third wave

April 14th, 2014

珈琲屋の世界もサードウェーブ系というやつがだいぶ本格的に増えているようで、パリからも有名なのが来たようだし、最近東京出店を決めた西海岸系のブルーボトルなんかは数十億の投資を受けてると聞く。ちょっと前まではマイナーな個人たちの世界だったのに・・なんとも早い。

そうなってくるとドトールなんかもサードウェーブ風味の業態つくったりするんだろうし、不動産ディベロッパーはすぐ新しいプレーヤーたちをテナントに入れようとしたりして、スタバも今までのように強い立場じゃなくなったりするんだろうか。

そういう風に、新しい価値観や文化を持ったプレーヤーが現れて支持されて、マーケットの分解や変化が起こって行くのはいいことだ。他のリテールでも、あるいはリノベーションとかリフォームの世界も、きっとそういうことが起こっていく。エネルギーの世界だってそうかもしれない。でかいものたちが人間味をなくした頃に、新しい小さなものたちが力を持っていく。そして、ベンチャーが成長するのはわくわくするけど、ただつまらない巨大化するだけのビジネスなんてウンコだ。大きくなるなら大きい者ならではの革新がないと意味がない。

より動物的感覚としてしっくりくるものが支持されていくということはあちこちで起こっていくはずだし、そこに生じるチャンスは興味深い。質とか価値観とかスタイルというのは論理的な積み上げではない。ロジックからは生まれない価値や、大儲けするために編み出したわけじゃないグッドアイディアたちが、結果的に市場で認められていくのは嬉しいものだ。なんとなく最近、人間的なクリエイティビティが一昔前よりも経済とたくましく共生する世界に近づいているような気が、確信的にしている。



快楽Risktake

April 13th, 2014

今年は目黒川が宴会花見禁止になっていた。意見の分かれるとこなんだろうが、僕は宴会はできるべきだと思っている。

花見は歩いてしたい、という人の方が宴会派よりずっと多いということなら仕方ない。だけど、マナーの悪いやつがいるから、文句が出るから、とりあえず禁止する、という単純な構造は全く納得いかない。なんか、とりあえずまじめ側の意見を正とし、やんちゃ側の考え方はあくまで問題ない範囲で許す、という日本ぽさが嫌い。

さらに言えば、それってただの怠慢じゃん、と思える。「歩行者が迷惑しています」と言っているけれど、それってつまりマナーを改善すればいいはずってことじゃないのか。ならばせめて、今年だけ禁止にすればいい。「マナーが悪すぎたから今年はできない」となったら僕らはそれなりに反省し、翌年はマナーの悪い奴に注意もするだろう。

これはレバ刺し問題を思い出させる話だ。リスクリターンをバランスで捉えない社会のツマラナさ。危ない可能性があれば禁止する。川に落ちる子供がいたらまずいから、浅い川全部に手すりをつける。気をつけなくていいように、判断が要らないように、なっていく。

考えずに責任を避ける人や、豊かさとリスクのトレードオフを理解しない人々は、本来得られるはずの豊かさを妨げる。リスクテイクとはチャレンジであり、ある意味では夢と希望と勇気ではないのかと思う次第。



マンション開発

May 20th, 2013

数週間くらい前だったか、マンション供給、野村不動産トップ!という新聞の見出しがあった。トップ賞はおめでたい。まさに努力の賜物である。個人的には野村は大手マンションデベロッパーの中では好感度が高いので、へえ~やるね☆と思ったわけだけど、一方で「供給トップって微妙だよね」とも思った。

日本で新築マンションの供給戸数が多いことが社会的に立派であるかというと、それは会社自身と日本経済の絆創膏的な処置としては意味があるものの、やればやるほど地方や郊外が寂れる、世の中に空き家が増えるという状況に近づくわけで、要するに社会問題をより拡大することでもある。たくさん供給したぜ!というのは、大げさにいえば「社会問題をより深刻にするような仕事をしましたよ」というメッセージを本当はともなう面があると思う。野村はもちろん賢い会社だから、供給量をただ闇雲に追求しているわけではなく、住宅の新しい価値を追求しながら、企業としての長期的な健全な姿を追求しようとしているだろうし、その中での結果としてのトップ、なんだろうとは思う。

話はいったん変わるが、僕は都市や社会のデザインみたいなことについて考えるときに、キャンプを例えて考えることがよくある。以前にも書いたかもしれないが、何もない状態から人が住み楽しむための環境を整える上での手順と役割分担、その進化の筋道みたいなことをイメージするための参照例として便利なのである。何人かでキャンプをするとき、テントを建てたり荷物を運んだり、そのあと薪を集めたり火をおこしたり、それぞれ得意な人が役割を分担していく。なんでもそれぞれ自分でやるのでなく、うまくシゴトを分担し、合理的にコトを運んでいく。ひとまず場所ができあがった後は、料理したり、あるいはギターひいて歌ったり、それも含めてみんながそれぞれコミュニティに貢献することになる。近くに別のキャンパーチームがいれば、そのうちモノの交換も労力の交換もすればいいし、歌を披露して酒をもらって帰って来るのもいい。さらに進歩すれば、時間のズレがあっても価値交換ができるようにお金のようなものを使うようになる。

で、話を戻すと、マンションをどんどんつくるというのはどういうことか。あくまで例えだけど、キャンプなり無人島なりの世界で、とりあえずいったん住処が全部できて、そしてその後人が減って、家が余っているのにさらに家を建てる、どんどん建てる。で「おれが一番いっぱい建てたぜ!おれんとこにみんな移動してきてるぜ!」みたいなことだと言えなくもない。

もちろん質が上がっていればいいんだけれど、質が上がっていないのに無理矢理に水場に近いところに、本来広場だったあたりに建てまくって「便利だろう!」とやると、確かに人は便利なところに移動しちゃうものだ。結果、水場の周りにはみんながのんびり談笑するような場所はなくなっていく(これは、表参道の路面には賃料が上がりすぎてカフェがなくなったのと同じ感じか)。さらに、建てるための資源がふんだんにあればまだいいけれど、周りの木がなくなってるのに新しく建てまくり、人も減りつつあるのに「さあ木が無くなったから早く隣の山まで木を取りに行くぜ!大変だぞ!お前ら気合い入れろコラ!おぅ!」みたいな。・・そう考えると「なんか、家つくるよりも、今ある家を楽しく少しいじるとか、はたまた歌でも楽器でも練習してみんなで最高な夜でも過ごせたらいいのにね」と思ったりする。

まあ現代社会は複雑にいろんなものや仕組みを既につくった前提があるわけなので、それをふまえて考えないとしょうがないから、自分も無邪気に新築を一切やめるべきとは思っていないけど、立ち戻って考える必要は、あるよね。ほんとは、不動産ディベロッパーが今の資本市場のルールにのっかってしまってること自体が根っこの問題であって、米国でもデベが上場なんてしないんだけど。

なんて言ってもなんなので、現実に大手デベが、社会問題増幅系の仕事でなく、健全にやれるこれからの事業は例えば何なんだろう?となると、確かにこれは難しいけど、無責任に言うは易し的なことを言うならば、途上国の、これから生活水準が上がっていく数十億人のためのまっとうで魅力あるローコスト住宅、とかは、やれることがあるんじゃないか。先を見てそういう市場へのシフトをイメージし、そのための海外でのネットワーキングとパートナーシップを進めていく。”日本だけ”からの脱却へ向かい、世界からもリスペクトされることを目指す。日本だけで無理するよりも、いつかは大きいリターンもあるかもしれない。



競争論

May 6th, 2013

熾烈なグローバル競争、とかいうとなんだか世知辛い格差システムみたいな雰囲気の言葉になるわけだけど、僕らはみんなオリンピックで熾烈なグローバル競争を見て大喜びしている。アカデミーもグラミーもウィンブルドンも同様。競争は見ていてもやっていてもおもしろいし、人ががんばって勝つ姿というのは素敵である。高校野球なら甲子園という目標があるからがんばって練習するし、青春と感動を生む。若者がダンスとか始めて、コンテストに出ようと決めてから俄然努力して上手くなり・・みたいなのもいい。「楽しければいい」「いい技を、いい試合を、それだけでいいんだ」だけの世界は物足りないし進化しない。

何かに取り組むときには、楽しむ、いいプレイをする、競争に勝つ、という三段階、言い換えれば「楽しさ/やりがいの追求」「質の追求」「勝利の追求」がある(解決に向けて行う取り組みだと違ってくるが)。スポーツの世界では勝利を追求しても気持ちがいい。映画つくってカンヌを制したいというのもよい。料理屋であれば、あくまで質を追求するというのが美しい気がするけど、世界で一番の寿司屋になるんだという志は素敵な感じである。しかし世界で一番店舗数の多い最大の寿司屋になるんだと言い出してしまうと、途端につまらない話になる。

スポーツでも、例えば僕の世代の高校野球ではPL学園が強かったわけだけど、毎年PLが優勝しているとつまらなくなるし、あるいはPL学園がグループ化して47都道府県のうち15県がPLグループの高校になるといやになる。つまりは競争自体が問題なのではなく、シェアや規模の競争が問題なのだ。質や美しさでなく量の競争、圧倒の追求になった瞬間に、それはまずい話になってくる。

それは他を駆逐することであり、均質に近づくことである。ビジネスでの熾烈なグローバル競争がなぜいやな感じなのかと言えば、質より量の競争であり、生き残るために量が必要であり、それが駆逐と均質を生むものだから。ユニクロやスタバも、あるところまでははいいんだけれど、駆逐と均質が見えて来るといやになる。人は多様を求めるのだ。生き物や植物が多様に共存しているのだから、多分人間も、人間がつくるものも、多様・共存ができていないと何かがヤバくなる。

じゃあどうしたらいいのか、ということになるわけだけど、そもそも人間のサガというのはあるものなので、基本的な欲を前提に考える必要はある。現代社会における高次の欲(自己実現欲求ってやつに近い?)は「進化したい・達成感を得たい」そして「リスペクトされたい」そして「選択肢を増やしたい」というのがあるように思える。お金が欲しいというのは、基本的には選択肢を増やしたいということだけど、同時にリスペクトされることにもつながる感じがまだ残っている。リスペクトされるようにがんばるのは健全なことだし、進化し達成するということも基本的にまっとうだ。ただ「それが質より量の追求でなければ」というのが全ての前提になる。

人類が領土拡大に歯止めを効かせることができるようになってしばらく経つわけだけど、そろそろ企業の拡大、すなわち量の競争も、歯止めを効かせる必要があるという常識とルールができていい時期が来ている。ただし野球は12球団という縛りの中でのゲームだから球団や選手が完勝しても他者を駆逐するわけではないけれど、アパレル業界を12社に限るということはありえない。でも何らかの、歯止めを効かせる決めごとが必要になるんだろう。

その歯止めを自分自身で決めている会社はたくさんある。ウチもそうだし、思えばマッキンゼーもそうだった。何を目指すのか、持続的なイメージを持っていた。あの会社はもう一つ、人が卒業・循環していくという前提があって、それがうまくワークしていた。オーナーも社長も循環し、無駄な滞留・肥大もやみくもな領土拡大もしない。評価が上がれば会社や個人一人当たりの報酬水準は上がって行く。
ただ、会社がほんとの意味で持続的なかたちであるにはそれなりの良識や冷静さが必要だし、あるいは上場していないことが前提であったりする。

これを詰めていくと、例えば会社が一定規模になったら3つに割る、というようなことを決めてしまうというイメージがあるかもしれない。その規模のラインを決めておき、分割されたらそのとき権利はフェアに整理され、そこからはまた適切な競争が生じる。例えばアパレルだったら1000億を超えたら分割。一定率を持ってる株主は1つを残して売却しないといけないとか。これを資本市場のルールとして、世界が握る、と。

そうすると500億くらいの段階で、解体まで行くのか、ここで質の進化に舵を切るのか、企業(経営者や株主)は判断することになる。大きくならないとやられてしまうというプレッシャーも、それ自体が存在しないルールであれば問題にはならなくなる。株主にとってはどっちの道にいくのが得かは微妙な判断になる。”規模の王者”になりたい人にはもどかしいかもしれないけれど、その欲がそもそもナンセンスという話である。もしかしたら「あいつはもう会社を2度も解体させたんだぜ」というのが自慢になるかもしれない。国の領土拡大の話だって一緒で、ただ王者になるために他者を駆逐するべきではない。

まあこれも全然詰めた話ではないし、あくまでイメトレ的な話だけど、何かこのような類いの考えがもうじき必要だと思うし、そもそも人間の歴史の中ではそのくらいの前提変更というのはけっこうあったし、やってみれば意外と大した話じゃない気がする。肉食プレイの真っ最中の人にとってはアホかという話だけど、そのうち価値観の勢力図が変わる時がくるだろう。で、自分はしばらく両方の間にいるのがいいんだと思っている。



恋愛激戦区

April 29th, 2013

「一時期は楽しいネタがあったのに、最近はなんだかまじめだねぇ」と何人かに言われたので、久しぶりに日常的なネタでカタることにしました。言っておきますが7割くらい冗談ですのであしからず。

恋愛激戦区といわれる現代のTOKYOで、一つの社会問題があります。それは、今この大都会では女性の社会的ポジションがどんどん上がっていると同時に、その上層レイヤーに位置する素敵女性たち、つまり「女性として魅力的で、仕事もできて、人間もできている30代」に、シングルがやたらと多いという問題です。個人的には、これがそもそも問題なのかどうかを問い直すべきと思っていまして、ぶっちゃけ、社会システム、法律の話まで含めてぐいぐい変えていった方が日本の経済も文化も幸せ度も前進するんじゃないかと思っているタイプであります。

ただ、そういう議論を始めても理屈っぽくなってそもそもこの場での主旨的には元の木阿弥ですし、ルールを変える力を持っているわけでも、変えるための作戦まで考えているわけでもないので、ここは一歩引いて、上記のいわゆる女性上位時代(っていう映画が割と好き)の典型的問題を、解決すべき課題として捉えた上で、その問題の構造を少し読み解いてみようじゃないかと思うわけであります。自分の周りにもそういう素敵な人たちがたくさんいるので。

なぜにその素敵層はシングルであるのか。まずは基本的に、相手に依存する必要性が小さいこと、それゆえに結婚への目的意識が薄いこと、があります。よね。そして次に、これが意外と厄介なのですが、自信があること、つまり「私は仕事もがんばってるし、世の中に価値生んでるし」という、持っていて当然な「誇りと自信」があります。その上で経済的にも相対的には余裕がある。自信があるから、必死になるほどプライドを捨てる気にはなりにくいわけです。

目的意識が薄いとはいえ、ないわけじゃない。だけど、マストでもないから必死にはならない。行動のみならず、感情のスイッチがなかなか入らない。これが基本的な構造なわけですが、つまり何が言いたいかというと、これを仕事なりプロジェクトなりに置き換えると、「いや、僕だって仕事はもっとほしいと思っていますよ。ただね、自分にとっていい仕事っていうのは自然にチャンスに出会うものじゃないですか。それに、自分が燃えない仕事をやるくらいなら、無理にやりたくはないですよね」というようなスタンスを意味するわけです。

このスタンスは確かにアリといえばアリでしょう。ただ、ここでの彼の問題は、やりたいことが明確でないことと、それゆえに機会をたぐり寄せるメッセージを発していないということです。やりたいことが具体的なイメージで人に伝わることは、チャンスを引き寄せ、前進を生む。これは絶対だと思います。安藤忠雄センセイも、やりたいことをいつも語っています。

言うまでもないですが、どんなことでも、本気でプロジェクト化した方が実現性は絶対的に高まります。「英語うまくなりたいよな〜」にしても「やばいよ最近太ってきたよ、やせなきゃ〜」にしても「旅館のデザインの仕事やりたいんだよね〜」にしても、なんでもそうです。よし、じゃあゴールを具体的に想像してみよう、とか、「効果的で、自分にとって現実的な行動を決めて、明日から実行しよう」とか、「半年後に達成するのに恐らく必要な努力やマインドチェンジを具体的に組み立てよう」とか、「半年後に振り返って、やるだけやった、これでだめならしゃーないと思えるには何をすればいいか」等等。

望ましい機会や出会いを創るというタイプの目的の場合、ビジョンを大いに語ること、それも目を輝かせて素敵に語ること。それが語れるように、自分の思いやイメージを具体的にしていくこと。伝えるために足を動かし、機会に出会うために人に会うこと、そして人から方向修正の指摘もしてもらえるようなチャーミングでオープンなスタンス、そのあたりが”プロジェクトを実現する”ためには絶対的に意味があるはずだと思っています。そして、少しでも早くプロジェクトを形にしたい場合、無駄なことはしないのも重要であり、意識が明確な人は、形にならないような半端な話はさっさと断り、次へ行くものです。ビジョンが曖昧だとここで必ず無駄が出ます。明確であれば、一見無駄だが有益な発見につながる可能性も察知できるようになるんだと思います。

おっと結婚の話でした。
ところでよく言われることで「結婚そのものに憧れ、戦略的かつ多く動き回って、結果さくっとシュートを決めたタイプはその後、うまくいかない」といった類いの言い伝えがあります。これは僕のリサーチの範囲ではウソです。なぜ?! それは・・・「(関係を)維持することにおいても、目的意識が強いことがポジティブに働く」という、言われてみれば当たり前な話でしょう。もうお気づきかもしれませんが、つまり「ここでも”できる女”は維持する目的意識が弱い」ために問題が起こる可能性があるわけです。

繰り返しますが、僕は目的設定は人それぞれであるべきで、固定観念に縛られる必要なんて全くないと思っているタイプです。ただ「目的意識があるなら、”プロジェクト化”すべき」という考えは大事にしています。それも、マニュアル的に一般論を参照するのではなく、自分ならではのコンセプトや方法でプロジェクトをつくるのが一番の道と思います。自分がやってみたいプロジェクトがあったとき、「それ、やりますか?仕掛けますか?」「それとも、やらなくても構わない」ですか?といつも自分に問うことにしていますが、全ての妄想をプロジェクト化するのは無理なので、もちろん後者の場合もあります。でも前者であれば、仕掛け方を決め、タイミングも決め、タイミングを5年後に設定しても、そこに向けて今打てる手は打つようにto doリストに入れる、という発想はするようにしています。ここがまず出発点なのではないでしょうか。

・・・やっぱり結局理屈っぽく、しかも脱線してしまいました。すみません。読んで下さった方は、つまらん、ぜんぜん納得いかん、何を偉そうに、むかつく、てかお前どないやねん、等色々ネガティブな印象を持たれたもしれません。でもまあ、3割くらいはマジなので、そこが伝わって、世の中の幸せ総量が少しでも上がるといいなと思う次第です。



建築家の役割2

April 16th, 2013

だいぶ前に建築家の役割という題で書いたのは、資本の論理をふまえて戦い方を考えないと、ほんとに食えなくなってしまうという話だった。自分のことをだいぶ棚に上げつつその続きをもうちょっと考えてみる。

そもそも建築家というのは、ニーズなりマーケットがあるからやる、という仕事じゃなくて、「ニーズがあるかどうかでいったらかなりキッツいのはわかってるんだけど、やりたいんだもん」という世界なので、ビジネスの一般論からすれば”儲からない”に決まっている。ただこの話は食える食えないの話以上に、社会的に重要な仕事たりうるかという話であって、そういう意味で正しい形にアップデートしていかないと、そもそも世の中的によろしくない。感覚的な言い方だが、今までのイメージの”建築家”は現状の2割くらいに減っていいと思っている。実際、同世代で”建築家”をやってる人の半分以上は、別の仕事をするか、そうでなくとも”建築道”の王道とは違うアプローチでいった方がずっとわくわくできて、かつ影響力を持っただろう、という感覚がある。

なぜそうなっているのかと言うと、仕事のパイが量的に減ってるということもあるが、社会へ与えるインパクト(影響力)が限られているという実感があるからではないかと思う。空間や街をデザインする際に、建物や内装のかたち(意匠)によって生み出せるメッセージは時代とともに(相対的に)小さくなっていて、そのことがいよいよ実感されてきているということかもしれない。そしてもう一つはいわゆる世知辛い問題、つまり短期合理性が益々追求されて、文化的なるものに予算や時間が与えられにくい社会になっていることがある。

あらゆる課題において新しい切り口や答を出すのが難しくなってきており、ハード中心のコンセプトをつくっても現実は思うような状況にならなかったり、美しき斬新な表現をしてみてもさほど世間から関心を持たれなかったりする。かつて60〜70年代にも、都市の未来構造を絵に描いて”どーだ!”と言っても結果的に現実に全く反映されなかったりしたわけだけど、今はもう建築スケールにおいても、商業空間はもちろん、集合住宅ですら、ハコの意匠の価値の限界はだいぶ見えている。建物の形で人はそれほどの感銘を受けず、価値観はもとより生活や活動にも大きな影響を受けず、更にはアートな文脈ですら新しい強いメッセージとして成立しなくなってしまった。「そんなことないよ」と言いたいのもやまやまだし、素晴らしいものももちろんあるけど、ちょっと冷静になれば認めざるを得ない。ビジョンはもうハードだけでは構成しえないという気がする。

思えば自分は建築家という職能の定義をもっと広げて考えたらいいのではないか、事業企画なり流通なり投資なりを実践することを含めて捉えてもいいのではないかと思っていた時期もあったが、今はそれはやはり違うと思うようになった。「建築家」は、例えるなら”アーティストではなく絵描き、つまりその仕事は空間創造における手法領域の一つなのだと捉え、むしろその解決領域にはもはや限度があることを前提とすべきだと。近代芸術で絵画というメディアが主であったとすると、現代アートにおいてはあくまで一つの手法の選択肢となった。実際、自分が「こんな場所があったらいいな」と思うことがあったとしても、そこでアイディアやストーリーの軸をつくるリーダーとして建築家が相応であるような機会は減っていると思う。多分、図書館や美術館ですらも、そうなっていく気がする。

グラフィックデザイナーでなく、クリエイティブディレクターなる人がストーリーを組み立てるように、問題解決の複合性とともに創造のフォーメーションは変わって行く。そのときにアーティストやディレクターに相当する言葉が何かは未だにわからない。あえて急いでネーミングする必要があるとも思わないし一つにまとめるべきとも思わないが、直感的に、アーキテクトという言葉でまとめるべきではないとは思う。いずれにせよ、力強い場所創造のディレクションは、建築家の個人技では(極めて一部の例外を除いて)なかなかできないものだ。社会的課題や事業的課題を空間的にクリエイティブに解くということは、少なくとも従来の建築家の教育や思考の枠では務まらなくなっていることは確かだと思う。これはネガティブにも見えるけど、ポジティブに見れば、空間の創造や解決の方法や切り口の幅は多様でありうるということでもある。

そうした中でどう動くのか。当然答えは一つではなく無限にあるわけだけど、いくつかのタイプに整理することはできる。一つは建築家、もう一つはソリューションアーキテクト、それからプロデューサーという具合。「建築家」は美しい空間や、”空間的に斬新な”アイディアを形にするアーティストであり、ソリューションアーキテクトは多面的な問題解決の中で全体観や現実的要請・状況をきちんと把握しながらハードデザインを行うデザイナーであり、プロデューサーは課題解決を多面的に行う際に複合的なキャスティングをしながらハードもソフトも(あるいはマーケティングも)含めて統合的な答えをつくるリーダー、という感じか。

今の建築家は、ソリューションアーキテクトのような感じのカタりをキメながら、実は絵描き的建築家であって、その領域の外については実はあまり現実的な分析や知見を持っていないという人が多いと思う。それは大抵の人が”なんでも設計します”というスタンスである以上、どうしても限界があるのだけど。プロデューサーの立ち位置でマニフェスト的なアウトプットをする人もいるが、惜しいことに、発想はいいのに現実感という意味では途中のカッコいいところで詰めを止めて抽象的なメッセンジャーに留まろうとしてしまったり、他の領域のプロを巻き込みたがらず自分だけでできる範囲だけで解くのをやめてしまう人が多いように思う。

やっぱりそれでは影響力にも、求められる機会にも限界がある。問題解決のリーダーシップをとり、多面的なアイデアを出したり集めたりし、具体的に現実をブレイクする筋道を提示できるような人にならないと、社会から本当に必要とされる場面をつくれないのではないかと思う。建築を好きで学んだ人たちはみんな、いい発想と感性を持っており、そして現実的な分析力も本来はあるんだから、現実の解決志向を避けてきれいに動ける範囲にとどまる構造から脱却すべきだと思う。(もっとも、世界的に活躍しているような一部の人は、ここでの話はちょっとあてはまらないし、あてはめる必要もない。年間数人までとかの話だけど)。

僕の感覚では、建築家の卵にあたる世代に関していえば、”建築家”が1〜2割、ソリューションアーキテクト(ふう、でなくリアルな)が3〜4割、プロデューサーが1割、あとは別の世界で大活躍しちゃいましょう、という感じ。僕は社会学者的な立場ではなくあくまでビジネスのアプローチで建築に関わっているので少し偏りがあるかもしれないが、日本は一般人がデザインリテラシーが低すぎて、建築家がビジネスリテラシーが低すぎることもあって、やっぱり”マーケット(市場)”の理解というのはもう少し危機感を持って取り組むべきだと思う。

建築家に駅前のデザインを頼めば、まず全く市場原理を無視した発想が始まってしまうことはよくある。マツキヨやマックがどれだけ高い条件を提示してくるのかを知らずに無邪気に山手線の駅前の路面に個人店カフェを書いてしまうようではプロとは言えない。市場の現実を最低限わかった上で、短期的な市場原理を乗り越えるための策略とともに答えを提示することができなければそれは案として無価値である。”市場”の力はまだまだ強力であり、当面さらに強力化する。そこにもっと覚悟が必要だと思うのだ。強烈なデザイン一発で課題解決を支配することは理想だけど、少なくとも厄介な意思決定がつきまとう日本という国においては(あるいはこれから市場力が益々増して行く世界各国でも)現実的な戦略は常に必要なのだ。

さらにプロデューサーたろうとする場合、キャスティングをリードすることが必要で、そのためには現実の問題の全体構造を知る必要がある。そしてそれを可能にするのは、きれいごとでなく、現実の状況を解く手順を理解するために必要な知識や洞察を持つことと、場面によって「建築家」としての職能境界を乗り越えていく行動である。自分の表現の邪魔をされたくないという動きをするよりも、巻き込み巻き込まれた方がうまくいくものだ。そこに踏み込んでいくと、自らの究極の仕事は「建築家」じゃないと気づき、その結果、建築事務所に設計者でない人が入ってきて、気づいたら設計事務所じゃなくなっていくこともあるかもしれない。でもそれこそが自然なアップデートなんだと思う。

そう考えて行くと、やっぱり教育もメディアも変わっていくべきだし、新しいロールモデルも必要だと思う。教育に関して言えば、基礎教育は空間意匠でいいのだけど、それにまつわる諸条件、広がり、関連性、といったもの、つまり空間デザインというスキルが社会的に・文化的にリアルに価値を生んでいくために必要な連携なり仕事のあり方というものをチラ見せすることはもっと必要だと思う。メディアに関しても色々思うところはあるけれど、建築家やデザイナー自身が自分のスタンスや知見の範囲をどうしても広く見せオールマイティに答を出せるように見せてしてしまう中で、一人一人の持ち味や視点の限界を客観的に評価して伝えることをしないといけないように思っている。

いずれにせよ建築の機会というのは減るわけだし、建築的発想力やロマンを持っている人は、全然違う場所(業界)にポーンと行って数年を過ごして、その上でオリジナルな、時代と自分に合った新たな仕事に取り組むというのはとてもいいと思う。人は30を過ぎると「自分は○○の人間だから」と新しい領域に飛び出ることをしなくなることが多いけれど、それはもったいない。自分も32から不動産仲介屋を始めて営業をやってみたり、あるいはかつてやらない選択をした「設計」を自分の仕事の中に組み込もうと仲間と組んで仕事の幅を戻すように広げたけれど、「やってみる」と「人と組む」の組み合わせで、仕事なんていかようにもシフトできると思うようになった。かく言う自分もこんな偉そうなウンチクをかたるのも相当えらそうであることはわかっているし、そろそろ自分を固めてしまっている気がしてきたから、数年先にはポーンと別の場所に行くことも考えたりする。
でももちろん、”それでもおれはケンチクなんや!”という人は、建築家として技やアイディアを磨き上げ、時として人に大きな感動を与えるのだろうと思う。



わかっちゃいるけど

April 9th, 2013

去年5月の新島トライアスロンで、一緒に出た友人2人の腹がばきっとしてカッコよかったので、僕はもう1人の友人と「来年はバキバキに割ろうぜ!」「かけるか?」「おう!」とやったのだが、ずるずるしているうちにもう4月に入り、この時点であきらめることにした。

思えばこないだの仕事百貨のイベントでも「あきらめた人」というカテゴリで招かれ、そのときは「僕は”建築”をあきらめないために、”建築家”をあきらめたのだ」という得意の迷言(当然後づけ)でなんとかカッコつけたつもりだったが、今回はただ単にあきらめたダメなやつ、ということになる。挫折に至った理由は言うまでもなく、
「わかっちゃいるけどいっぱい食べちゃったんだよね。」
「わかっちゃいるけどけっこうサボっちゃったなぁ・・」
である。ま、どうせアメリカのパンツの宣伝に出るわけじゃあるまいし、別に腹なんて割らなくていいじゃんというのがあったのは確かだけど、思えば世の中そればかりという気がしてくる。

「この時間にラーメン食べるのヤバいよね。でも、食っちゃうよね。」というのも、僕らの仲間内ではダメというよりむしろ正しい価値観や美意識として認められてすらいる。「今のうちに宿題やんなきゃ後でつらいのはわかってるけど、遊んじゃうよね」「今日中に片付けないといけないのはわかってるけど、やっぱ今日はいいや飲んで寝よう」というのび太的な発想は世界共通、いや人間の本質である。我慢した方がいいのにキレちゃう人とか。いけないのに浮気しちゃうやつとか、今が大事、今を生きる、と。

不動産会社なんかだと「まあ今ってバブルなんだけど、他がみんな高く買うから高く買うしかないよね。しばらくはだいじょぶなんだから、ババ引かないように売り抜ければいいっしょ」となるし、商店街がなくなっていくとか個人店が消えて行く的な話も同じで、「街が大きなショッピングセンターだけになっちゃったらいやなんだけど、やっぱり安いし便利だし、行っちゃうよね。」「やっぱりDHCだね」「ユニクロだけが強くなるのもどうかと思うけど、やっぱり買うよね」
そうして街の多様性は失われて行く。

会社もそうだ。「儲かればなんでもいいってわけじゃないんだけど今儲かることしないと怒られるしね」という立場に気づいたら立ってしまっている人。「こんな主張はただの既得権益守ってるだけかもしれないけど、立場ってのがあるからね」「会社が巨大になればいいとは思わないけど、巨大になるよう努力しないといけないっていう構造になってるし、それは仕方ないんだよ」「店舗数増やして、シェア増やして、最後はどうなるの?っていうとよくわからないんだけど、停滞は死あるのみだし、今を生きるべきなんだよ」

人というのは、ほんとは長期的に考えると・・ということに常に向かって動くのはほんとに難しいわけで、じゃあどうすればいいのかというと、やっぱり、子供だったら母ちゃんが怖いとか父さんがなぐるとか、そういう話なんだという気がする。つまり倫理とか常識とか、それに基づいた法律とか罰則とか、いわゆるバランスのいい”縛り”というやつ。

今まで長い時間をかけて、侵略戦争はだめっしょ、奴隷とか人権的にだめっしょ、人殺すのまずいっしょ、という共通認識をつくってきたわけだけど、今は「経済的な侵略はどんどんしなさい」という前提の時代である。

もちろんそうはいっても「これから途上国はがんがんくるわけだし、自分の国だけ草食みたいな発想でやったら最悪なことになるよ」というのはリアルに理にかなった話なわけで、そうなるとやっぱり世界のインテリジェンスがどこかの段階で、高い目線できっちり”握る”しかないという話になってくる。国連とかダボス会議とか、ってそのへんあんまりわかってないけど、高い志も現実感覚も持った人たちが世界の前提となる”握り”を進化させてきたわけだし、これからリーダーシップをとっていく世代はかなり価値観的には準備ができてきているように見える。

個人的には、経済侵略とか短期売買とか、そのあたりの前提はあと20年くらいでさすがに変わるだろうと思っている(とはいえまるっきり変わるという話ではなく、サッカーにオフサイドやペナルティPKができるくらいのルール変更くらいでも解けるのかもしれないけど)。もちろん、そうして世界の前提が変えるまでは・変えるためにも、まっとうな成功事例をつくっていくのが正しい。

根本的に「意志」は長期ベース、「欲」は短期ベースだけど、欲が意思を邪魔するわけで、だから長期最適のためにはコントロール、縛りが必要である。自分の腹割り論で言うならば、先に罰ゲームを決めていたら、がんばれていたような気はけっこうする。要するに事前の読みが、自分の弱さへの認識が、甘かったわけだ。わかってはいたんだけど。



ローカリティ

March 24th, 2013


一家族一住居でなく500人を単位として住むという山本理顕さん達による地域社会圏主義の提案は、家の意匠や構成ではなく社会システムや価値観の話であり、建築家のこれからのテーマの立て方としてまっとうに思えるし、未来を考えるきっかけの一つとして興味がある。本をちゃんと読み込んだわけじゃないのであくまで浅い認識しかない前提で言えば、これは民間ベースでそのまま実現するものでは確かにないだろう。でももしパブリックも巻き込んで実験的にやろうとすれば、物理的な形は違えどもその本質に沿ったものが意外とできてしまうような気がしてくる。だから彼らがそれを実現できる方法や場所を探して動き始めたりしたらおもしろいなと思っている。僕自身は今は大都市で匿名的な住み方で全然OKなのだけど、実はそれも、自分が気持ちいい住み方について本当に充分な想像力を持った上でのことなのか、我ながら少し疑問もある。


山本さん達の提案は500人の中で生産も流通も消費も全て完結するという類いの話ではなく、数百人という単位でまとまりをつくって共有する空間を拡大し、エネルギーの考え方、あるいは人間関係や生産・消費に関する根の張り方を変えていくと、新しい合理性や豊かさあるいはリスクヘッジができて来るというような話だと理解している。僕にはこれはいわゆるコーポラティブに通じる部分があるように思える。特に、僕がこの数年強く影響を受けている甲斐徹郎さん(チームネット)によるコーポラティブハウスの世界観における、いわゆるコミュニティベネフィットの本質のようなことだと。ちなみにコーポラは外から見ているよりも遥かに幸せな世界のようだ。プロジェクトによってもちろんばらつきはあるものの、普通の住み方をしていては想像できないようなポジティブで健全な帰属意識や程よい人間関係、そしてある種の合理性があるらしい。僕らはまだわかっていないことが色々ある。


僕の興味ある場所にイタリアのソロメオという街がある。ここはカシミアニットの高級ブランドであるクチネリ社の街であり、街の多くの住民がクチネリの従業員である。オーナー社長のクチネリ氏は13世紀の古城を修復して本社にし、質の高い手仕事を武器に世界に商品を送り出し、街に雇用を生みつつ、利益の一定割合を街の建物や道路などの保存・再生に使う。社の敷地には劇場や音楽室や図書館もあり、人々は誇りと文化的ゆとりを持って、この街でこの会社で仕事をする。自分はソロメオには行ったことはないのだけど、ざっとこういう話らしい。こういう事例はもっと共有した方がいい。ソロメオはいわゆる自給自足とかではなくて、外の世界にマーケットを持って成立しているわけだけど、地域の経済サイクルと文化がバランスしていく一つの形として見事な話であり、日本の離島なんかでも参考になりそうだ。外(都会)のマーケットをちゃんと取り込んでいくためには、地域なりの技術や感性と、都会の感覚を両方組み合わせる必要があるし、本当にビジョンを現実化できるプロフェッシナルな力が必要になる。事業スキルと文化センスを日本も早くからバランスよく教育しないといけない。


ローカリティとか多様性というのは、今迄積み上げてきた「集約による生産性向上、それと並行して進む均質化」というやつとは一義的には矛盾がある。集約と均質化が進んできたから作用反作用的にローカリティが支持されるという構造が今あるわけだけど、ヨーロッパなんかは日本よりずっと普通に現代的なセンスでローカリティに価値を見いだすことがコモンセンスとして強くあるように見える。で、ポートランドなんかになるともう少しコンセプチュアルに、「ローカル・ファースト(地元の店やモノを優先しよう)」という価値観、といった具合になってくる。
ナショナルチェーンやグローバルブランドが、世の中を均質化したり、個人の顔や背景の見えない消費を進め、それが巡り巡って結果的に無意識的に格差や貧困を生んでいく・・というのがあるとすると、つまりナショナルチェーンは悪ということになるのか?という話になってくる。確かにローカリティに反するナショナルチェーンの構造を前提にするとそういうことになる。ただ、僕は少なくともナショナルチェーンが悪だ、とは思っていない。感覚的に、吉野家もスタバも悪だとは思っていないし、むしろ集約したり標準化して生産性が上がるべきところはとことんやって、その上のレイヤー(商品やサービスやデザインや価値観やストーリーとか)でカスタマイズがあり、そこでローカリティとつながってくればいいという感覚がある。同じ名前のバーガーショップであっても、そこで人がどう出会い集まりコミュニケートするかが場所によって違ってくるみたいなことになればちょっとおもしろいし、それを誘発する構えをつくることも可能で、そうしたことがブランドを高めることもあると思う。


ナショナルチェーンというのはカスタマイズに対して柔軟である方が、あるいはそれを前提につくる方が、これから強いのではないかという気する。吉野家だって、今はいいかもしれないけどこのままではどこまでも値段競争をしていかざるをえない。均一主義でいけば均質拡大のベクトルが強化され、結果、壁にぶちあたりやすい。セブンイレブンの売れ筋標準化的な側面は、強さだけど、同時に危なさかもしれない。自分ががセブンの人間なら、データ分析からラインナップを地域や店ごとにカスタマイズしていけばよい、それが答えである、というドライな感じでは、いつか世の中の新しい価値観ベクトルを理解できない組織になるのではと懸念を持つだろう。データでの変化からだけではその意味合いを理解できなくなる時が来ると。
そう考えるとフランチャイズというものも、必ずしも均質を意味せず、新たな定義が可能であり、それは例えばフレキシブルなテンプレートと、カスタマイズのネットワークという構造を持ってもいい。僕は今後、工務店などにその構造をあてはめるとおもしろいと思っている。そこでは個別な「人」が見えることも意味があるし、属人的な価値や偶然的な状況に対応できることが必要になる。そして同時に、束ねるべきものは束ねて効率を上げる。そしてそれらのあり方は、変化し続ける。みたいな。


いわゆる地方都市の中心部の商店街では、中心市街地がだめで郊外モールが栄えていたりするというのが問題になるが、別に中心が絶対的にダメなわけじゃなくて、要するに「上手くやれるかどうか」の話だと思う。今はモールの方がプロがつくって検証しマネジしてるフォーマットであり、それゆえに強いということに過ぎないのだと。だから個人の事業者たちは、徒党を組み、そして先進的な知識や感性を持ったプロが絡み、そして長期全体最適の姿を追求できる体制をつくることが大事なのではないか。


現代においては多様であるというのはなかなか大変だ。会社組織において多様性を維持するのが大変であるとか、学校でクラスや先生が多様すぎると色々厄介なことになるとか、色々な場面でそう思われている。だから現実的な作戦としては、多様性や地域性や人間性という魅力を、経済価値にちゃんと転嫁すること。自分たちにとっては今はその実践のタイミングである。そしてやがてその方法と経験は、ローカリティを生かす街の再生にも役立つだろう。自分としては10年後までに、そのあたりの準備を重ねていこうと思っている次第。



自分の家

March 5th, 2013

今やっている展覧会「housevision」の中で僕らが提案したのは、自分で編集する家、という考え方だ。これからは既存の住宅をリノベーションするのが当たり前の選択肢になるという前提の上で、ハコをまずはいったん初期化しスケルトンにした上で、自分の暮らし方に合った空間を編集しようというものだ。そこで展示の半分は”編集”の一つの例を形にし、もう半分はR不動産toolboxのショールームのような空間にしている。今回の展示の具体的な計画・デザインには僕自身はほとんど貢献していないのだけど、その背景の思いをちょっと話してみることにする。

僕らが今やろうとしているのは、これからのスタイルはこうだ!と、いわゆる空間のデザイン自体を提示することではなく、「自分だけの空間を創るための仕組み」をつくることだ。見栄が意味を持たなくなる時代には、金さえあれば誰もが持ち得る高いモノや、人が考えたカッコいいものよりも、自分ならではの意味があるモノでなければモノを持つ意味がなくなるだろう。そのための場所(物件)と出会うための「R不動産」の次には、家の中をつくりこむための仕組みとしての「toolbox」ということになる。

あらゆるモノはどんどん人間の手を離れて機械的につくられるようになった。そこでの進化と同時に、失ったものもある。昨日も古いイギリス映画を眺めていて、この頃の家は温かいなと思ったりもした。しかし、だからといって「昔はよかった、昔に戻ろう」というようなことを言いたいのでは、ない。itunesにはアナログレコードの味わいはないけれど、新しい楽しさと利便があり意外な出会いも生まれる。人はいつも未来へ向かう進化と過去の懐かしさと、その両方に魅力を感じるものだ。そしてとにもかくにも進化していく。人は子供の頃には大人になりたいものであり、大人になると若いころはよかったなと思ったりもする。失うものもありながら、大人の世界は広がって行く。大事なのは、大人になっていっても本能や遊び心を失わないことだと思う。進化は続いていくけれど、この先の未来は人間性を無視できない。

自分のための空間は、自分だけのものじゃないかもしれないし、一つじゃないかもしれないし、ずっと持ち続けるものでもないかもしれないけれど、その時の自分にとって意味があるものであるべきだし、そして五感に触れるものであるべきだ。忙しくて便利すぎる今、そういうものをつくるのはなかなか大変で、だから仕組みが必要になる。いいアイディアが共有され、定番モノもハンドメイドも同じように出会え、ウソのない情報があり、楽しく少しずつ編集できる・・そうして愛着やストーリーが生まれていけば、僕らはもっと気持ちよく生きられる。。そういうことがフツウに起こる世界へ進化するために、知恵とテクノロジーを活かしていかないといけない。・・とか、言うは易し、だけど。



ゆたか

February 24th, 2013

目黒と恵比寿の間に「ゆたか」っていう店がありまして、別に大してうまいわけじゃないのですがたまにいくわけです。さほどうまくもないのに食べに行くっていう感性、どうなの?とか言われそうですが、まあ理由がないわけでもありません。

このあたりで夜に一人でいわゆる定食的なものを気楽に食べたいと思ったときに、近頃はそれがあまりないのです。例えばナス味噌炒め定食850円。こういういわゆる定食屋がないわけです。

おばちゃんというかおばあちゃんというか、そういう意味では妙齢な女性に注文をすると、はいよっと腰をあげて台所に行き「トントントン」と茄子を切る。この音がとてもよいのです。テレビの音と、なぜかプロレスのポスターと、トントントンの組み合わせ。まるでおばちゃんは息子につくるような気分なんじゃないかとか、そういう感覚になるわけです(多分いちいちそんなこと考えずに作業してるんだけど)。

そういえば白金商店街の脇にあった僕らの最初のオフィス(というか7坪の倉庫)の近くには洋食ハチローというのがあって、近所に工房のある友人のひょうどうひでと(アクリルのデザイン職人)が週刊ポストとか読んでるみたいな感じが、その前は日比谷や汐留で働いてたこともあって、当時けっこう気に入っていました。それはどうでもいいとして・・

ゆたかのおばちゃんもきっと何十年も同じことをしているから、周りの飲食店のレベルが上がってまったくもって取り残されているのは事実でしょう。客も多分減ってます。地方にはこういう店はいくらでもあるし、いつも行ってると別になんでもないわけなんだけど、都心に住んで、外さない店に行こうとついグルメな友達のお勧め店に行ったり、食べログとか確認したりして生きていると、なんでもない定食屋に行くということには別の意味があるわけですね。

大戸屋のメニューもよくできてるんですけどね。ラミネート感がちょっと・・定食屋というものの基本的な価値を損ねる面があるんですよね。建物も一緒で、完璧な数奇屋も、建築家の超創造的な空間も好きだけど、家に求められるものはわりと、あえて魅せたり考えさせたりしない「ほっとする」というやつがあると思います。

思いのこもった個人の新しい店づくりでも、あるいはチェーン店でも「トントントン」な感じとか、それに通じる価値、つまり、ほっとする、というやつを、感動とどう融合するかが、自分にとっても進化のヒントの一つなのかもしれないなどと思って昨日もゆたかを出てきました。



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