野心論

April 27th, 2019

最近久しぶりに三国志の漫画を読んで、思ったこと等。

僕は、歴史とか政治といったジャンルは弱いタイプである(他にも当然いろいろ弱いジャンルはあるが)。この5-6年になって仕事でようやく行政とかにも関わろうかということになって、政治の構造についても考えることがでてきたものの、政党がそもそもなぜ必要なのかもいまだに深く理解できていない。そして人文系より自然科学や表現系に寄ってやってきたので歴史も文学も浅い。

国会中継などでしょうもない突っ込み合いしてるのを見ると、おいおい・・と普通に思うし、政治家というのは国のマネジメントの中身よりも権力闘争の方に意識とエネルギーが行かざるを得ないものなんだなぁ、それってどうにかならんのかねぃ・・と思いつつ、その理由や構造をちゃんと理解できていなかった(今もだけど)。

自分なりの整理として、政治の世界では権力闘争で勝ち残ることは、僕ら民間が生き残ってテーマを追求するために利益を確保する努力をするのと同じようなものなんだな、と思うことにしている。選挙で勝って万歳三唱してるのもなんだかピンとこないところがあるけど、我々も最高売上だとなればイェ〜イとなるし、まあ同じよね、と。ビジネスでも、目的と手段が多少こんがらがる場面はあるもんだし、手段がうまくいくこともゴールの一部だしな、とか。

で、三国志(漫画だけど)を読んでいると、このあたりのことをつい考える。劉備は、人民の平和と幸福に対する強い思いがあり、漢王朝の復権はそのための手段であり、単に天下を取ることが目的なわけではない。諸葛孔明は「戦い」のディレクターであるが、戦いに勝つことが目的ではやっぱりなくて、国のために誰が天下を取るべきかという判断として、劉備を勝たせるために知恵を出している。

だが三国志というのはその「戦い」が物語の全てなわけだ。勝った上でこういう治世をしていくんだとか、こういう技術を生み出して世を進歩させるんだとかいう話は、ない。三国志に限らず、歴史の話はだいたいそれがメインになっているわけで、そういう意味で正直言うと僕は、歴史というジャンルが不思議なのである。戦って勝つことはゴールじゃないじゃん、文化史や社会の形の進歩みたいのがメインじゃないの?と、つい思ってしまうわけだ。今でも国際情勢は重要だし、国内政治も大事なのは当たり前なのだけれど、社会システムや技術や文化の進化こそが人類の進歩の歴史であって、誰が誰にどう勝ったというのはメインじゃなくない?と考えるタイプなのである。

だが三国志は面白い。戦いの歴史は面白い。

人間には、ソーシャル野心と勝利野心(支配野心)と表現野心(創造野心)があるように思える。マズローでいえば自己実現欲求の中の話として。僕自身は、ソーシャル野心と表現野心が大きくて、勝利野心は割と小さい。リスペクトはされたいが、人に勝ちたいという感覚は薄い。割と善良で平和な人間なのである。

芸術家は表現野心が圧倒的に強く、事業家はソーシャル野心が強い人もいれば創造野心が強い人もいるし、勝利野心だけじゃんみたいな人もいる。スポーツの偉人たちはどうか。ここでいうなら勝利野心のように一瞬、思える。だがスポーツにおける勝利野心は、人を負かすというより、がんばって結果を残すということ、自分の能力や可能性に対する挑戦、の一形態である。そう考えるとちょっと違う気もしてくるし、3つの野心の分類がナンセンスなのかも、とも思えてくる。いずれにせよスポーツの人たちの野心は、美しく、人にわくわくを与える。ここでは勝利野心は良いものである。そして、競争は人や社会を成長させるということを考えれば、勝利野心が悪いとはもちろん言えない。

しかし政治に関しては、勝つことがゴールでは困る。もちろん芸術家も、勝つことがゴールではない。ビジネスは微妙だ。そもそも勝つことがゴールではない方がいい。だが少なくとも今のシステムは、最大限稼ぐことがミッションであり、勝つことが正義であるというシステムがある。そして勝利する事業家は「すげえ!」と言われ憧れられる。それだけなら全くもって問題ないのだが、やっぱり、勝ち残った上でどれだけ世の中に良き前進を生み出すのかということよりも勝ち負けとか時価総額を主軸に評価するようなところが強く、いまだにビジネスの「成功」とは稼ぎ勝ち残ることを意味しがちである。規模拡大の野心が弱く、成長とは文化的影響力の進化であるとする僕からするとモヤモヤするのである。

三国志の時代には、平和を維持し社会を安定させるために権力を守る必要があり、そのために戦うことで精一杯だったのだろう。それから世の中は大いに前進したから、今の時代に劉備や孔明が生きていたら、殺し合いに人生のほとんどを費やす必要はないだろうし、世の中をどうするかについて考えることにもっと費やすことになるのだろう。あの時代は、疫病や飢饉にどう対処しようとか、税制をこう改革しようといったようなことは、やっぱり集中しきれなかった。
そういう意味で、これからも少しずつ、戦いを減らして、そのエネルギーを世界の幸福持続のための知恵に向けていけるようになるのだろう。

政治の世界では今でも、権力闘争のために、国会で安倍さんにクイズを出しまくったりして数百人の国のリーダーたちの時間を使っている。殺し合いはしなくなったけど、戦いがメインである時代はまだ終わっていない。ビジネスの成功の基準が規模や時価総額のみであるような社会も、ダサいと思う。政治でも、選挙というゲームに勝ったチームが世界を定義できるというルールがいいのかよくないのか僕にはよくわからないが、あくまで自分は戦わって他を倒すことなく進化や感動を生み出したい。

しかしそうはいっても、歴史は戦いこそが面白い。スポーツは言うまでもないが、ビジネスの勝ち負け物語も、やっぱり面白い。そしてそこには、美と感動もある。それは僕らに本質的に備わっている勝利野心のミラーなのかもしれない。

今回のマンガ三国志の感想文はとりあえずそんなところで、「だからどうするの?」まで至っていなくてすみません。
ちなみに今回の三国志での最大の収穫は、自分と相棒と新たな役割論の発見に結びついたことだった。世の中を変えるようなヒントを得るところまではいかなかったものの、自分たちのチームの未来と日常に、そして自分のささやかな寝る前の時間の楽しみには大いに役立ち、やっぱり戦いの話はいいのぅ、と思ったのだった。



最近の話

December 4th, 2018

最近、都市うんぬんについて話をする機会が増えているのだが、そもそもこれからの都市とか言っても広すぎて、何について語るべきなのよくわからない。テクノロジーの話もあれば地域持続性の話もあるし、公共空間の話、リノベーションまちづくり・・とど巷ではそれぞれ盛り上がっていて、それぞれの話でも山ほど議論があるので、むしろ、何があまり話されてなくてもっと考えなきゃいけないのかを見出すことも必要かもねと思い、こんな図を書いて話したりした。

 

左上からいくと、テクノロジーは利便と自由な時間を生み出し、人々の幸せな都市生活に寄与する。同時にテクノロジーは効率を上げて生産性を上げ、経済・財政に寄与し、それにより福祉や治安や文化の維持が可能になり、それは人々をハッピーにする。

右下から言えば、空間やアメニティをうまくつくることでコミュニティの健全な維持に寄与し、同時に福祉や安心をうまく解くこともできる。
そして魅力的な空間やアメニティがあることは、人材や産業を引きつけることにつながる。産業があって地域の財政や経済が回るし、雇用があるから人々はそこに住み続けることができるし生きたい場所で生きられる。

コミュニティデザインとか都市経済学とかパブリックデザインとか、様々なテーマや切り口があるが、この図の中のこのあたりだね、というのを見てみると確かにその居場所はある(部分解といえば部分解であることもわかる)。

また、テクノロジーが変わるときに都市の空間やアメニティの計画・デザインはそれをどう受け止めて先回りしていくかについても”業界”は十分に意識できていないのではないかとか、総じて都市計画とかまちづくりといった分野はアカデミーにせよクリエイターにせよテックと経済に近いところをきちんとできていないように思えるが、これは無責任と言われるべきことかもしれない。というあたりが「?!」のマーク。

ここでは幸せというのをゴール設定のように表現しているが果たしてそれでいいのか。例えば「持続」ではないのか?と。持続可能性というのが目指すべきものだとするとそれはもちろん「財政が破綻しないこと」とイコールではなく、皆が安心して生きがいや誇りを持って、できれば楽しく暮らせる状態の持続であり、ここではそれを幸せと言っている。

このフレームは考えるべきテーマを直接書いていなくて、あくまで領域とか切り口を混ぜこぜのまま、それらの相関関係をそれっぽく図にしたものでしかない。そしてこの「How」レイヤーの図をサンドイッチするように、下敷きとしては政治システムや行政システム、市場のルールなどの社会システムのレイヤーが前提となっていて、一方でこの上にはそれぞれの都市がどういう都市を目指すのかというアイデンティティやビジョンといった「What」のレイヤーがある。

と、こんなことを話すと「それで?」と言われるかもしれない。そんな相関関係をふむふむと眺めて意識したところで仕方ないじゃないかと。おっしゃる通りで、問題はこれらがどう「うまく回るのか」「そのために何ができるか」である。

マクロ的に言えばそれは国単位や自治体単位のマネジメントにおけるビジョンや戦略を描くことである。各々の都市地域がどんな魅力や特徴を目指し、そのためにどこにどうフォーカスすることで全体をうまく回るように持っていくのかというholisticなアイディアとシナリオ。一方でミクロ的に言えば、素敵な店を始めることも、小さな社会的活動も、新しい事業や便利な仕組みやまっとうな個別政策の立案や実行も大いに意味があるし、家族を大事にする気持ちとかだってそうだろう。だがそれらはいずれもこの図には直接的に表現されていない。

しかしとりあえずは、都市うんぬんの話について少し視野を広げてみるのもよいのではないでしょうか?という話。そしていくつかの切り口に着目してみましょうと。

例えば”人材や産業”を意識するとはどういうことか。たとえば公共空間や公共施設ひとつつくるときにも関係してくる。地方ではよく起業促進とかいうけれど、それは実際なかなか大変で、コワーキングスペースをつくりましたといったところで正直たいして関係ない。人との出会いをつくるのは意味があるものの、別にそれは飲み屋イベントでもよく、コワーキングがなくても起業はできる。やるやつはやる、なのである。

むしろ現実的に考えると、既存の地場産業をアップデートして成長させることのインパクトが大きかったりもする。ほんとはあるタイミングで海外進出したり新たな技術を取り込めば地域の雇用が減ることはなかったよねみたいな話は結構ありうる。これまではそうした役割を担う人材が東京へ行って帰ってこなかった時代だった。しかし価値観は変わりつつあり、東京の大手やベンチャーなんかで鍛えた次世代の経営者やその予備軍をUターンさせて中枢に埋め込むことを考える必要もある。彼らやその家族にとって本当に魅力ある公共施設や公共空間があれば「おれは地元に帰って地元の再生に一役買いたいんだ!」という人の奥さんも「うん、あそこならいーかも♫」となるかもしれないわけで、そういう視点で計画することも大事なのではないか。とか。あるいはまた、それこそポートランドなんかでもインテルやナイキの本社があることで経済が潤い、それがカルチャーに流れて支えているみたいなこともふまえつつ、骨太産業をどう維持・創造するかの作戦を練らなければいけないということとか。

・・というような話を最近はする。加えて先月話したネタとしては・・

そもそも地方でしょうもない過大投資が行われたりやばい感じのタワー開発ばかり行われるのも、自治体の戦略性や想像力の問題以上に、国の制度設定の問題だったりもするよねという話。

ディベロッパーにやたら人がいて無駄にメガ開発に走るのも、上場して短期的な数字を出さないといけないからしょうがない。ほんとはデベなんてよほどの地主でもない限り上場させないべき業種じゃね?という話。ついでにいえば鉄道会社なんかも住民巻き込み的な形でMBOして非上場にした方がいいかもじゃない?みたいな話。

そうでなくても原丈史さんが言うように、長期の投資のみを受け入れる市場をつくればそこに上場すべき/したい会社はいるし、金融市場の国際的な差別化にもなるというのは賛成、という話。

企業誘致は依然として意味があるアクションだが、これまでのように税金のインセンティブと土地の紹介みたいなのでなく、新しい生活像や人生観を体現しているローカルヒーローたちを巻き込んでライフスタイルや人のアピールをしていったらどうかという話。

社会課題を解くための新しいルール設定を民間から提案し、提案した事業者が自らそれを事業にしてフロンティア利益を得るようなかたちは、社会の前進の一つの有効なアプローチではないか、ディベロッパーもそうした戦略的ロビイングをビジネスに組み込むべきではないか、という話。

福祉は消費促進の領域に代わってクリエイティブの主戦場の一つになるのでは、という話。などなど。

僕はこれまで、都市を空間的な面で面白く楽しくするべく何ができるかということにしか本質的に興味がなかったのでそういう目線でやってきたけど、それは都市の幸せとその持続においてほんの一部分の話ではある。で、少しテーマを広げようかという感じになってきたのは、地方に実際に行くと、それぞれの街がいいかたちで持続するために必要なことを考えたくなってきちゃったということである。

とはいえ「気持ちいい・楽しい・面白い」は本質的に人間を引きつけるものだし、それが巡り巡って色んな問題を解く力になっていくから、まあ基本路線はたぶん変わらないだろう。小さなワクワク話や面白事業と、マクロな一見カタめな話を行き来するスタイルを、もっとやんちゃかつオトナな感じでやっていこうと思っております。そんなわけで明日からドイツで色々見てきます。



豊橋にて

May 16th, 2018

先週土曜に行った蒲郡での「森、道、市場」は素晴らしかった。ライブのラインナップはもちろん、そして500にも及ぶ「店」の質がとてもよかった。「森道」は、多くの大型フェスと比べると、ほっこり、ゆるい、あるいはある種のクラフト感やオーガニック感のあるコンセプトなのだが、ここへきて一気に集客を増しているのは、オーガナイザーの力量もありつつ、やはり時代の価値観を先取りしているということがあると思う。イベントが始まった7年前はこのネーミングももっとマニアックに見えたのかもしれないけど、場の持つ価値観が時代の感性に年々幅広くハマってきているのだろう。

店をのぞきながら歩いていて、これは「街」なんだな、と思った。質が良くて、発見があり、かつ”顔”の見える店を見ながらそぞろ歩きたい、というのは本来の「街」の楽しみだが、皆それを楽しんでいる。それは非日常の「祭り」とは違う、むしろ「ほしい日常」の表現に思えた。そこに音楽が聞こえるということも含めて。

あらゆる情報やモノに触れている僕らは、リアルの街を歩いてわくわくすることが少しずつ難しくなってきており、ピンポイントで移動するようになりつつある。だから僕らはこうして、街の楽しみをイベントで味わうことになる。日常の活動の中で昔のように体を動かす必要がなくなった現代人がジムへいったり皆でランニングするのと似た構造なのかもしれないけど、世の中の変化の中で、本能の欲求を新しい形で満たそうとしていく姿なのかも、しれない。

「森、道」に行く前夜は、豊橋で一泊してみた。意外だったのは、大抵どこでも1〜2件はあるクオリティの高いバーが駅周りには見当たらないことと、鈴木珈琲店という喫茶店が渋谷「はとう」並のクオリティだったことだが、それはさておき、ともかく夜はいつものように軽い地方都市サーベイということで繁華街を一人でさまよってみた。

豊橋に来るのは初めてだったが、予想通り駅前からアーケード商店街、その先の住宅エリアや公園・川、といった中心街の構造は、まあ他の地方都市ととてもよく似ている。同じ時代の同じ日本人の行動様式ゆえ、結果的に街もまあある程度同じ構成になるのは必然ではある。この日、金曜の夜だけに人が多く出ていて、若者を中心に活気があった。店は例によって、居酒屋、立ち飲み、ダイニングバー的な店、焼肉屋・・・等々が中心。その一本裏側はスナックとキャバクラたち。よくみる光景で、きっと強い記憶に残るものではない。そしてほとんどはいわゆる飲食の虎たちの世界というか、特に凝ったオシャレな店とか濃い世界観の店といったものでなく、日常ニーズに応えるべくがんがん頑張っている飲食野郎たちの店である(悪い意味では全然ない)。

僕らはいわゆるリノベーションまちづくりというやり方に関わっているわけだけど、こうして豊橋の楽しそうな、シャッター街では決してない繁華街を歩いている限りにおいては、ここでは(狭義の)リノベーションというもので街を活性化、といったようなことはそれほどインパクトがあるわけではないな、と思った。シャッターだらけの商店街ならば、一般的なマーケティング発想で店舗事業をやるのとは違うリノベ的な小商いのチャレンジはよりクリアな意味を持つけれど、それだけで街全体がすぐに元気になるとか、ホステルとカフェが一つずつできた瞬間に街が変わるなんてことはない。もちろんそれら一つ一つは確実に前向きな一歩を生むし、そうした小さな一歩こそが大きなうねりを生む源泉になる。が同時に、様々な切り口でマクロな戦略や連携が生まれてこそ状況は解決に向かっていく。そうした次なる方法論へのステップアップが僕らの次のテーマである。

そもそも「街のため」みたいなことを意識する人やその事業が、まちのために強力な影響力を持つとは限らない。「街がうんぬんてなんて、結果だろ」くらいの感覚でしたたかに展開する商人が街に人を呼ぶことの方が多いとも思う。ある意味、飲食の虎たち(街づくり的な文脈ではないたくましい商人マインドの店たち)が、その集積パワーをより強く発揮するにはどうしたらいいかを考えるのも意味があるはずだ。

そこでイメージを持ったのは、(漫画の)サンクチュアリのようなチームである。つまり、持ち場やコミュニティの違う人たちがそれぞれの持ち場で活躍しつつ、それらが裏でつながって、大きな変革をなしとげるべく戦略を持って進むというやつである。つまりここでは、飲食の虎やヤンキー経済の雄たちと、クリエイターや街づくりキャラ、そしてママ集団(主婦もしかり、スナックのママもしかり)、そして地域のコア企業の次世代経営者や戦略家キャラ、そしてとんがった行政マン、あるいはスポーツ系スターといった人たちが、10人くらいでマフィアを組むのである(サンクチュアリは二人だけど・・)。今の時代だからこそ、「虎」たちもスナックママたちも「おぅ、街のためにがんばるのは、俺らも全然やるぜ」と言う空気はつくれる気がする。

公民連携、という言葉はある意味まじめすぎるところがある。そういう言葉に関心を持つ層の世界に閉じてしまう感じもあったりする。民にも色々いるのである。みんなで都市経営やまちづくりをやるのである。地域のアイデンティティも、意識高い系だけで議論せず、ストリートの実力者を含めてカルチャーの違う人が筋道を共有する方がいい。

そして地方都市が経済的にも文化的にも持続繁栄するには、地域のコア企業たちがしぶとく進化して雇用を保つことが必須である。そのためにはコア企業に新しい発想を持ったコア人材がいるor 来ることが重要である。そこで、その街で生まれ育って東京に出て活躍している人材をピックアップし、呼び戻しを画策するのである。これは街づくり系の人たちや行政だけがやってもだめであり、奥さんたちに訴求する女性目線の仕掛けも要るし、ヤンキー豪族も動くのである。これは「青年会議所」でやるのでなく、サンクチュアリでなければならない。オーソライズされた組織では、いかにもちゃんとしていないといけないという空気をまとってしまうのがよろしくない。

なお当然ながら、喧々諤々と志を語りながら、同時に小さな前進をつくるアクションをしていかないといけない。飲み屋ではお客さんが店に対して「こうした方がいーよ!」という意見をまじめに一言いうと串揚げ一本、みたいなのを街のルールにしたとすれば、きっと店はよくなるし、店と客の距離は近づくかもしれない。他の店のいいメニューを教えてあげるのを皆が互いにやろうと決めるのも、もしかしたらいいかもしれない。そうして「今ある環境」を使って、金をかけずとも、人が連携して動いていく。そんな連帯は、大都市ではそうそう起こらない。地方だからこその作戦である。

もちろん違和感もあるだろう。いやいやそんなの実際は話が噛み合わなかったり揉めたりするに決まっているさ、ビジョンを描き引っ張っていくのは揺るがぬ信念を持つ一人の孤独な戦いなのさ、と。まあそれもそうかもしれない。が、いかにも合理的な道筋というのもわからないわけだし、一見不合理的に見えることでも、そこに人の心に火をつける希望やエネルギーが見えることから想定外の光が灯り、コトが急に走り出すこともあるのではないか。

サンクチュアリ連合が街の未来を描き始めれば、そのうち市長も話を聞きに来るだろう。しかしすぐにつるんではいけない。メディアとはつるむ。市民による戦略が共有されていき、しかし首長が変わっても影響されないストーリーがあることが重要である。市長とは方針が違うなら違うで可視化されればよい。徐々に、行政とマフィアたちは意見をすり合わせていくはずだから。

・・などとテンション高めな、真面目なのか適当なのかわからないようなことを考えながら難しい顔をして串揚げ屋を出て、微妙な感じのバーに入り、オーナーのセンスに異をとなえる若いバーテンと「ここ、変えた方がいいよね絶対」「ですよね、僕もそうしたいです」みたいな議論をしばらくやって酔っ払って帰途についたのだった。



雇用の話

April 14th, 2018

今年は各部門合わせて3人の新卒が入ってきました。彼らの雇用形態について、毎年僕は直接説明をしています。というのも彼らは契約社員だからです。

僕らの会社には正社員がいません。そもそも正社員という言葉は法的に定義されていないのですが、慣習的には「期限の定めがない雇用契約」を意味します。そしてそうしたその契約は「相当サボっていても、あるいは適性が会社のニーズとかなりずれていても解雇してはならない」ということになっています。そういう雇用形態が世の主流であることには一定の意義があると思いますが、ウチではそのことがいまひとつしっくり来なかったわけです。

うちの場合は、一定の期間の契約を更新していくわけですが、これは長期的な関係を前提にしており、一時的な雇用とは捉えていません。実際、いきなり終了!みたいなことはしたことありません(最初の試用期間で終了は何度かあったけど)。「サボってても適性なくてもよっぽど悪いことでもしない限り解雇されることはありえない」という状態は、活躍してる人の士気を削ぐような面もあるし、会社の強さ・健全性を保つ上でマイナスではないかということです。

おいおい、お前それは経営者の都合だろう、いざとなったら切れるようにしてるんだろ?と言われるかとも思いますが、いざとなったらという話は、正社員でも会社がつぶれたら雇用は続かないわけなので、倒産しないでいられるようにがんばるためにも、依存関係にならず互いに緊張感を持つほうがいいじゃないかと。がんばったけど本当に合わないねとお互い思ったときは別の道に行く方がよいわけだし、会社に寄っ掛かるような仕切りはむしろよくないのでは?みたいな話です。で、うちの設計系やEC系の社員は「長期前提の契約社員」ということでやっている次第です。

なおうちの不動産仲介メンバーは、保険会社と同じような個人プレーヤー契約なのでさらにドライで、ゆえにメンバーの半分近くは自分の会社をつくって別の仕事もやったりして技を広げています。「やりたいことあるけど、うちの会社ではできないな・・やめよう」というのは会社やチームとしてはやはり勿体ないわけで、ならばはじめから「半社外」つまり「お前はすでにやめている・・」という形にしておけば「いーね、じゃあそれは社外で自分でやればいいじゃん、うちの仕事も続ければいいじゃん、あるいはJVでもつくろうか」ということで結果的に関係が続いてくわけです。それでもメンバー間の人間関係は普通の正社員と同じノリです。(ちなみに僕はうちの形を日本標準にすべしとは思っていませんし、うちの中でも時とともにかたちが変わっていくことはあると思っています)

ところで、経営者の論理は個人の希望とずれることはもちろんあります。経営側は無駄を省くとか生産性を上げるということを当然考えるので、そこに最低限のモラルなり、格差をある程度是正する社会システムは必要です。でもその解は、正社員という雇用ではなくセーフティネットや課税の議論で解く方がこれからの時代にはよい気がします。

いずれにせよ、会社にしても国の財政にしても、それがたくましく持続するようにやっていかないと結局みんなに跳ね返ってくるわけなので、ルールや仕組みを決めるときには部分だけを見ないで、何がどう巡り巡って影響していくか、という「因果関係の理解力」をみんなが持っていないと、社会の意思決定がおかしなことになり、世の中が変な方向に向かっていきます。だから日本はなぜなぜ教育(前回ポスト参照)をやるべきっていう話に、僕の中ではなっていたりもしているわけです。



教育の話

April 14th, 2018

僕は数年前から「このあとの自分のテーマは都市計画と教育だ」とか「それらのあり方を進化させるような仕事を自分なりにつくっていきたい」みたいなことを言ってみたりしていたのだけど、そうしているとちょっとずつリアリティが増してくる感じはやっぱりあります。

で、教育についてはまだ何か考えてるわけではないのですが、さすがに自分が親になってみると確かに自分ゴト感はぐっと増してきました。仕事とか事業とかはもうちょい経ってから考えるつもりですし、家族マターとしてもまだ1歳になったところで具体的な計画なんかはないのですが、しいていえば自分の子供に関しては「頭を柔らかくしたいな」という思いだけはあります。

人は何かを突っ込んでやってみるとなんでもそれなりに面白くなっていくものですが、それは頭が柔らかくて、自分なりに深めたり広げたりすることがクセになっていてこそ、な気がします。そして頭が柔らかければ、既存の常識にとらわれない価値観・やり方で自分なりの人生を創り出していけるし、多少厳しい環境になっても幸せに感じるように発想転換できるし、時代の変化にも適応できるような気がします。また、頭が柔らかければ、アホになれて自分も面白くなれるし、人から見ても面白い人になりやすく、結果として幸せに生きられると思うわけです。

3歳くらいまではとにかく絵本とか音楽とかパズル的な?やつとかで情操系をやろうと思ってますが、そのあと徐々にやりたいと考えているのは「なぜなぜ教育」です。

これは簡単に言えば、子供に対して「それはなぜ?」と問いかけまくるということです。そして子供自身もやがて「なぜだ?」と自然に考えるくせをつけようというものです。(ほんとは大人でもやった方がいいんだけど)

日本人は自分の意見主張は苦手だと言われますが、そもそも自分なりの「問い」を発する訓練が足りないと思います。問いを生むことを訓練していないと、考えに幅ができなかったり、偏った感覚的な思いだけで意見を固めてしまうようになると思うのです。保育園うるさい!みたいな類の話も、人の立場を考えたり、広い視点で考える力があればもっとマシなことになると思うわkです。

問いの力を育てるにも、そしてそれに対して考えていく力を育てるにも、カギは「因果関係を掘り下げること」だと考えています。「因果関係を掘り下げる」訓練の積み重ねは、論理的な思考にもデザイン思考にもつながると思うし、それをやればやるほど結果的にいろんな発見をして、頭が柔らかくなっていくことにもつながるのではないかと。(当然ながら、言語を介さない感性の側の方も同時にやる前提。)

かつて僕ははじめて就職する前に、建築の道を離れてビジネスの世界に行くことを決めたのですが、面接で落とされないためにビジネスや経済のことを学ばないとあかんなと思いました。ですが時間が迫っていたため「なぜなぜ5回」という勉強法をやりました。

日経を読んで「なぜ」を5回やる。
例えば「A社とB社が合併した」という記事があったとします。当時の僕にはどういうことかよくわからなかったわけですが、まず「なぜA社とB社は合併するのか?」と問います。で、自分の答えとして「合併する方が収益が上がるからだろう」だと。まあ単純です。次に、「 なぜ合併すると収益が上がるのか?」と問い、「効率が上がるからだろう」と答える。
「うーん、なぜ効率が上がるのか?」と問い、「同じことしてる人がいるからその分の仕事が減らせるから?」と。
「なぜ無駄な仕事が減らせるといいのか?」「うーんと、新しいことできるから?」といった具合。
これがとてもよかったのです。いつのまにか理解も進み、知識アンテナも敏感になり、気づいたら色んなうんちくや自分なりの考え方を語れるようになっていったりもしました。
そういうのがそのときからクセとして強化されたため、いまもよく「この場所にはなんでこんなに人が喜んで集まるんだ?」みたいなとこからなんだかんだと因果関係を堀り始めてしまうことが日々あります。たまに疲れますが。

で、問いをつくるとき、答えを考えるとき、その両方で視点を広げる必要に迫られます。因果関係とともに一つの記事を掘り下げると、理解は深まり、視点も広がります。因果関係は論理で掘るものでもある一方で、それを問うときには想像力も必要なので、問いを出すのも答えるのも、論理力と想像力の両方を行ったり来たりするのです。

僕はこれを授業にすればいいと思っています。とにかく色んな問いを持ち寄ってみんなで掘る、みたいな授業のイメージ。理科とか社会とかいう括りとは別にあってもいいし、もしかしたら各科目の教え方をそっちに思い切り振るんでもいいのかもしれません。
先生は新しい分野を教えるのは大変だから、なかなか教育が変わらないのが現状ですが、「なぜだと思う?」というコーチングはそこそこ誰しもできるように思います。「それはね・・」という答えはそのうちAIでできるでしょうから、むしろ「なぜだと思う?」の働きかけや場づくりには、人間だからこそできる何かがあるような気がします。右脳と左脳の思考力と、好奇心。これらを育てるにはこの方法がよい気がします。もしかしたらそのうち、自分がなぜなぜおじさんになって塾でも始めてしまうのではないかと恐れています。

最後に、それとは別に企画学校のアイディアがあって、どこかでやろうと思っているのですが怠け者ゆえまだできておりません。そう遠くないうちに機会をみつけてやってみたいと思います(とりあえず言っておく系)。



商店街の今後

December 4th, 2017

とある記事でbeamsとUAのトップ対談を読んでいたら、ルミネがセレクトショップを入れ始めたときが業界にとって一つのターニングポイントだったという話があった。確かに駅ビルに彼らが入ったことで当時の若者の買い物やファッションにだいぶ影響を与えたんだろうと想像がつく。ストリートで始まった小さな店が駅ビルに進出し、届ける層の裾野が大きく広がっていったと。同時に駅ビルはそうして自らの意図で全体を編集してアップデートを続け、強くなった。

確かにルミネはすごい。半年くらい前に某電鉄の人たちと郊外駅のガールズバーに社会科見学(あるいはフィールドワーク)にいった際にガールズにヒアリングしたのだが、「この街にあってほしいものは?」と聞いたら、三人が声をそろえて「ルミネ!」とハモったのを覚えている。そこまでルミネは支持されているのか・・と改めて思ったのだった(ちなみに、それから?と聞いたら「シネコン!」とハモっていた)。余談だが、以前スタバにいたときに隣のOL二人が「スタバって、ほんとにいいよね〜」「ね〜♪」という会話をしていて「スタバってそんなに素敵なんか・・」とびびった記憶もある。

どちらかというと街角の個人店に思いを馳せてしまうタイプ(僕も含め)からすると、ルミネやイオンの強さについてあまり分析的に考えることがないものの、それらを客観的にとらえる目線を持っていないと、街をよくしようみたいな話も的を外してしまうだろう。彼らは今後もアップデートを続けて魅力を増していくのだ。

地方のさびれつつある商店街は、飲食はともかく特に物販は、今となっては魅力のない店が多く並んでいる。アップデートが起こらない普通の家族経営は大資本のマーケティングにそうそう勝てるわけもない。商店街やその脇にめちゃくちゃ魅力的な店を若者が始めて人気を集めているといった話はこれからもっと増えていくと思っているが、全体をきちんと復活させるようなレベルにまでなることは、自然にはそうそう起こらないだろう。

しかし自治体や商店会はなんとかしたいと思っているし、東京でがんがん働いている人々に聞いてみると「地元の商店街が寂しくなってしまった・・なんとかならないかな・・」なんて気持ちは往々にして抱いていたりする。ルミネとは対極的に負けまくっている地方の商店街は、単発散発的にいい動きが生まれた上で、さらに大胆な戦略的な打ち手を重ねていかないと未来は暗い。ある時代の産物は消えゆくのもまた自然なのだと割り切る人もいるだろうが、街の真ん中が誰も通らない場所になるのは幸せなことではない。

そんな商店街についてはいくつかの道がある。

一つは、説得力を持ち得た沿道経営体がビジネスモデルを変革していく道。街の再生に思いを馳せる若き個人たちが面白いことを始め、それが駅ビルやモールにはない類の魅力で人を惹きつける。それがある路地などに集積あるいは点在していく。彼らは互いに連携したりしながらスモール事業を拡大し、地域の社会的存在感を増していく。自治体なんかも彼らを頼ろうとする。最初は「まーここじゃ難しいんよ」と言っていた爺さんたちも「あいつらがんばっとるわな!」みたいな感じになって徐々に説得力を持ち、商店会長なんかからも徐々に信頼を得るようになっていく。

そうして説得力を持ち得た若き獅子たちは、一種のまちづくり事業体のような連合体を形成し、自治体や商店会とタッグを組んで新たな仕組みをつくっていく。まるごとストリートの店舗を借り上げてリーシングや運営を最適化したり、ネットとリアルの組み合わせで売って行く仕組みを進化させたりなどしながら新たな商店街の運営モデルをつくり出し、発信力も高めていく。アーケードの下の、広くて車があまり通らないオープンスペース(道)に公園のような機能を持たせていったりする。そうして徐々に、かつて反映した時代の商店街の姿とは違う未来をつくり出す。

もう一つは居住へ向かう道である。商店街の店舗の2Fあるいは路面にシェアハウスやコレクティブハウスなどの住宅機能が入り始める。これを自治体も制度的にサポートしていく。ただし商店街居住はリノベコストもかかり、オーナーとの関係、あるいはそもそも商店街に住むかよ!という一般論もあるので新築マンションにそうそう勝てないから、高齢者や子育てが絡む新しい空間のかたちが出てくる。こちらは一つ目と道と組み合わせて進んでいくのがよい。

さびれた商店街は不良資産のようにも見えるが、中心部に立地する既存建物群は「使える資産」ではある。だが問題はルミネやモールなどと違って、コンセンサスが進まず、改革の意思決定ができない。ゆえに変われず、全体最適に向かうアップデートが起こらない。その点は明らかにハンディである。ハンディは解消するに限る。幅広いコンセンサスをとるにはパブリックセクターの強い推進力が欠かせないし、実際にミクロにコトを動かしていくには信頼のある新しいプレーヤーが必要である。各地の家守会社などがそれを担う。

こうしたことは本来、往年の栄華を享受した世代たちが自ら根本的な改革をリードできればいいのだが現実はなかなかそうもいかない。新しい時代の発想で若い世代の小さい動きと行政の大きな決断が合流していく道が現実的に思える。そうして商店街自体もスケールダウンしながら集中化を進め、それにこぼれるところは徐々に居住化を進め、全体として新しい旧市街に移行していく。少なくとも「賑わいを生むための補助金」とかでイベントをやっているだけではことは進まない。

こういうことはいったんいいモデルができれば早いと思う。一人一人の小さな前進がなければ何も起こらないが、小さな前進が生まれているならば、それを最大限レバレッジすべく未来像を戦略的に描いて、皆でぐいぐいやるしかないのだと思う。言うは易しで実際は大変な道ではあるが・・



古いもの

December 4th, 2017

映画「築地ワンダーランド」を改めて見てみた。やはり僕にとって印象的なのは、80年前の新築時の市場の風景であった。新築だから建物はピカピカであり、いま言われるようなレトロ感なんてものはもちろんないが、多くの人々がそこで始まる新しい世界にわくわくしている様子がうかがえる。

そのとき生まれた大規模な施設は、物理的にももちろんインパクトや感動があったのだろうが、そこに見える骨太さというのは、単に新たな「施設」をつくったのでなく、それまでの日本橋の魚河岸とはうって変わった新たな機能とシステム、つまりその先の時代の環境、ニーズに合わせた新しい食品流通のかたちをつくったということだ。

そのかたち自体が時代の要請に応える骨太なものだからこそ繁栄し、80年間持続した。ゆえに愛着も生まれた。築地の風景に人間らしさを感じるのは、建築が人間らしいからではない。そこで動く人々の行為が人間的であるからである。だがそれは実は、80年前に生まれたかたちが続いているからだと言える。その時代の人々の仕事や行為は、今の時代に生まれるものからすれば全てが”人間的”に見えるはずだから。

建物は長い時間が経てば老朽化する。何がしか手を打たなければならないし、なんでも保存すればよいというものではない。引き継ぐべきものの議論と、「これからのあり方」は何かという議論があり、そのバランスで決まる。だから築地や豊洲の話というのも「市場がどうあるべきか」でなく本来は「食の流通が今後どうあるべきか」を問うことからスタートすべきものである。

そしてこれは築地に限らない話として、古いものを残すことの意味とは何なのか。建物も、街割も、記憶や文化も、残すことの意味とは何なのか。これは意外と言語化・共有化が十分にされていないのではないかと思う。

ある場所をどうアップデートするか?という場面においていくつかの軸がある。あるものを残すべきか否かという議論、その場所の持つ価値を本質的に活かすための可能性についての議論(そして市場のようなものであれば、そこに存在する機能やシステムの未来についての議論もある)。

誰が見ても歴史的な文化財と感じるものはともかく、そうでもないけど多くの人が残ってほしいと思うものについては、それを残すには日本では理由のロジックが要る。そのクリアな説明が存在しないから、多くの場合は消えていく。状況に任せて消えていくものの多くはそれでよいと思えるものではあるが、本来残すべきだったのではないかと思うものはやっぱりある。

建物保存の意義についてぱっと調べてみると「人間社会の文化的向上」といったような言葉が出てくる。たしかに文化性、文化的精神を価値あるものとするのは歴史的に正しいと考えられているし、利便だけが向上して文化的なるものが一切引き継がれない世界は豊かなものではないという共通感覚は確かにある。だが、この100年に関する限り、その認識は薄くなっていた時代だったように思える。それが100年後にどうなるのか。これはおそらく一定のサイクルで循環するものではないかと思っている。

いま、特に民間企業で働いて生きている多くの人にとっては、経済的なプラスマイナスを指標として物事が決まっていくのは自然当然である。経済的なプラマイに反する判断には理由が必要となる。だが、長期的な観点からするとそれはあくまで判断軸の一部であることも事実である。文化的であること、歴史・時間を感じること、それらは直接的に人間の心情・感覚にプラスに寄与するのに加え、観光や、都市の魅力という媒介を通じて経済に寄与もしていく。あとはその度合いの問題、個別の判断になるわけだが、少なくとも30年後や100年後に何を残すべきかという目線を社会は持つべきである。人間がもし、古いものや世代・時間を超えて引き継がれたものに魅力を感じなくなるならば保存の正当性は下がるだろうが、おそらくそうはならないだろう。人は永遠に、未来にも歴史にもときめき続ける。

先日、伝統について語ったなかなかいい文章を見つけた。いわく、伝統は残ったから伝統なのであり、ただ古いから伝統なのではないという話だった。残るだけの価値を認められてきたから偉大さがある。そして残ってきたのは愛されてきたから。愛されたものは、機能的な意味での「必要」を超えて残る。多くの人が残したいと強く思うものは、人間にとってそもそも価値がある。結局は人の思いのレベル、バランスで決まる。だから言語化は難しい。

例えばローマの街中に遺跡がある。別に美しい形態が残っているわけでもなく、ガレキの山のような遺跡も街のど真ん中に残されている。我々はそれを見てただ歴史・時間を感じるのであって、形が美しいから見るのではない。活用価値の高い空間をそうしておくのはロスもある。だがそれがあるローマは偉大だと人は思う。

一方でそこに、これから先の数百年に向けて新しい価値を持ち、また愛されるようになるものが新たにつくられたらどうだろう。時代時代に骨太なものが生まれていくことには正義がある。より良くなることに立ち向かうことは必要である。ただしそこに長い目線が関わるようにしなければならない。半端な古いものはもう要らないという人もいてもいい。ただただ残すべきだという人もいてもいい。いずれにおいても我々は、長い時間で物事を見て立ち止まり、意見の敵対する相手の立場や目線をイメージし、客観冷静柔軟に考えられるような人間である方がいい。いずれにせよ”いまここ”だけの評価でなく長期全体最適になるコトが起こっていくよう、残すことの価値波及についても、新たにつくるものの長期価値や波及についても、それらの本質と構造を把握するための枠組みや共通認識を開発しないといけない。そのへんを最近考えております。



ULIでの話

November 24th, 2017

先日、Urban Land Instituteのコンファレンスで話したことメモ。

ULIは米国ベースの不動産開発&投資の業界団体で、東京のコンファレンスもいわゆる投資ファンドとかの人が中心で、99%がスーツなのはわかってはいたが、我が一張羅のドラえもんコンバースで参加してきた。

外人投資家たちによるこれからの投資マーケットの話(動く金の単位が違いすぎてこの手の話は最近はもうついていけてないのだが)の後、僕らのセッションは、建築家の大江匡さんと、ディベロッパーの日本エスコンの伊藤社長、福岡地所の榎本一郎社長と僕で「ディベロッパーが見る20年後の日本の不動産」というお題であった。おいおい林はディベロッパーないじゃんかという問題があったので緊張したのだが、大江さんだってアーキテクトじゃんということでそこは気にしないことに。

福岡地所の榎本さんは、福岡という都市を強く魅力的にしていく戦略とその中での自社の役割を極めてクリアに考えていた。密度も自然との距離も食も含め、住む働くうえでのバランスや質が高いことを前提に、これから伸びる産業がしっかりした生態系をつくっていくために、ユニコーンを呼び込むのだと宣言。新たな制度をつかって中心部をきっちり開発する話や、OMAの重松さん設計のビルの話など。大きくなった後のユニコーンだけ狙っても厳しいから予備軍も呼ぶと。そのための環境をつくったからといって次々にやってくるほど甘くないが、びびっていたらはじまらない、そこのリスクは自らとるのだというディベロッパー魂は、さすがこれまで数々の面白い開発をやってきた福岡地所だなと思った。一郎さんとは10年以上も前、まだお互い30台前半だったころに仕事もご一緒し、夜は中洲をさまよって仕上げはマンゾクcity(検索しないでOK)に行くべきか否かを議論した仲だったような記憶もあるが、すっかり立派な事業家になり、これから彼が福岡を本物のマンゾクcityにしていくのだなと思った次第。
日本エスコンはマンションやホテルの開発を力強く進めている会社だが、伊藤社長は会った瞬間からこの人のことを嫌いになる人は絶対いないだろうなと思えるような温かさと器を感じさせる人であった。お話も、僕のように斜に構えることなく極めて真摯な経営者らしい話で、なるほど大きな事業を回していくディベロッパーのボスはこういう魅力が必要なんだなと思った。

大江匡氏は、もうだいぶ前にアトリエポジションからは距離を置いて、企業の事業課題を空間設計や関連サービスで解決していく組織事務所をつくった人である。最近増えまくっているファーストキャビン(いわば贅沢なカプセルホテル)の経営に加えて、さらにソフト寄りの飲食事業を始めるという。彼が語っていたのは、時代はどんどん変わり価値の在りかがどんどん変わるという話。汐留が開発されたのは、かつて船と電車でモノを運んでいたのが車に変わり、操車場がいらなくなったから。そういう時代なのに政府行政は縦割りで、それゆえに仕組みがスタックしていると。さらには相続税は自分の住む家の資産にはかけないで他の投資だけ課税するべき、等の話も。そのスキのない現実的な思考はさすがにおそるべしであったが「僕、林さんとこのtoolboxが好きでね、けっこう使ってるよ」と言われたのは意外で、嬉しかった。

僕は、某メディアのbest city rankingで東京が一位だったのがあって、そこのビジュアルが歌舞伎町だった話から、都市間競争力とかいって容積ばかり増やすんじゃなくて多様な顔を持つように誘導する政策をもっと持つべきで、そうしたことはきっと行政も理解が進むから変わっていくだろうし、ディベロッパーも自らそうしたシフトを制度的にも提案しながら自らのビジネスチャンスにタイムリーに取り込んでいくべきではないか、みたいな話をした。それから、都市計画の世界はテクノロジーの先読みが弱いから、そこを突くことに差別化機会があり、同時にそういう動きが社会システムをも前進させていくんじゃないかといった、ある意味では肉食側のポジションの話をしたのだが、僕としてのここでのスタンスは、金を動かす人たちがその資本を増やす行為の過程において、それが街を壊すようなかたちでなく、良くするような手段を打つことによって利益を生んでいってもらうためのアイディアやメッセージを発したいというものである。

この記事(http://www.rules.jp/detail.php?id=14)でも書いたように、ディベロッパーなどの事業主体が政治論理にも行政大義にもはまるような社会改善になる新たなモデルやルールを自ら提案しながら、一歩先をいく仕掛けによって自らアービトラージをとるような戦略は、企業と社会が共に前進する健全な姿ではないかということを話したりした。

そして榎本さんの福岡の話から思ったのは、福岡クラスの都市がこれから文化的にも豊かに続いていくにはハイテク寄りの新しい産業集積によって経済を回すのが正しい(というかそれしかない)のだろうということとともに、よりフォーカスした観光資源を生かして外来者への価値提供に力を注ぐのが適切な都市もあるし、それとは全く別の戦略で、小さく強く生き残るスモールストロングな持続性を追求する街もあるということ。

また、人々の感覚の変容の話として、リノベの購買層はもうかなり広がっているという話や、これからのユニコーン企業の人たちはもはや重厚でエスタブリッシュな空間に惹かれないだろうとか、そういう話をした。そして、不動産屋が不動産(ハコ)だけやって上場維持(→安定成長)し続けるなんてもう幻想なのだとか、かといっていきなりコンテンツも大変だから徐々にやるとして、wewokのような「ミドルウェア」をやっていくんじゃないかとか、そういうことを話した。もちろんこんな「言うは易し」な抽象論をふりかざすだけでなく、やって見せていかなきゃ、ということは自覚しつつ。



NYと東京

October 26th, 2017

先日あるイベントで、ブルックリンで活動しているプランナーと話す機会があった。ブルックリンというと、かつて危ない感じだったエリアがすっかりオシャレになって・・賃料も上がって云々、という類の話が多かったが、最近はテック系のネタが多くなった。造船や物流の施設なんかを再生したりしてIndustry cityやNewLabなどの大規模な拠点ができ、それらを中心としてテック系のベンチャーたちがどんどん集まって新たな生態系ができていると。(そしてその界隈では、技術やビジネスの話、あるいはエンジニアやビジネスマンの人たちが、いわゆるクリエイティブ界隈の人々やトピックとすっかり混ざっていってる感じがある)

そこで参加者から「日本だと湾岸あたりは同じような大規模オフィスやタワマン開発がやたらさかんで、ブルックリンのリバーサイド開発の流れとだいぶ違う感じですけど、その違いはなんなんでしょう?」と問われて以下のように答えた。

戦略性の違いですかねぇ。両方とも「都市の競争力を高めよう」っていう話なんだけど、東京の場合は都市再生特別措置法とかで「とりあえず容積率を上げる」ということをした。床を増やせばきっと強くなるという理屈。
ニューヨーク市はリバーサイドにイノベーション集積をつくろうとし、そのための場所をコンセプトを明確にして戦略的に開発し、国内外から頭脳を集めている。不動産投資の視点からすれば高層タワーをつくった方が短期的な利益はもっとも大きくなるわけだけど、そんなことは都市の競争力や経済を強化する上でのインパクトとしては知れていると。これから伸びまくる新しい産業を集める方がでかいっしょ、みたいな。
日本は土建勢力が強い政治的構造もあるだろうが、それを除いてもセンス的に問題がある。

日本ではよく、グローバルな都市間競争の時代だから東京には人がもっと集まるべきだ、的な話がよくある。自分としては東京にこれ以上人が集まってはいけないと言うつもりもないんだけど、人数が集まりゃ勝てるような類の競争かよ?!という話。別にシンガポールの人口が多いわけじゃないし。

この話は本質的にはハード的な規模より質であって、一定の質のために一定の数は要るという話であって、この順序が逆になってる話がいまだに多い。さらにいえば本来は、東京にはないけど地方にもあるもの(安いとか広いとかも含め)をうまく互いに生かすような全体の関係なりかたちなりをつくっていく発想であるべきなのであって、なのに「東京のイシューと地方のイシューは異なる」みたいな話になることが多いのは変な感じ。

品川や豊洲はまだしも、お台場とか有明みたいな場所にぽつんぽつんとマンションだけつくられていく東京のデザイン力・戦略性はやっぱりまずいなということで、いろいろ提案もしていきたいと思っております。



地方と公共空間

October 22nd, 2017

この間、各地方都市のR不動産のコアメンバーが一同に集まる機会があり、今回は鎌倉が会場だった。鎌倉はこれまで「稲村ガ崎R不動産」という名前で運営されていたが、最近、面白法人カヤックが資本提携によりその運営会社のメインオーナーになって、サイト名も「鎌倉R不動産」に変わることになった。

1日目の夜に、公開イベントとしてカヤックの柳澤さんに話をしてもらった。話のテーマは「地域資本主義」というもので、その考え方を自らカヤック社として体現すべく、鎌倉資本主義というのを追求していくという。上場会社でありながら、時価総額最大化とは矛盾しそうにも聞こえるキーワードを掲げているわけだ。さすが面白法人。現在の資本主義システムを修正あるいはアップデートしていく上でのコンセプトといったところだが、その実体が具体的に何なのかは模索中とのこと。基本的な考え方として「地域資本の最大化を目指す」ということが企業や自治体の一つの共通のベクトルとなると。中央の資本主義システムのサブシステムとして、あるいはそれに影響を与えていくような、いろんな仕掛け、仕組みが生まれていくのだろう。資金やその他リソースを調達する市場、あるいは通貨とかも・・・実体がまだ見えてなくとも言葉として引っかかるものがある。

僕は最近、地方の都市経営への興味が以前より増している。都会を離れて自然体な暮らしをしている素敵な人たちの話ももちろん興味があるけれど、一方で地方都市や小地域が、これからどのような経済構造で生き残るのか、その現実的なシナリオに関心がある。都市単位、地域単位の経済持続がどういう形で可能なのか。

小さなコミュニティやコンテンツをつくる人が増えるのは確実に力になっていくが、同時に既存のある程度まとまった雇用が維持されることも重要だ。ポートランドなんかでも、インテルやナイキがいなくなってしまったら街場のクラフトマンたちの仕事も大きく減らざるを得ないわけで。

僕は公共施設の活用・再生といったことをドライブするための仕掛けとしての「公共R不動産」にも若干ながら関わりつつ、リノベーションスクールにも時々顔を出しつつ、仲間たちと一緒に、公共施設再編再生を切り口に自治体の中長期戦略につなげていくためのシンクタンク&コンサルティング会社(セミコロンという)を最近つくったりした。

公共空間は量的にも再編していく必要があるのは当然だが、中身も変わっていく必要がある。単に多目的な集会場やただ空地と遊具があるだけの公園や保育所・高齢者ケア・図書館といった機能をばらばらに提供をするだけでなく、本質的にコミュニティのコアになるような場所となるためのソフトとしての質や、それを担保する体制と有機的な運営形態や空間のアフォーダンスなどが求められる。

街の中心にそうしたコアな場所が魅力的な形でつくられるとしたときに、僕はそこに地元の有力な企業たちが同居または隣接するような場所のメージを持っている。地方の生産拠点は海外シフトをしたり、営業拠点たる支店が撤退したりして、あるいはまた小売の総量が減ったり東京本社の大企業に商売が置き換わったりする中で、それでもたくましく地方でしっかり続いている企業、ビジネスがある。その中には今後いつなくなってもおかしくない雇用があるのも事実だが、将来にわたっても持続性や競争力を持ちうる産業は存在する。

これからも地方にあってたくましく持続発展しうる産業は何かと考えていくと、一次産業やIT関連などもあるが、2次産業でも例えば食品加工業などは有力と思う。山形で言えば豆のでん六だったり、千葉ならヤマサ醤油だったり、長野ホクトや広島のオタフクソースといった全国的に名の知れた会社だけでなく、多くの中規模の個性的な会社たちもたくましく続いていけるところがたくさんある。工業系でも伝統的なものはもちろん、諏訪のエプソンや金沢のIOデータとかみたいにテクノロジー産業も経済における貴重な存在であったりする。もちろん新しい打ち手として自治体単位で戦略的な規制緩和をして中央の企業たちのR&Dを呼び込むとかも並走すればいい。

公共の○○プラザにベンチャーのインキュベーション拠点つくります!もいいんだけど(大抵の場合あんまりよくないが)、都市の持続発展に寄与するようなすごいスタートアップやその生態系を生むというのは場所をつくるとできていくような簡単なものであるわけは当然ないし、そういうヤツらは○○プラザとか関係ない。

上に挙げたような規模感のある会社が強くあり続け進化していくことは地域にとってかなり重要で、それらの企業たちもイノベーションは続けていかねばならず、地元の優れた人材とともに都会で鍛えたビジネス人材たちがUターンやIターンして加わることが必要だろう。

そこで、そうしたまとまった雇用を持つ事業体が、子育て環境や情報刺激もある魅力的な仕事空間を持つことで人材を引き寄せるような選択を公民が連携してつくっていく。地元でたくましく頑張って全国や海外にモノを届け利益を上げている会社は仕事場として充分にチャレンジングなものだ。今の時代、都会の意識高き若者たちが地方にいくのは農業やゲストハウスやルゴリゴリのソーシャル系だけが答えではない。

東京でしばらく働いたあとに地元に帰って、地元の有力企業をより有力で面白くたくましくかっこいい会社として発展に寄与していくキャリアは今後脚光を浴びる気がしているが、ともかくそうしたモチベーションを高めることは街のためにもなる。そこで街のコアとなる公共施設はこれまでのイメージの「公共施設」の枠を解き、もっと柔らかく発想すべきだ。コア企業の仕事場も、公園も保育も高齢者ケアもライブラリーも、あるいはもしかすると教育期間や日常的な物品流通も、その最適な共存や連携を考えて重ねて配置し運営する。もちろんその運営も投資も公民で手を組んでいく。
その上で、そもそも都市の持続発展の戦略・ビジョンの根幹において、公と民が一定のスケールで連携しシナジーを生むような発想を持つのがよい。その象徴として、魅力や生産性や発信や出会いのコアとしての求心力ある公共空間(群)をつくっていく。都市単位の公民連携という感じ。

ただしそうした場所が単に大きなビルと空地で、○○センターと○○オフィスが重なっているだけでは話にならない。そこにイマジネーションとクリエイティビティが必要になる。空間体験としても魅力的でなければならない。いかにも公共っぽいオフィシャル感よりも、日常感やB面性を重視する。そしてもちろんそこから旧市街ともうまくつながるようにすべきで、むしろ発想は街のリノベ。

そもそも再開発というのは何を開発するかというと、それはもはや土地と建物ではない。新しいビジネスの生態系を開発し、同時に新しいコミュニティ価値の提供形態を再開発しなければ意味がない。こういうところには建築家の出番もあるが、適切な与件設定がされる機会がなかなかない以上、モノの形を描く者としても、そもそもそこに何があるべきかについて現実的な解をつくる思考も必要になる。

こうして偉そうなウンチクをたれているだけでなく、自分ももっと現場に出て行くことにする。具体的なかたちを描きつくっていくのは全然これからだけど、ようやく自分なりの地方都市への切り口が少しずつ見えてきた気がしております。



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