凡人の主張
June 12th, 2019
斜に構えない大人になろう!キャンペーンを今こっそりやっておりまして、まあ簡単に言うと、思ったことを素直に言おうという感じのやつです。僕は人に嫌われたり批判されたりするのがこわいので、ついついそれをガードしちゃう悪いクセがあるんですが、今更ながらそれじゃだめだなというソロ運動です。
で、ちょっと急に変なことを思い立ちまして、偉大な建築家や建築界に文句を言って(書いて)みようと思った次第なのです。練習っちゃ練習ですけど。まあ僕自身はケンチク家を挫折した人間ですし、建築に関する評論的なものなど書けるわけもないポジションと見識レベルなのですが、それを気にしないのが今回のキャンペーンということで。ぶっちゃけこれ読む人ってあまりにもニッチすぎるのですがそれも気にしないことにします。
昨日、磯崎新さんのレクチャーを聞いたんですよね。本業は不動産屋なので、アカデミックで知的なお話はたまに家でかっこつけて読んだりはしますが、そっち系のシンポジウムとかは滅多にいかないのですが、次世代都市の交通とデザインみたいなやつだったし、そこで磯崎新に内藤廣に・・とか聞くと、なんか元建築少年的にちょっと気になったりもするもので、ふと思い立って行ってみたわけです。
で、まあぶっちゃけ期待はずれだったんですね。いやもちろん、内藤さんや磯崎さんの話は流石にめちゃ知的というか粋というか、かっこいいというか・・それこそいわゆるuberがどうとか自動運転時代のモビリティうんぬんみたいな話についてのありがちな未来分析のような世俗な話は一切せずに、1000年前くらいに行ってみたりめちゃ抽象的な図像とか出てきたりするわけです。そして1960年代の都市モデルの絵とか、いわゆるメタボリズムとかのアレが出てきたりして、それが投影された脇に磯崎さんが座ってるだけでオーラ満載、みたいな。
もちろん知的刺激といいますか、右脳のマッサージというか、イケてるなぁとは思ったんですが、一方でなんというか、オナニー感みたいのを感じてしまったわけです。かのセンパイたちはレベル高すぎかつビジネスマンでもないわけなので、変に現実的なソリューション☆みたいな話をしたら興ざめだよねという感覚も持っているつもりではあるのですが、さすがにこれ知的ゲームだよね、みたいな・・これをオーディエンスたちが「ふむ、勉強になった」みたいな感じになるのも微妙だなあと思ったのです。
知的ゲームはそれ自体、文化的にも社会的にも意味があると思いますし、本当に大事なことを意識して仕事するためにも高尚な目線に触れなきゃいけないとは思いつつも、さすがにこれじゃ現実の問題だとか仕事だとかとの距離ありすぎじゃね?的な感覚を持ったわけです。最初から「たまにはケンチクのウンチクを楽しもう。そういうの、大事だぜ」と言われてるならいいんですけどね、みたいな。今回の設定からすると、大先生たちはもうちょい、オーディエンスたちがこの世の厄介なコトに立ち向かう武器を与えるべきじゃない?とか感じたんですよね。
なんか、建築の偉い世界っていうのはこういう空気というかプロトコルというか、このカッコいい感じっていうのが昔からあって、それは価値はあるんだけど、その感じばかりで押してくるので多くの学生からプロまでもがその影響受けすぎてなんか勿体無いことになるような気がしています、昔から。まあ芸術カテゴリっていう意味では、そうそう俗世な話ばかりに行ってはいけないのは当然なんでしょうが、ケンチクにおいてはそれは1980年くらいならよかったかもしれないけど今さすがに違うくない?みたいなやつです。ソリューション的に「提案」みたいのもなかったし。深い投げかけがなかったとはもちろんいいませんけど・・
でですね、途中から見方を変えましたと。いわゆる60-70年代の都市モデルみたいなやつを見ながら、これ系って、いつも賞賛されてるけどいいのかしら?という問いを持ってみたわけです。メタボリズムとかって、思考実験とかアートワーク的に言えばすごいバリューありまくりだと思うけど、失敗ちゃうの?みたいな。当時は批判もされたけどもう過去だから、価値あるとこだけ振り返ろうよみたいになってない?みたいな。僕なんぞは現実的に日本の都市とか地域とかについてまじどうすりゃいいんだ?とか割とまじめに考えたり一応しているので、リアリストといいますか、まあファンタジーに欠けることがいつも反省だったりもするわけですが、でもやっぱりあの時代の一連のやつって、政治もキャピタリズム自体も含めた現実には反映できなかったのは事実でしょうと。
リアリストとしてはやっぱり、思考や表現に価値はあったもののそこで終わることは本望ではなかったはずだよねと思うし、野望を実現するためにもうちょい必要な他業種の人とのコラボ議論とか現実的な戦略とかスタディしておけば違ったのでは?くらいはやればいいんじゃないのとか思うわけです。でもそういう形の批判や反省というのは全く見あたらないんですよね。自分の文化的見識の浅さを自覚した上でも、むずむずします。
いやいや、ああいう挑戦的な思考があって色々生まれたんだ!とか、カプセルタワーは偉大だろうが!とか、コルブのガーデンシティがあった上で色々やってみて人間は気づきを得てジェイコブズとかに進展したんだとか、いろいろあるのは一応わかっているつもりではあります。しかし、負けというか挫折というかそういう部分について、何が欠けていたんだろう?的な話をしないで来たことでケンチク族や世界が失ったものも大きくないですかね、みたいな。しかもあんな頭よくてクールな人たちが皆でポジティブに語ってたら誰も現実的なほうから文句なんて言えないし・・とか。
そんなことを柄にもなく考えたりしてるうちに「メタボリズム 批判」みたいなググりを始めてしまいました。おれ何やってんだって感じですが面白くなってきてこれを書くに至っているわけですが、ともかく出てきたのは何かというと・・
例えばこういうの(https://www.mori.art.museum/blog/2012/01/6-3.php)が出てきました。いわく「メタボリズム当時に唱えられたメイン・ストラクチャーとサブ・ストラクチャーという概念は、今持続可能な建築モデルとして、ストラクチャーとインフィルという概念で受け継がれようとしている。今後、しっかり受け継いで貰いたい」とか、ぶっちゃけいまいち無理があるなあという感じだったり、
「黒川さんの都市型の農村住居は、四角いコンパクトなコミュニティの提案で、今回の震災と重ね合わせた時(中略)すでに現れていたことを改めて感慨深く見つめ直すことができる」とかって言うのも、感慨深く見つめなおせる、って言ってもあんまり未来につながる感ないなあとか、「震災を題材にメタボリズムを進展させることはできないだろうか?」とかって問いかけられても・・みたいな。
さっきの話に戻ると、メタボリズムとかも若干苦しげな賞賛するよりも「まあ運動や発想やパッションは改めて刺激受けるべきだけど、あれは現実には勝てなかったね、実現していこうとするならこういうコトや視点やヒトが必要だったんだろうね。で、今からの話として考えるならさあ・・」ってやった方がいいような気がしたりします。そしてそもそもああいう都市モデルをどかーんと提示するならば、リアルにやろうと思うならもっと現実分析が必要だったんだなぁとか、逆にアート的態度でガン!とやるのであればそう宣言した方がよかったし、そういう意味ではピータークックの方がむしろマトモやん、みたいな感じもしてきます。
この南條さんとレムの話のレポート(http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2011/10/why_metabolism_now.html)なんかも、面白いけど微妙にムズムズする話が続いたあとに「政府や(国交省次官だった)下河辺さんらが描いた脚本に沿って(メタボリストたちは)自分たちの役割を果たした」とかってなってるけど、実際は下河辺さんは丹下さんとかのめちゃ知的でバリュー高いフレームワークに大いに耳を傾けたけど中身的にはほぼ採用しなかったということのようだし、やっぱ答えてないじゃん!という印象を持ちます。いま解体で話題の都城市民会館も偉大だし、そうしたアートピース(というのが良いのかアレですが)が生まれること自体の素晴らしさとかはわかってるつもりではあるんですが・・
ともかくですね、やっぱり閉じたコミュニティといいますか、偉大な先輩は批判しない的な空気を感じるんですよね・・(自戒を込めて)
で、そんな中でとある税理士のブログ(http://blog.livedoor.jp/ifukano/archives/3771535.html)がなかなか個人的に傑作でした。これによると、僕は知識が浅くてわかってなかったんですが、磯崎さんは「メタボリズムは今やお笑い。その展示やシンポはお笑い番組なんだ」とか言ってるんですね。ここへ来て、さすがやね・・と思いました。でこの税理士は「結局一度もカプセルは取り替えられることなく、取り壊しの危機に瀕しています。これが失敗でなくて何でしょう」と堂々と言い「結局メタボが対処できなかった都市の変貌は、アレグザンダーや磯崎さんが表現した都市の自然的or偶発的形成ですらなくむしろ必然的暴力が背景にあり、それを生んだのはキャピタリズムという化け物だったのではないでしょうか」とか言っていたりして、なんか専門家の話よりすっと入るな、みたいな。
ともかく、僕の今宵の勉強によると、全総の時代は政府も官僚も建築家に期待していた、しかしその期待には答えきれなかったということなんだなとわかりました。そして今、国交省なんかがリノベまちづくりに期待していたりするわけですが、僕はそうした中でも自分も関わるリノベまちづくりを自己批判もしながら進化させていくべきと思ってたりするあたりが自分のマジメさだよね、とか思っています。