間をかけてゆっくりできた街はいいもんだな」と素直に思った。
一瞬でドカドカとマンションができたような町より、時間が積み重なった町がいい。
即席というのはペヤング以外は基本的によろしくない。もう日本には即席タウンは要らない。

不動産や金融の世界はしかし、どんどん資本を使いたがる。
急いでたくさん仕事をしないといけないシステムになっている。
ゆっくりやればいいのに、そこまで急がなくても幸せになれるのに、そうはできない。

もっと時間かけてやってきましょうよ、
そんなに新しいモノとか商業ビルとかいっぱいつくらなくてもいいじゃん、
お金かけなくてもドキドキできるっしょ、
と思うわけだけど、なかなかそうもいかない。

で、エロ論に戻る。いや、エロというか、LOVEというか、
これは快楽サステナビリティ的に、本質的に重要である。
要するに、お金をかけなくてもワクワクできること。
電気とか、エネルギーをそれほど使わなくても楽しくて幸せになること。
もちろん、LOVE&EROを求めればそこそこ消費や経済力も求めたり、
がんばったりもしなきゃいけないが、それはそれで健全である。
なおエロとラブを一緒に語るな!という話はまあここでは置いておく、
ていうか、当たり前だし、あくまで例えだし。

ともかく、歌って食べて愛して、それでいいじゃんというイタリア的な感覚はやっぱり良い。
たくさんモノつくったり捨てたり、バブったり上場したりしなくても、とりあえずは人生豊かじゃん、みたいな。
そういうベーシックなところでハッピーであれば、あまり間違えない。
とはいえ、それをグローバルなんとかがぶっ壊しに来るから
それなりに気合入れてがんばんないといけないのは事実だし、
それも適度にやりながらエキサイトするのもおもしろいんだけど、
ともかく物質的、ステータス的でないことにもう少し欲をシフトしておく方が、多分よい。
21世紀に地球が一つの限界を見た今、人の営みの本質に少し戻ろうぜと。
マンジョルノ先輩は、イタリア人みたいだからマンジョルノさんなんだろうけど、
だからきっとポジティブにエロキャラ呼ばわりしてくれていると思う。
だから僕は自負を持ってエロキャラを続けようと思うわけだ。

ところで、愛の最大化の観点からすると、下手すると今の日本の結婚制度なんかも
もはやLOVEのポテンシャルを阻んでいるかもしれない。そこにも「間の答え」を見つけるべきな気がする。

ふぅ。
エロキャラからだいぶ引っ張って熱弁してみたけど、まあ、冗談なんで。
走りながらこういうことを考えてると割と長く走れたりするもので。。
これもいわゆる、しょうもなくない論理的な下ネタでして。

ところで、このあたりの話にはやけに前のめりにのってくる友人がいる。
その竹本さんは、トビムシという、かなりスゴいことをしている会社をやっている。
彼とはだいたい、森とかデザインとか金融とか建築とかの話とかをし始めるのだが、
どうしても途中からエロ話に移行せざるを得ないという良好な関係を維持している。
こないだも大井町の路地裏で肉寿司を食べながらそういう展開になった。
で、その後の謎のスナック「ぺんぎん村」でおばちゃんに乗せられてヘロヘロになりながら、
まじめな話をもう少し引っ張ろうということになった。
彼にも時々ここに登場してもらって、よりクリエイティブなエロ話でも展開しようかと思う。



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