残念な判断

March 4th, 2012

マーケティングリサーチや過去実績に基づいた、ある程度の精度で結果が見える企ては、リスクをとる意思決定者にとって、当たり前だけど、乗りやすい。そういう企画というのは基本的に新しくはないから、さほど驚きや感動がない場合が多いのだけど、それだけだとつまらないから、クリエーター的な人たちや、チャレンジ精神旺盛な素敵な経営者などは、時として、感性や創造力によって新しい可能性を提示したり、それに賭けてみたりする。大事なことだ。

こういうときによく見られる2つの残念なパターンがある。1つは、それが実は素敵で成功する「正解」なのにそれを認識できず見送ってつまらない判断をするパターン。もう1つは、提示された「新しい可能性」や「感性の産物」が残念ながら外れているのに乗っかってしまうパターン、である。これらがいわゆる「残念な判断」だ。

これらの残念が起こるのはそもそも、ビジネスとかマーケティング目線のカンや想像力と、クリエイティブ目線の認識キャパが、(意思決定する人やアイディアを出す人、いずれも)に「同居」しにくいことが大きな原因としてある。で、おっさん~意思決定者のことをそう呼ぶことにする~が自分で結果を想定できないアイディアにも「やってみよう!」とせっかく勇気を持って乗っかっても、やっぱり時々外れてしまう。建築や不動産のプロジェクトだと額が大きいだけに、痛い話となる。一方、アイディアが実は見事に成功しうるものなのに、それを認識・想像できないおっさん(達)が見送ってしまう場合は、「痛さ」はさほどではないが、旅行先で死ぬほどうまい蕎麦屋を知らずに通り過ぎて隣の今一な蕎麦屋に入ってしまったくらいの哀しさが生まれることになる。

課題は2つある。提案した本人だけでなく、上記両方の目線を含めた想像力を持った第三者から見ても、明らかに成功する創造的な解だとわかる場合に、それが成功する解だということを意思決定者がいかに知れるか。限られたプレゼン機会や検証では、その認識は大抵不十分になる。もう1つはその逆で、一見おもしろくてうまく行きそうだけど、両目線的に”見えている”人からすれば、明らかに商売的に×、みたいな場合にそれを意思決定者がいかに知れるか。

誰のデザインがどういうタイプの仕事においては当たる外れる、とか、誰々がやる店はきっとこういう条件や規模ならだいじょうぶだろう、とか、誰々のアイディアはリスクは高いけどスゴい結果が生まれることもありそうだ、だけどそのあたりは誰々がアウトプットを見ればどっちかだいたい判断できる、みたいな、そういう見立てができる人というのは、ある程度、いる。それは有名性とはさほど関係ないけれど、専門性にはある程度関係ある。

残念な判断を減らし、素敵でアツい判断を増やしていくには、そうしたプロフェッショナルレビューのような場があるといいかもしれない。それはfacebookのような大きくオープンなプラットフォームで展開するのではないような気がする。情報を活用するユーザーは当然限定的で、それなりの対価を払う。レビューする人も責任を持って仕事としてレビューをし、その情報・判断の質も問われ続ける。confidentialityは誰かがしっかり管理する。みたいな。どうかな。。もうちょっと考えてみることにする。





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