豊橋にて

May 16th, 2018

先週土曜に行った蒲郡での「森、道、市場」は素晴らしかった。ライブのラインナップはもちろん、そして500にも及ぶ「店」の質がとてもよかった。「森道」は、多くの大型フェスと比べると、ほっこり、ゆるい、あるいはある種のクラフト感やオーガニック感のあるコンセプトなのだが、ここへきて一気に集客を増しているのは、オーガナイザーの力量もありつつ、やはり時代の価値観を先取りしているということがあると思う。イベントが始まった7年前はこのネーミングももっとマニアックに見えたのかもしれないけど、場の持つ価値観が時代の感性に年々幅広くハマってきているのだろう。

店をのぞきながら歩いていて、これは「街」なんだな、と思った。質が良くて、発見があり、かつ”顔”の見える店を見ながらそぞろ歩きたい、というのは本来の「街」の楽しみだが、皆それを楽しんでいる。それは非日常の「祭り」とは違う、むしろ「ほしい日常」の表現に思えた。そこに音楽が聞こえるということも含めて。

あらゆる情報やモノに触れている僕らは、リアルの街を歩いてわくわくすることが少しずつ難しくなってきており、ピンポイントで移動するようになりつつある。だから僕らはこうして、街の楽しみをイベントで味わうことになる。日常の活動の中で昔のように体を動かす必要がなくなった現代人がジムへいったり皆でランニングするのと似た構造なのかもしれないけど、世の中の変化の中で、本能の欲求を新しい形で満たそうとしていく姿なのかも、しれない。

「森、道」に行く前夜は、豊橋で一泊してみた。意外だったのは、大抵どこでも1〜2件はあるクオリティの高いバーが駅周りには見当たらないことと、鈴木珈琲店という喫茶店が渋谷「はとう」並のクオリティだったことだが、それはさておき、ともかく夜はいつものように軽い地方都市サーベイということで繁華街を一人でさまよってみた。

豊橋に来るのは初めてだったが、予想通り駅前からアーケード商店街、その先の住宅エリアや公園・川、といった中心街の構造は、まあ他の地方都市ととてもよく似ている。同じ時代の同じ日本人の行動様式ゆえ、結果的に街もまあある程度同じ構成になるのは必然ではある。この日、金曜の夜だけに人が多く出ていて、若者を中心に活気があった。店は例によって、居酒屋、立ち飲み、ダイニングバー的な店、焼肉屋・・・等々が中心。その一本裏側はスナックとキャバクラたち。よくみる光景で、きっと強い記憶に残るものではない。そしてほとんどはいわゆる飲食の虎たちの世界というか、特に凝ったオシャレな店とか濃い世界観の店といったものでなく、日常ニーズに応えるべくがんがん頑張っている飲食野郎たちの店である(悪い意味では全然ない)。

僕らはいわゆるリノベーションまちづくりというやり方に関わっているわけだけど、こうして豊橋の楽しそうな、シャッター街では決してない繁華街を歩いている限りにおいては、ここでは(狭義の)リノベーションというもので街を活性化、といったようなことはそれほどインパクトがあるわけではないな、と思った。シャッターだらけの商店街ならば、一般的なマーケティング発想で店舗事業をやるのとは違うリノベ的な小商いのチャレンジはよりクリアな意味を持つけれど、それだけで街全体がすぐに元気になるとか、ホステルとカフェが一つずつできた瞬間に街が変わるなんてことはない。もちろんそれら一つ一つは確実に前向きな一歩を生むし、そうした小さな一歩こそが大きなうねりを生む源泉になる。が同時に、様々な切り口でマクロな戦略や連携が生まれてこそ状況は解決に向かっていく。そうした次なる方法論へのステップアップが僕らの次のテーマである。

そもそも「街のため」みたいなことを意識する人やその事業が、まちのために強力な影響力を持つとは限らない。「街がうんぬんてなんて、結果だろ」くらいの感覚でしたたかに展開する商人が街に人を呼ぶことの方が多いとも思う。ある意味、飲食の虎たち(街づくり的な文脈ではないたくましい商人マインドの店たち)が、その集積パワーをより強く発揮するにはどうしたらいいかを考えるのも意味があるはずだ。

そこでイメージを持ったのは、(漫画の)サンクチュアリのようなチームである。つまり、持ち場やコミュニティの違う人たちがそれぞれの持ち場で活躍しつつ、それらが裏でつながって、大きな変革をなしとげるべく戦略を持って進むというやつである。つまりここでは、飲食の虎やヤンキー経済の雄たちと、クリエイターや街づくりキャラ、そしてママ集団(主婦もしかり、スナックのママもしかり)、そして地域のコア企業の次世代経営者や戦略家キャラ、そしてとんがった行政マン、あるいはスポーツ系スターといった人たちが、10人くらいでマフィアを組むのである(サンクチュアリは二人だけど・・)。今の時代だからこそ、「虎」たちもスナックママたちも「おぅ、街のためにがんばるのは、俺らも全然やるぜ」と言う空気はつくれる気がする。

公民連携、という言葉はある意味まじめすぎるところがある。そういう言葉に関心を持つ層の世界に閉じてしまう感じもあったりする。民にも色々いるのである。みんなで都市経営やまちづくりをやるのである。地域のアイデンティティも、意識高い系だけで議論せず、ストリートの実力者を含めてカルチャーの違う人が筋道を共有する方がいい。

そして地方都市が経済的にも文化的にも持続繁栄するには、地域のコア企業たちがしぶとく進化して雇用を保つことが必須である。そのためにはコア企業に新しい発想を持ったコア人材がいるor 来ることが重要である。そこで、その街で生まれ育って東京に出て活躍している人材をピックアップし、呼び戻しを画策するのである。これは街づくり系の人たちや行政だけがやってもだめであり、奥さんたちに訴求する女性目線の仕掛けも要るし、ヤンキー豪族も動くのである。これは「青年会議所」でやるのでなく、サンクチュアリでなければならない。オーソライズされた組織では、いかにもちゃんとしていないといけないという空気をまとってしまうのがよろしくない。

なお当然ながら、喧々諤々と志を語りながら、同時に小さな前進をつくるアクションをしていかないといけない。飲み屋ではお客さんが店に対して「こうした方がいーよ!」という意見をまじめに一言いうと串揚げ一本、みたいなのを街のルールにしたとすれば、きっと店はよくなるし、店と客の距離は近づくかもしれない。他の店のいいメニューを教えてあげるのを皆が互いにやろうと決めるのも、もしかしたらいいかもしれない。そうして「今ある環境」を使って、金をかけずとも、人が連携して動いていく。そんな連帯は、大都市ではそうそう起こらない。地方だからこその作戦である。

もちろん違和感もあるだろう。いやいやそんなの実際は話が噛み合わなかったり揉めたりするに決まっているさ、ビジョンを描き引っ張っていくのは揺るがぬ信念を持つ一人の孤独な戦いなのさ、と。まあそれもそうかもしれない。が、いかにも合理的な道筋というのもわからないわけだし、一見不合理的に見えることでも、そこに人の心に火をつける希望やエネルギーが見えることから想定外の光が灯り、コトが急に走り出すこともあるのではないか。

サンクチュアリ連合が街の未来を描き始めれば、そのうち市長も話を聞きに来るだろう。しかしすぐにつるんではいけない。メディアとはつるむ。市民による戦略が共有されていき、しかし首長が変わっても影響されないストーリーがあることが重要である。市長とは方針が違うなら違うで可視化されればよい。徐々に、行政とマフィアたちは意見をすり合わせていくはずだから。

・・などとテンション高めな、真面目なのか適当なのかわからないようなことを考えながら難しい顔をして串揚げ屋を出て、微妙な感じのバーに入り、オーナーのセンスに異をとなえる若いバーテンと「ここ、変えた方がいいよね絶対」「ですよね、僕もそうしたいです」みたいな議論をしばらくやって酔っ払って帰途についたのだった。





© 2018 ATSUMI HAYASHI BLOG |
快楽サステナブル Design by The Up!
PAGE TOP