前に、greenzの兼松くんと小野くんと飲んでたときに、僕は寿司の話を得意げに話した。
本にも書いたネタだけど、簡単に言うと「お金に関する自分の価値観・バロメーターは、
ウマい寿司を気がねなく食べに行ける経済力があること。そこは確保したい。
それ以上については他の大事なこととのバランス次第でしかない」という話である。
自分にとってはそれはカレーではダメだし、フェラーリではない。
とにかく回る寿司しか食べられないのはいやだ。
だから僕は”それなりに”稼がないといけない、と。
そしたら2人に即座に言われた。
「うーん、僕らはちょっと違うかなぁ。うまい寿司を握っていている人が友達で、
だからすごく安く食べさせてくれる、というのが理想ですねぇ」と。
僕は一瞬で「あ。なるほど・・先行ってる。。」と、自分の感覚が既にちょっと古いんだと感じた。
古いからダメとかいう話でもないんだけど、世の中は彼らの価値観の方に動いてるのは確かだろう。
いずれにせよ僕はスシを食うための手段において想像力が欠けていたわけで。
とりあえず今後はうまいスシを握る人と仲良くなることにする。
ところで、ウマいものを知るとそれほどウマくないものを食べるのがつらくなる、という面がある。
ウマいものを知るのは幸せなことだけど、正直に言うと、
ペヤングを食べる時間の幸せ度は、昔の方がちょっと高かった。
そういう意味で、ときどき「知らない幸せ」みたいなものを意識する。
もちろん「一流のものを知っている」的なこともいいんだけれど、それは
優越感みたいな意味であるならば大した価値はなく、
自分がそれによって本当に質の高いものをつくったりに感動を与えたりできなきゃ意味がない気もする。
ともかく腹を満たすとウマく感じなくなるように、欲望を満たすほど快楽が減っていく面がある。
僕の提唱する(?)「幸せ微分論」というのがあるが、これはつまり、
幸せ感というのは絶対値ではなくて、昨日より進化していること、
そして今日より明日は進化できると思えることにある、
あるいは、欲望は少しずつ満たしていくのがいい、というもの。
大人になるとなかなか感動しなくなるよね、的な話がたまに出るけれど、これは重大な問題だと思う。
不感症になったからお金使って派手にやるというのもあんまりイケてなくて、
むしろ自然に帰った方が感動したりもするわけで、
そうした感動のシフトをしなやかに繰り返し持続できる柔軟なマインドや行動力のようなものを持っていたいと思ったりする。
はじめまして、イイお話ありがとうございます。僕は女性との付き合い始めに、イキナリ「大きな花束」を渡さず、少しずつでもいいから続けて花束を渡せるように小遣いのコントロールを心がけていました。 また、不感症を自覚したら、海にいって、サザエやシャコ貝などの獲物ををとり、自分の動物的な所を刺激しています。