ローカリティ

March 24th, 2013


一家族一住居でなく500人を単位として住むという山本理顕さん達による地域社会圏主義の提案は、家の意匠や構成ではなく社会システムや価値観の話であり、建築家のこれからのテーマの立て方としてまっとうに思えるし、未来を考えるきっかけの一つとして興味がある。本をちゃんと読み込んだわけじゃないのであくまで浅い認識しかない前提で言えば、これは民間ベースでそのまま実現するものでは確かにないだろう。でももしパブリックも巻き込んで実験的にやろうとすれば、物理的な形は違えどもその本質に沿ったものが意外とできてしまうような気がしてくる。だから彼らがそれを実現できる方法や場所を探して動き始めたりしたらおもしろいなと思っている。僕自身は今は大都市で匿名的な住み方で全然OKなのだけど、実はそれも、自分が気持ちいい住み方について本当に充分な想像力を持った上でのことなのか、我ながら少し疑問もある。


山本さん達の提案は500人の中で生産も流通も消費も全て完結するという類いの話ではなく、数百人という単位でまとまりをつくって共有する空間を拡大し、エネルギーの考え方、あるいは人間関係や生産・消費に関する根の張り方を変えていくと、新しい合理性や豊かさあるいはリスクヘッジができて来るというような話だと理解している。僕にはこれはいわゆるコーポラティブに通じる部分があるように思える。特に、僕がこの数年強く影響を受けている甲斐徹郎さん(チームネット)によるコーポラティブハウスの世界観における、いわゆるコミュニティベネフィットの本質のようなことだと。ちなみにコーポラは外から見ているよりも遥かに幸せな世界のようだ。プロジェクトによってもちろんばらつきはあるものの、普通の住み方をしていては想像できないようなポジティブで健全な帰属意識や程よい人間関係、そしてある種の合理性があるらしい。僕らはまだわかっていないことが色々ある。


僕の興味ある場所にイタリアのソロメオという街がある。ここはカシミアニットの高級ブランドであるクチネリ社の街であり、街の多くの住民がクチネリの従業員である。オーナー社長のクチネリ氏は13世紀の古城を修復して本社にし、質の高い手仕事を武器に世界に商品を送り出し、街に雇用を生みつつ、利益の一定割合を街の建物や道路などの保存・再生に使う。社の敷地には劇場や音楽室や図書館もあり、人々は誇りと文化的ゆとりを持って、この街でこの会社で仕事をする。自分はソロメオには行ったことはないのだけど、ざっとこういう話らしい。こういう事例はもっと共有した方がいい。ソロメオはいわゆる自給自足とかではなくて、外の世界にマーケットを持って成立しているわけだけど、地域の経済サイクルと文化がバランスしていく一つの形として見事な話であり、日本の離島なんかでも参考になりそうだ。外(都会)のマーケットをちゃんと取り込んでいくためには、地域なりの技術や感性と、都会の感覚を両方組み合わせる必要があるし、本当にビジョンを現実化できるプロフェッシナルな力が必要になる。事業スキルと文化センスを日本も早くからバランスよく教育しないといけない。


ローカリティとか多様性というのは、今迄積み上げてきた「集約による生産性向上、それと並行して進む均質化」というやつとは一義的には矛盾がある。集約と均質化が進んできたから作用反作用的にローカリティが支持されるという構造が今あるわけだけど、ヨーロッパなんかは日本よりずっと普通に現代的なセンスでローカリティに価値を見いだすことがコモンセンスとして強くあるように見える。で、ポートランドなんかになるともう少しコンセプチュアルに、「ローカル・ファースト(地元の店やモノを優先しよう)」という価値観、といった具合になってくる。
ナショナルチェーンやグローバルブランドが、世の中を均質化したり、個人の顔や背景の見えない消費を進め、それが巡り巡って結果的に無意識的に格差や貧困を生んでいく・・というのがあるとすると、つまりナショナルチェーンは悪ということになるのか?という話になってくる。確かにローカリティに反するナショナルチェーンの構造を前提にするとそういうことになる。ただ、僕は少なくともナショナルチェーンが悪だ、とは思っていない。感覚的に、吉野家もスタバも悪だとは思っていないし、むしろ集約したり標準化して生産性が上がるべきところはとことんやって、その上のレイヤー(商品やサービスやデザインや価値観やストーリーとか)でカスタマイズがあり、そこでローカリティとつながってくればいいという感覚がある。同じ名前のバーガーショップであっても、そこで人がどう出会い集まりコミュニケートするかが場所によって違ってくるみたいなことになればちょっとおもしろいし、それを誘発する構えをつくることも可能で、そうしたことがブランドを高めることもあると思う。


ナショナルチェーンというのはカスタマイズに対して柔軟である方が、あるいはそれを前提につくる方が、これから強いのではないかという気する。吉野家だって、今はいいかもしれないけどこのままではどこまでも値段競争をしていかざるをえない。均一主義でいけば均質拡大のベクトルが強化され、結果、壁にぶちあたりやすい。セブンイレブンの売れ筋標準化的な側面は、強さだけど、同時に危なさかもしれない。自分ががセブンの人間なら、データ分析からラインナップを地域や店ごとにカスタマイズしていけばよい、それが答えである、というドライな感じでは、いつか世の中の新しい価値観ベクトルを理解できない組織になるのではと懸念を持つだろう。データでの変化からだけではその意味合いを理解できなくなる時が来ると。
そう考えるとフランチャイズというものも、必ずしも均質を意味せず、新たな定義が可能であり、それは例えばフレキシブルなテンプレートと、カスタマイズのネットワークという構造を持ってもいい。僕は今後、工務店などにその構造をあてはめるとおもしろいと思っている。そこでは個別な「人」が見えることも意味があるし、属人的な価値や偶然的な状況に対応できることが必要になる。そして同時に、束ねるべきものは束ねて効率を上げる。そしてそれらのあり方は、変化し続ける。みたいな。


いわゆる地方都市の中心部の商店街では、中心市街地がだめで郊外モールが栄えていたりするというのが問題になるが、別に中心が絶対的にダメなわけじゃなくて、要するに「上手くやれるかどうか」の話だと思う。今はモールの方がプロがつくって検証しマネジしてるフォーマットであり、それゆえに強いということに過ぎないのだと。だから個人の事業者たちは、徒党を組み、そして先進的な知識や感性を持ったプロが絡み、そして長期全体最適の姿を追求できる体制をつくることが大事なのではないか。


現代においては多様であるというのはなかなか大変だ。会社組織において多様性を維持するのが大変であるとか、学校でクラスや先生が多様すぎると色々厄介なことになるとか、色々な場面でそう思われている。だから現実的な作戦としては、多様性や地域性や人間性という魅力を、経済価値にちゃんと転嫁すること。自分たちにとっては今はその実践のタイミングである。そしてやがてその方法と経験は、ローカリティを生かす街の再生にも役立つだろう。自分としては10年後までに、そのあたりの準備を重ねていこうと思っている次第。





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