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商店街の今後

December 4th, 2017

とある記事でbeamsとUAのトップ対談を読んでいたら、ルミネがセレクトショップを入れ始めたときが業界にとって一つのターニングポイントだったという話があった。確かに駅ビルに彼らが入ったことで当時の若者の買い物やファッションにだいぶ影響を与えたんだろうと想像がつく。ストリートで始まった小さな店が駅ビルに進出し、届ける層の裾野が大きく広がっていったと。同時に駅ビルはそうして自らの意図で全体を編集してアップデートを続け、強くなった。

確かにルミネはすごい。半年くらい前に某電鉄の人たちと郊外駅のガールズバーに社会科見学(あるいはフィールドワーク)にいった際にガールズにヒアリングしたのだが、「この街にあってほしいものは?」と聞いたら、三人が声をそろえて「ルミネ!」とハモったのを覚えている。そこまでルミネは支持されているのか・・と改めて思ったのだった(ちなみに、それから?と聞いたら「シネコン!」とハモっていた)。余談だが、以前スタバにいたときに隣のOL二人が「スタバって、ほんとにいいよね〜」「ね〜♪」という会話をしていて「スタバってそんなに素敵なんか・・」とびびった記憶もある。

どちらかというと街角の個人店に思いを馳せてしまうタイプ(僕も含め)からすると、ルミネやイオンの強さについてあまり分析的に考えることがないものの、それらを客観的にとらえる目線を持っていないと、街をよくしようみたいな話も的を外してしまうだろう。彼らは今後もアップデートを続けて魅力を増していくのだ。

地方のさびれつつある商店街は、飲食はともかく特に物販は、今となっては魅力のない店が多く並んでいる。アップデートが起こらない普通の家族経営は大資本のマーケティングにそうそう勝てるわけもない。商店街やその脇にめちゃくちゃ魅力的な店を若者が始めて人気を集めているといった話はこれからもっと増えていくと思っているが、全体をきちんと復活させるようなレベルにまでなることは、自然にはそうそう起こらないだろう。

しかし自治体や商店会はなんとかしたいと思っているし、東京でがんがん働いている人々に聞いてみると「地元の商店街が寂しくなってしまった・・なんとかならないかな・・」なんて気持ちは往々にして抱いていたりする。ルミネとは対極的に負けまくっている地方の商店街は、単発散発的にいい動きが生まれた上で、さらに大胆な戦略的な打ち手を重ねていかないと未来は暗い。ある時代の産物は消えゆくのもまた自然なのだと割り切る人もいるだろうが、街の真ん中が誰も通らない場所になるのは幸せなことではない。

そんな商店街についてはいくつかの道がある。

一つは、説得力を持ち得た沿道経営体がビジネスモデルを変革していく道。街の再生に思いを馳せる若き個人たちが面白いことを始め、それが駅ビルやモールにはない類の魅力で人を惹きつける。それがある路地などに集積あるいは点在していく。彼らは互いに連携したりしながらスモール事業を拡大し、地域の社会的存在感を増していく。自治体なんかも彼らを頼ろうとする。最初は「まーここじゃ難しいんよ」と言っていた爺さんたちも「あいつらがんばっとるわな!」みたいな感じになって徐々に説得力を持ち、商店会長なんかからも徐々に信頼を得るようになっていく。

そうして説得力を持ち得た若き獅子たちは、一種のまちづくり事業体のような連合体を形成し、自治体や商店会とタッグを組んで新たな仕組みをつくっていく。まるごとストリートの店舗を借り上げてリーシングや運営を最適化したり、ネットとリアルの組み合わせで売って行く仕組みを進化させたりなどしながら新たな商店街の運営モデルをつくり出し、発信力も高めていく。アーケードの下の、広くて車があまり通らないオープンスペース(道)に公園のような機能を持たせていったりする。そうして徐々に、かつて反映した時代の商店街の姿とは違う未来をつくり出す。

もう一つは居住へ向かう道である。商店街の店舗の2Fあるいは路面にシェアハウスやコレクティブハウスなどの住宅機能が入り始める。これを自治体も制度的にサポートしていく。ただし商店街居住はリノベコストもかかり、オーナーとの関係、あるいはそもそも商店街に住むかよ!という一般論もあるので新築マンションにそうそう勝てないから、高齢者や子育てが絡む新しい空間のかたちが出てくる。こちらは一つ目と道と組み合わせて進んでいくのがよい。

さびれた商店街は不良資産のようにも見えるが、中心部に立地する既存建物群は「使える資産」ではある。だが問題はルミネやモールなどと違って、コンセンサスが進まず、改革の意思決定ができない。ゆえに変われず、全体最適に向かうアップデートが起こらない。その点は明らかにハンディである。ハンディは解消するに限る。幅広いコンセンサスをとるにはパブリックセクターの強い推進力が欠かせないし、実際にミクロにコトを動かしていくには信頼のある新しいプレーヤーが必要である。各地の家守会社などがそれを担う。

こうしたことは本来、往年の栄華を享受した世代たちが自ら根本的な改革をリードできればいいのだが現実はなかなかそうもいかない。新しい時代の発想で若い世代の小さい動きと行政の大きな決断が合流していく道が現実的に思える。そうして商店街自体もスケールダウンしながら集中化を進め、それにこぼれるところは徐々に居住化を進め、全体として新しい旧市街に移行していく。少なくとも「賑わいを生むための補助金」とかでイベントをやっているだけではことは進まない。

こういうことはいったんいいモデルができれば早いと思う。一人一人の小さな前進がなければ何も起こらないが、小さな前進が生まれているならば、それを最大限レバレッジすべく未来像を戦略的に描いて、皆でぐいぐいやるしかないのだと思う。言うは易しで実際は大変な道ではあるが・・



古いもの

December 4th, 2017

映画「築地ワンダーランド」を改めて見てみた。やはり僕にとって印象的なのは、80年前の新築時の市場の風景であった。新築だから建物はピカピカであり、いま言われるようなレトロ感なんてものはもちろんないが、多くの人々がそこで始まる新しい世界にわくわくしている様子がうかがえる。

そのとき生まれた大規模な施設は、物理的にももちろんインパクトや感動があったのだろうが、そこに見える骨太さというのは、単に新たな「施設」をつくったのでなく、それまでの日本橋の魚河岸とはうって変わった新たな機能とシステム、つまりその先の時代の環境、ニーズに合わせた新しい食品流通のかたちをつくったということだ。

そのかたち自体が時代の要請に応える骨太なものだからこそ繁栄し、80年間持続した。ゆえに愛着も生まれた。築地の風景に人間らしさを感じるのは、建築が人間らしいからではない。そこで動く人々の行為が人間的であるからである。だがそれは実は、80年前に生まれたかたちが続いているからだと言える。その時代の人々の仕事や行為は、今の時代に生まれるものからすれば全てが”人間的”に見えるはずだから。

建物は長い時間が経てば老朽化する。何がしか手を打たなければならないし、なんでも保存すればよいというものではない。引き継ぐべきものの議論と、「これからのあり方」は何かという議論があり、そのバランスで決まる。だから築地や豊洲の話というのも「市場がどうあるべきか」でなく本来は「食の流通が今後どうあるべきか」を問うことからスタートすべきものである。

そしてこれは築地に限らない話として、古いものを残すことの意味とは何なのか。建物も、街割も、記憶や文化も、残すことの意味とは何なのか。これは意外と言語化・共有化が十分にされていないのではないかと思う。

ある場所をどうアップデートするか?という場面においていくつかの軸がある。あるものを残すべきか否かという議論、その場所の持つ価値を本質的に活かすための可能性についての議論(そして市場のようなものであれば、そこに存在する機能やシステムの未来についての議論もある)。

誰が見ても歴史的な文化財と感じるものはともかく、そうでもないけど多くの人が残ってほしいと思うものについては、それを残すには日本では理由のロジックが要る。そのクリアな説明が存在しないから、多くの場合は消えていく。状況に任せて消えていくものの多くはそれでよいと思えるものではあるが、本来残すべきだったのではないかと思うものはやっぱりある。

建物保存の意義についてぱっと調べてみると「人間社会の文化的向上」といったような言葉が出てくる。たしかに文化性、文化的精神を価値あるものとするのは歴史的に正しいと考えられているし、利便だけが向上して文化的なるものが一切引き継がれない世界は豊かなものではないという共通感覚は確かにある。だが、この100年に関する限り、その認識は薄くなっていた時代だったように思える。それが100年後にどうなるのか。これはおそらく一定のサイクルで循環するものではないかと思っている。

いま、特に民間企業で働いて生きている多くの人にとっては、経済的なプラスマイナスを指標として物事が決まっていくのは自然当然である。経済的なプラマイに反する判断には理由が必要となる。だが、長期的な観点からするとそれはあくまで判断軸の一部であることも事実である。文化的であること、歴史・時間を感じること、それらは直接的に人間の心情・感覚にプラスに寄与するのに加え、観光や、都市の魅力という媒介を通じて経済に寄与もしていく。あとはその度合いの問題、個別の判断になるわけだが、少なくとも30年後や100年後に何を残すべきかという目線を社会は持つべきである。人間がもし、古いものや世代・時間を超えて引き継がれたものに魅力を感じなくなるならば保存の正当性は下がるだろうが、おそらくそうはならないだろう。人は永遠に、未来にも歴史にもときめき続ける。

先日、伝統について語ったなかなかいい文章を見つけた。いわく、伝統は残ったから伝統なのであり、ただ古いから伝統なのではないという話だった。残るだけの価値を認められてきたから偉大さがある。そして残ってきたのは愛されてきたから。愛されたものは、機能的な意味での「必要」を超えて残る。多くの人が残したいと強く思うものは、人間にとってそもそも価値がある。結局は人の思いのレベル、バランスで決まる。だから言語化は難しい。

例えばローマの街中に遺跡がある。別に美しい形態が残っているわけでもなく、ガレキの山のような遺跡も街のど真ん中に残されている。我々はそれを見てただ歴史・時間を感じるのであって、形が美しいから見るのではない。活用価値の高い空間をそうしておくのはロスもある。だがそれがあるローマは偉大だと人は思う。

一方でそこに、これから先の数百年に向けて新しい価値を持ち、また愛されるようになるものが新たにつくられたらどうだろう。時代時代に骨太なものが生まれていくことには正義がある。より良くなることに立ち向かうことは必要である。ただしそこに長い目線が関わるようにしなければならない。半端な古いものはもう要らないという人もいてもいい。ただただ残すべきだという人もいてもいい。いずれにおいても我々は、長い時間で物事を見て立ち止まり、意見の敵対する相手の立場や目線をイメージし、客観冷静柔軟に考えられるような人間である方がいい。いずれにせよ”いまここ”だけの評価でなく長期全体最適になるコトが起こっていくよう、残すことの価値波及についても、新たにつくるものの長期価値や波及についても、それらの本質と構造を把握するための枠組みや共通認識を開発しないといけない。そのへんを最近考えております。



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