April 16th, 2013
だいぶ前に建築家の役割という題で書いたのは、資本の論理をふまえて戦い方を考えないと、ほんとに食えなくなってしまうという話だった。自分のことをだいぶ棚に上げつつその続きをもうちょっと考えてみる。
そもそも建築家というのは、ニーズなりマーケットがあるからやる、という仕事じゃなくて、「ニーズがあるかどうかでいったらかなりキッツいのはわかってるんだけど、やりたいんだもん」という世界なので、ビジネスの一般論からすれば”儲からない”に決まっている。ただこの話は食える食えないの話以上に、社会的に重要な仕事たりうるかという話であって、そういう意味で正しい形にアップデートしていかないと、そもそも世の中的によろしくない。感覚的な言い方だが、今までのイメージの”建築家”は現状の2割くらいに減っていいと思っている。実際、同世代で”建築家”をやってる人の半分以上は、別の仕事をするか、そうでなくとも”建築道”の王道とは違うアプローチでいった方がずっとわくわくできて、かつ影響力を持っただろう、という感覚がある。
なぜそうなっているのかと言うと、仕事のパイが量的に減ってるということもあるが、社会へ与えるインパクト(影響力)が限られているという実感があるからではないかと思う。空間や街をデザインする際に、建物や内装のかたち(意匠)によって生み出せるメッセージは時代とともに(相対的に)小さくなっていて、そのことがいよいよ実感されてきているということかもしれない。そしてもう一つはいわゆる世知辛い問題、つまり短期合理性が益々追求されて、文化的なるものに予算や時間が与えられにくい社会になっていることがある。
あらゆる課題において新しい切り口や答を出すのが難しくなってきており、ハード中心のコンセプトをつくっても現実は思うような状況にならなかったり、美しき斬新な表現をしてみてもさほど世間から関心を持たれなかったりする。かつて60〜70年代にも、都市の未来構造を絵に描いて”どーだ!”と言っても結果的に現実に全く反映されなかったりしたわけだけど、今はもう建築スケールにおいても、商業空間はもちろん、集合住宅ですら、ハコの意匠の価値の限界はだいぶ見えている。建物の形で人はそれほどの感銘を受けず、価値観はもとより生活や活動にも大きな影響を受けず、更にはアートな文脈ですら新しい強いメッセージとして成立しなくなってしまった。「そんなことないよ」と言いたいのもやまやまだし、素晴らしいものももちろんあるけど、ちょっと冷静になれば認めざるを得ない。ビジョンはもうハードだけでは構成しえないという気がする。
思えば自分は建築家という職能の定義をもっと広げて考えたらいいのではないか、事業企画なり流通なり投資なりを実践することを含めて捉えてもいいのではないかと思っていた時期もあったが、今はそれはやはり違うと思うようになった。「建築家」は、例えるなら”アーティストではなく絵描き、つまりその仕事は空間創造における手法領域の一つなのだと捉え、むしろその解決領域にはもはや限度があることを前提とすべきだと。近代芸術で絵画というメディアが主であったとすると、現代アートにおいてはあくまで一つの手法の選択肢となった。実際、自分が「こんな場所があったらいいな」と思うことがあったとしても、そこでアイディアやストーリーの軸をつくるリーダーとして建築家が相応であるような機会は減っていると思う。多分、図書館や美術館ですらも、そうなっていく気がする。
グラフィックデザイナーでなく、クリエイティブディレクターなる人がストーリーを組み立てるように、問題解決の複合性とともに創造のフォーメーションは変わって行く。そのときにアーティストやディレクターに相当する言葉が何かは未だにわからない。あえて急いでネーミングする必要があるとも思わないし一つにまとめるべきとも思わないが、直感的に、アーキテクトという言葉でまとめるべきではないとは思う。いずれにせよ、力強い場所創造のディレクションは、建築家の個人技では(極めて一部の例外を除いて)なかなかできないものだ。社会的課題や事業的課題を空間的にクリエイティブに解くということは、少なくとも従来の建築家の教育や思考の枠では務まらなくなっていることは確かだと思う。これはネガティブにも見えるけど、ポジティブに見れば、空間の創造や解決の方法や切り口の幅は多様でありうるということでもある。
そうした中でどう動くのか。当然答えは一つではなく無限にあるわけだけど、いくつかのタイプに整理することはできる。一つは建築家、もう一つはソリューションアーキテクト、それからプロデューサーという具合。「建築家」は美しい空間や、”空間的に斬新な”アイディアを形にするアーティストであり、ソリューションアーキテクトは多面的な問題解決の中で全体観や現実的要請・状況をきちんと把握しながらハードデザインを行うデザイナーであり、プロデューサーは課題解決を多面的に行う際に複合的なキャスティングをしながらハードもソフトも(あるいはマーケティングも)含めて統合的な答えをつくるリーダー、という感じか。
今の建築家は、ソリューションアーキテクトのような感じのカタりをキメながら、実は絵描き的建築家であって、その領域の外については実はあまり現実的な分析や知見を持っていないという人が多いと思う。それは大抵の人が”なんでも設計します”というスタンスである以上、どうしても限界があるのだけど。プロデューサーの立ち位置でマニフェスト的なアウトプットをする人もいるが、惜しいことに、発想はいいのに現実感という意味では途中のカッコいいところで詰めを止めて抽象的なメッセンジャーに留まろうとしてしまったり、他の領域のプロを巻き込みたがらず自分だけでできる範囲だけで解くのをやめてしまう人が多いように思う。
やっぱりそれでは影響力にも、求められる機会にも限界がある。問題解決のリーダーシップをとり、多面的なアイデアを出したり集めたりし、具体的に現実をブレイクする筋道を提示できるような人にならないと、社会から本当に必要とされる場面をつくれないのではないかと思う。建築を好きで学んだ人たちはみんな、いい発想と感性を持っており、そして現実的な分析力も本来はあるんだから、現実の解決志向を避けてきれいに動ける範囲にとどまる構造から脱却すべきだと思う。(もっとも、世界的に活躍しているような一部の人は、ここでの話はちょっとあてはまらないし、あてはめる必要もない。年間数人までとかの話だけど)。
僕の感覚では、建築家の卵にあたる世代に関していえば、”建築家”が1〜2割、ソリューションアーキテクト(ふう、でなくリアルな)が3〜4割、プロデューサーが1割、あとは別の世界で大活躍しちゃいましょう、という感じ。僕は社会学者的な立場ではなくあくまでビジネスのアプローチで建築に関わっているので少し偏りがあるかもしれないが、日本は一般人がデザインリテラシーが低すぎて、建築家がビジネスリテラシーが低すぎることもあって、やっぱり”マーケット(市場)”の理解というのはもう少し危機感を持って取り組むべきだと思う。
建築家に駅前のデザインを頼めば、まず全く市場原理を無視した発想が始まってしまうことはよくある。マツキヨやマックがどれだけ高い条件を提示してくるのかを知らずに無邪気に山手線の駅前の路面に個人店カフェを書いてしまうようではプロとは言えない。市場の現実を最低限わかった上で、短期的な市場原理を乗り越えるための策略とともに答えを提示することができなければそれは案として無価値である。”市場”の力はまだまだ強力であり、当面さらに強力化する。そこにもっと覚悟が必要だと思うのだ。強烈なデザイン一発で課題解決を支配することは理想だけど、少なくとも厄介な意思決定がつきまとう日本という国においては(あるいはこれから市場力が益々増して行く世界各国でも)現実的な戦略は常に必要なのだ。
さらにプロデューサーたろうとする場合、キャスティングをリードすることが必要で、そのためには現実の問題の全体構造を知る必要がある。そしてそれを可能にするのは、きれいごとでなく、現実の状況を解く手順を理解するために必要な知識や洞察を持つことと、場面によって「建築家」としての職能境界を乗り越えていく行動である。自分の表現の邪魔をされたくないという動きをするよりも、巻き込み巻き込まれた方がうまくいくものだ。そこに踏み込んでいくと、自らの究極の仕事は「建築家」じゃないと気づき、その結果、建築事務所に設計者でない人が入ってきて、気づいたら設計事務所じゃなくなっていくこともあるかもしれない。でもそれこそが自然なアップデートなんだと思う。
そう考えて行くと、やっぱり教育もメディアも変わっていくべきだし、新しいロールモデルも必要だと思う。教育に関して言えば、基礎教育は空間意匠でいいのだけど、それにまつわる諸条件、広がり、関連性、といったもの、つまり空間デザインというスキルが社会的に・文化的にリアルに価値を生んでいくために必要な連携なり仕事のあり方というものをチラ見せすることはもっと必要だと思う。メディアに関しても色々思うところはあるけれど、建築家やデザイナー自身が自分のスタンスや知見の範囲をどうしても広く見せオールマイティに答を出せるように見せてしてしまう中で、一人一人の持ち味や視点の限界を客観的に評価して伝えることをしないといけないように思っている。
いずれにせよ建築の機会というのは減るわけだし、建築的発想力やロマンを持っている人は、全然違う場所(業界)にポーンと行って数年を過ごして、その上でオリジナルな、時代と自分に合った新たな仕事に取り組むというのはとてもいいと思う。人は30を過ぎると「自分は○○の人間だから」と新しい領域に飛び出ることをしなくなることが多いけれど、それはもったいない。自分も32から不動産仲介屋を始めて営業をやってみたり、あるいはかつてやらない選択をした「設計」を自分の仕事の中に組み込もうと仲間と組んで仕事の幅を戻すように広げたけれど、「やってみる」と「人と組む」の組み合わせで、仕事なんていかようにもシフトできると思うようになった。かく言う自分もこんな偉そうなウンチクをかたるのも相当えらそうであることはわかっているし、そろそろ自分を固めてしまっている気がしてきたから、数年先にはポーンと別の場所に行くことも考えたりする。 でももちろん、”それでもおれはケンチクなんや!”という人は、建築家として技やアイディアを磨き上げ、時として人に大きな感動を与えるのだろうと思う。
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建築家の役割2
April 16th, 2013
だいぶ前に建築家の役割という題で書いたのは、資本の論理をふまえて戦い方を考えないと、ほんとに食えなくなってしまうという話だった。自分のことをだいぶ棚に上げつつその続きをもうちょっと考えてみる。
そもそも建築家というのは、ニーズなりマーケットがあるからやる、という仕事じゃなくて、「ニーズがあるかどうかでいったらかなりキッツいのはわかってるんだけど、やりたいんだもん」という世界なので、ビジネスの一般論からすれば”儲からない”に決まっている。ただこの話は食える食えないの話以上に、社会的に重要な仕事たりうるかという話であって、そういう意味で正しい形にアップデートしていかないと、そもそも世の中的によろしくない。感覚的な言い方だが、今までのイメージの”建築家”は現状の2割くらいに減っていいと思っている。実際、同世代で”建築家”をやってる人の半分以上は、別の仕事をするか、そうでなくとも”建築道”の王道とは違うアプローチでいった方がずっとわくわくできて、かつ影響力を持っただろう、という感覚がある。
なぜそうなっているのかと言うと、仕事のパイが量的に減ってるということもあるが、社会へ与えるインパクト(影響力)が限られているという実感があるからではないかと思う。空間や街をデザインする際に、建物や内装のかたち(意匠)によって生み出せるメッセージは時代とともに(相対的に)小さくなっていて、そのことがいよいよ実感されてきているということかもしれない。そしてもう一つはいわゆる世知辛い問題、つまり短期合理性が益々追求されて、文化的なるものに予算や時間が与えられにくい社会になっていることがある。
あらゆる課題において新しい切り口や答を出すのが難しくなってきており、ハード中心のコンセプトをつくっても現実は思うような状況にならなかったり、美しき斬新な表現をしてみてもさほど世間から関心を持たれなかったりする。かつて60〜70年代にも、都市の未来構造を絵に描いて”どーだ!”と言っても結果的に現実に全く反映されなかったりしたわけだけど、今はもう建築スケールにおいても、商業空間はもちろん、集合住宅ですら、ハコの意匠の価値の限界はだいぶ見えている。建物の形で人はそれほどの感銘を受けず、価値観はもとより生活や活動にも大きな影響を受けず、更にはアートな文脈ですら新しい強いメッセージとして成立しなくなってしまった。「そんなことないよ」と言いたいのもやまやまだし、素晴らしいものももちろんあるけど、ちょっと冷静になれば認めざるを得ない。ビジョンはもうハードだけでは構成しえないという気がする。
思えば自分は建築家という職能の定義をもっと広げて考えたらいいのではないか、事業企画なり流通なり投資なりを実践することを含めて捉えてもいいのではないかと思っていた時期もあったが、今はそれはやはり違うと思うようになった。「建築家」は、例えるなら”アーティストではなく絵描き、つまりその仕事は空間創造における手法領域の一つなのだと捉え、むしろその解決領域にはもはや限度があることを前提とすべきだと。近代芸術で絵画というメディアが主であったとすると、現代アートにおいてはあくまで一つの手法の選択肢となった。実際、自分が「こんな場所があったらいいな」と思うことがあったとしても、そこでアイディアやストーリーの軸をつくるリーダーとして建築家が相応であるような機会は減っていると思う。多分、図書館や美術館ですらも、そうなっていく気がする。
グラフィックデザイナーでなく、クリエイティブディレクターなる人がストーリーを組み立てるように、問題解決の複合性とともに創造のフォーメーションは変わって行く。そのときにアーティストやディレクターに相当する言葉が何かは未だにわからない。あえて急いでネーミングする必要があるとも思わないし一つにまとめるべきとも思わないが、直感的に、アーキテクトという言葉でまとめるべきではないとは思う。いずれにせよ、力強い場所創造のディレクションは、建築家の個人技では(極めて一部の例外を除いて)なかなかできないものだ。社会的課題や事業的課題を空間的にクリエイティブに解くということは、少なくとも従来の建築家の教育や思考の枠では務まらなくなっていることは確かだと思う。これはネガティブにも見えるけど、ポジティブに見れば、空間の創造や解決の方法や切り口の幅は多様でありうるということでもある。
そうした中でどう動くのか。当然答えは一つではなく無限にあるわけだけど、いくつかのタイプに整理することはできる。一つは建築家、もう一つはソリューションアーキテクト、それからプロデューサーという具合。「建築家」は美しい空間や、”空間的に斬新な”アイディアを形にするアーティストであり、ソリューションアーキテクトは多面的な問題解決の中で全体観や現実的要請・状況をきちんと把握しながらハードデザインを行うデザイナーであり、プロデューサーは課題解決を多面的に行う際に複合的なキャスティングをしながらハードもソフトも(あるいはマーケティングも)含めて統合的な答えをつくるリーダー、という感じか。
今の建築家は、ソリューションアーキテクトのような感じのカタりをキメながら、実は絵描き的建築家であって、その領域の外については実はあまり現実的な分析や知見を持っていないという人が多いと思う。それは大抵の人が”なんでも設計します”というスタンスである以上、どうしても限界があるのだけど。プロデューサーの立ち位置でマニフェスト的なアウトプットをする人もいるが、惜しいことに、発想はいいのに現実感という意味では途中のカッコいいところで詰めを止めて抽象的なメッセンジャーに留まろうとしてしまったり、他の領域のプロを巻き込みたがらず自分だけでできる範囲だけで解くのをやめてしまう人が多いように思う。
やっぱりそれでは影響力にも、求められる機会にも限界がある。問題解決のリーダーシップをとり、多面的なアイデアを出したり集めたりし、具体的に現実をブレイクする筋道を提示できるような人にならないと、社会から本当に必要とされる場面をつくれないのではないかと思う。建築を好きで学んだ人たちはみんな、いい発想と感性を持っており、そして現実的な分析力も本来はあるんだから、現実の解決志向を避けてきれいに動ける範囲にとどまる構造から脱却すべきだと思う。(もっとも、世界的に活躍しているような一部の人は、ここでの話はちょっとあてはまらないし、あてはめる必要もない。年間数人までとかの話だけど)。
僕の感覚では、建築家の卵にあたる世代に関していえば、”建築家”が1〜2割、ソリューションアーキテクト(ふう、でなくリアルな)が3〜4割、プロデューサーが1割、あとは別の世界で大活躍しちゃいましょう、という感じ。僕は社会学者的な立場ではなくあくまでビジネスのアプローチで建築に関わっているので少し偏りがあるかもしれないが、日本は一般人がデザインリテラシーが低すぎて、建築家がビジネスリテラシーが低すぎることもあって、やっぱり”マーケット(市場)”の理解というのはもう少し危機感を持って取り組むべきだと思う。
建築家に駅前のデザインを頼めば、まず全く市場原理を無視した発想が始まってしまうことはよくある。マツキヨやマックがどれだけ高い条件を提示してくるのかを知らずに無邪気に山手線の駅前の路面に個人店カフェを書いてしまうようではプロとは言えない。市場の現実を最低限わかった上で、短期的な市場原理を乗り越えるための策略とともに答えを提示することができなければそれは案として無価値である。”市場”の力はまだまだ強力であり、当面さらに強力化する。そこにもっと覚悟が必要だと思うのだ。強烈なデザイン一発で課題解決を支配することは理想だけど、少なくとも厄介な意思決定がつきまとう日本という国においては(あるいはこれから市場力が益々増して行く世界各国でも)現実的な戦略は常に必要なのだ。
さらにプロデューサーたろうとする場合、キャスティングをリードすることが必要で、そのためには現実の問題の全体構造を知る必要がある。そしてそれを可能にするのは、きれいごとでなく、現実の状況を解く手順を理解するために必要な知識や洞察を持つことと、場面によって「建築家」としての職能境界を乗り越えていく行動である。自分の表現の邪魔をされたくないという動きをするよりも、巻き込み巻き込まれた方がうまくいくものだ。そこに踏み込んでいくと、自らの究極の仕事は「建築家」じゃないと気づき、その結果、建築事務所に設計者でない人が入ってきて、気づいたら設計事務所じゃなくなっていくこともあるかもしれない。でもそれこそが自然なアップデートなんだと思う。
そう考えて行くと、やっぱり教育もメディアも変わっていくべきだし、新しいロールモデルも必要だと思う。教育に関して言えば、基礎教育は空間意匠でいいのだけど、それにまつわる諸条件、広がり、関連性、といったもの、つまり空間デザインというスキルが社会的に・文化的にリアルに価値を生んでいくために必要な連携なり仕事のあり方というものをチラ見せすることはもっと必要だと思う。メディアに関しても色々思うところはあるけれど、建築家やデザイナー自身が自分のスタンスや知見の範囲をどうしても広く見せオールマイティに答を出せるように見せてしてしまう中で、一人一人の持ち味や視点の限界を客観的に評価して伝えることをしないといけないように思っている。
いずれにせよ建築の機会というのは減るわけだし、建築的発想力やロマンを持っている人は、全然違う場所(業界)にポーンと行って数年を過ごして、その上でオリジナルな、時代と自分に合った新たな仕事に取り組むというのはとてもいいと思う。人は30を過ぎると「自分は○○の人間だから」と新しい領域に飛び出ることをしなくなることが多いけれど、それはもったいない。自分も32から不動産仲介屋を始めて営業をやってみたり、あるいはかつてやらない選択をした「設計」を自分の仕事の中に組み込もうと仲間と組んで仕事の幅を戻すように広げたけれど、「やってみる」と「人と組む」の組み合わせで、仕事なんていかようにもシフトできると思うようになった。かく言う自分もこんな偉そうなウンチクをかたるのも相当えらそうであることはわかっているし、そろそろ自分を固めてしまっている気がしてきたから、数年先にはポーンと別の場所に行くことも考えたりする。
でももちろん、”それでもおれはケンチクなんや!”という人は、建築家として技やアイディアを磨き上げ、時として人に大きな感動を与えるのだろうと思う。