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恋愛激戦区

April 29th, 2013

「一時期は楽しいネタがあったのに、最近はなんだかまじめだねぇ」と何人かに言われたので、久しぶりに日常的なネタでカタることにしました。言っておきますが7割くらい冗談ですのであしからず。

恋愛激戦区といわれる現代のTOKYOで、一つの社会問題があります。それは、今この大都会では女性の社会的ポジションがどんどん上がっていると同時に、その上層レイヤーに位置する素敵女性たち、つまり「女性として魅力的で、仕事もできて、人間もできている30代」に、シングルがやたらと多いという問題です。個人的には、これがそもそも問題なのかどうかを問い直すべきと思っていまして、ぶっちゃけ、社会システム、法律の話まで含めてぐいぐい変えていった方が日本の経済も文化も幸せ度も前進するんじゃないかと思っているタイプであります。

ただ、そういう議論を始めても理屈っぽくなってそもそもこの場での主旨的には元の木阿弥ですし、ルールを変える力を持っているわけでも、変えるための作戦まで考えているわけでもないので、ここは一歩引いて、上記のいわゆる女性上位時代(っていう映画が割と好き)の典型的問題を、解決すべき課題として捉えた上で、その問題の構造を少し読み解いてみようじゃないかと思うわけであります。自分の周りにもそういう素敵な人たちがたくさんいるので。

なぜにその素敵層はシングルであるのか。まずは基本的に、相手に依存する必要性が小さいこと、それゆえに結婚への目的意識が薄いこと、があります。よね。そして次に、これが意外と厄介なのですが、自信があること、つまり「私は仕事もがんばってるし、世の中に価値生んでるし」という、持っていて当然な「誇りと自信」があります。その上で経済的にも相対的には余裕がある。自信があるから、必死になるほどプライドを捨てる気にはなりにくいわけです。

目的意識が薄いとはいえ、ないわけじゃない。だけど、マストでもないから必死にはならない。行動のみならず、感情のスイッチがなかなか入らない。これが基本的な構造なわけですが、つまり何が言いたいかというと、これを仕事なりプロジェクトなりに置き換えると、「いや、僕だって仕事はもっとほしいと思っていますよ。ただね、自分にとっていい仕事っていうのは自然にチャンスに出会うものじゃないですか。それに、自分が燃えない仕事をやるくらいなら、無理にやりたくはないですよね」というようなスタンスを意味するわけです。

このスタンスは確かにアリといえばアリでしょう。ただ、ここでの彼の問題は、やりたいことが明確でないことと、それゆえに機会をたぐり寄せるメッセージを発していないということです。やりたいことが具体的なイメージで人に伝わることは、チャンスを引き寄せ、前進を生む。これは絶対だと思います。安藤忠雄センセイも、やりたいことをいつも語っています。

言うまでもないですが、どんなことでも、本気でプロジェクト化した方が実現性は絶対的に高まります。「英語うまくなりたいよな〜」にしても「やばいよ最近太ってきたよ、やせなきゃ〜」にしても「旅館のデザインの仕事やりたいんだよね〜」にしても、なんでもそうです。よし、じゃあゴールを具体的に想像してみよう、とか、「効果的で、自分にとって現実的な行動を決めて、明日から実行しよう」とか、「半年後に達成するのに恐らく必要な努力やマインドチェンジを具体的に組み立てよう」とか、「半年後に振り返って、やるだけやった、これでだめならしゃーないと思えるには何をすればいいか」等等。

望ましい機会や出会いを創るというタイプの目的の場合、ビジョンを大いに語ること、それも目を輝かせて素敵に語ること。それが語れるように、自分の思いやイメージを具体的にしていくこと。伝えるために足を動かし、機会に出会うために人に会うこと、そして人から方向修正の指摘もしてもらえるようなチャーミングでオープンなスタンス、そのあたりが”プロジェクトを実現する”ためには絶対的に意味があるはずだと思っています。そして、少しでも早くプロジェクトを形にしたい場合、無駄なことはしないのも重要であり、意識が明確な人は、形にならないような半端な話はさっさと断り、次へ行くものです。ビジョンが曖昧だとここで必ず無駄が出ます。明確であれば、一見無駄だが有益な発見につながる可能性も察知できるようになるんだと思います。

おっと結婚の話でした。
ところでよく言われることで「結婚そのものに憧れ、戦略的かつ多く動き回って、結果さくっとシュートを決めたタイプはその後、うまくいかない」といった類いの言い伝えがあります。これは僕のリサーチの範囲ではウソです。なぜ?! それは・・・「(関係を)維持することにおいても、目的意識が強いことがポジティブに働く」という、言われてみれば当たり前な話でしょう。もうお気づきかもしれませんが、つまり「ここでも”できる女”は維持する目的意識が弱い」ために問題が起こる可能性があるわけです。

繰り返しますが、僕は目的設定は人それぞれであるべきで、固定観念に縛られる必要なんて全くないと思っているタイプです。ただ「目的意識があるなら、”プロジェクト化”すべき」という考えは大事にしています。それも、マニュアル的に一般論を参照するのではなく、自分ならではのコンセプトや方法でプロジェクトをつくるのが一番の道と思います。自分がやってみたいプロジェクトがあったとき、「それ、やりますか?仕掛けますか?」「それとも、やらなくても構わない」ですか?といつも自分に問うことにしていますが、全ての妄想をプロジェクト化するのは無理なので、もちろん後者の場合もあります。でも前者であれば、仕掛け方を決め、タイミングも決め、タイミングを5年後に設定しても、そこに向けて今打てる手は打つようにto doリストに入れる、という発想はするようにしています。ここがまず出発点なのではないでしょうか。

・・・やっぱり結局理屈っぽく、しかも脱線してしまいました。すみません。読んで下さった方は、つまらん、ぜんぜん納得いかん、何を偉そうに、むかつく、てかお前どないやねん、等色々ネガティブな印象を持たれたもしれません。でもまあ、3割くらいはマジなので、そこが伝わって、世の中の幸せ総量が少しでも上がるといいなと思う次第です。



建築家の役割2

April 16th, 2013

だいぶ前に建築家の役割という題で書いたのは、資本の論理をふまえて戦い方を考えないと、ほんとに食えなくなってしまうという話だった。自分のことをだいぶ棚に上げつつその続きをもうちょっと考えてみる。

そもそも建築家というのは、ニーズなりマーケットがあるからやる、という仕事じゃなくて、「ニーズがあるかどうかでいったらかなりキッツいのはわかってるんだけど、やりたいんだもん」という世界なので、ビジネスの一般論からすれば”儲からない”に決まっている。ただこの話は食える食えないの話以上に、社会的に重要な仕事たりうるかという話であって、そういう意味で正しい形にアップデートしていかないと、そもそも世の中的によろしくない。感覚的な言い方だが、今までのイメージの”建築家”は現状の2割くらいに減っていいと思っている。実際、同世代で”建築家”をやってる人の半分以上は、別の仕事をするか、そうでなくとも”建築道”の王道とは違うアプローチでいった方がずっとわくわくできて、かつ影響力を持っただろう、という感覚がある。

なぜそうなっているのかと言うと、仕事のパイが量的に減ってるということもあるが、社会へ与えるインパクト(影響力)が限られているという実感があるからではないかと思う。空間や街をデザインする際に、建物や内装のかたち(意匠)によって生み出せるメッセージは時代とともに(相対的に)小さくなっていて、そのことがいよいよ実感されてきているということかもしれない。そしてもう一つはいわゆる世知辛い問題、つまり短期合理性が益々追求されて、文化的なるものに予算や時間が与えられにくい社会になっていることがある。

あらゆる課題において新しい切り口や答を出すのが難しくなってきており、ハード中心のコンセプトをつくっても現実は思うような状況にならなかったり、美しき斬新な表現をしてみてもさほど世間から関心を持たれなかったりする。かつて60〜70年代にも、都市の未来構造を絵に描いて”どーだ!”と言っても結果的に現実に全く反映されなかったりしたわけだけど、今はもう建築スケールにおいても、商業空間はもちろん、集合住宅ですら、ハコの意匠の価値の限界はだいぶ見えている。建物の形で人はそれほどの感銘を受けず、価値観はもとより生活や活動にも大きな影響を受けず、更にはアートな文脈ですら新しい強いメッセージとして成立しなくなってしまった。「そんなことないよ」と言いたいのもやまやまだし、素晴らしいものももちろんあるけど、ちょっと冷静になれば認めざるを得ない。ビジョンはもうハードだけでは構成しえないという気がする。

思えば自分は建築家という職能の定義をもっと広げて考えたらいいのではないか、事業企画なり流通なり投資なりを実践することを含めて捉えてもいいのではないかと思っていた時期もあったが、今はそれはやはり違うと思うようになった。「建築家」は、例えるなら”アーティストではなく絵描き、つまりその仕事は空間創造における手法領域の一つなのだと捉え、むしろその解決領域にはもはや限度があることを前提とすべきだと。近代芸術で絵画というメディアが主であったとすると、現代アートにおいてはあくまで一つの手法の選択肢となった。実際、自分が「こんな場所があったらいいな」と思うことがあったとしても、そこでアイディアやストーリーの軸をつくるリーダーとして建築家が相応であるような機会は減っていると思う。多分、図書館や美術館ですらも、そうなっていく気がする。

グラフィックデザイナーでなく、クリエイティブディレクターなる人がストーリーを組み立てるように、問題解決の複合性とともに創造のフォーメーションは変わって行く。そのときにアーティストやディレクターに相当する言葉が何かは未だにわからない。あえて急いでネーミングする必要があるとも思わないし一つにまとめるべきとも思わないが、直感的に、アーキテクトという言葉でまとめるべきではないとは思う。いずれにせよ、力強い場所創造のディレクションは、建築家の個人技では(極めて一部の例外を除いて)なかなかできないものだ。社会的課題や事業的課題を空間的にクリエイティブに解くということは、少なくとも従来の建築家の教育や思考の枠では務まらなくなっていることは確かだと思う。これはネガティブにも見えるけど、ポジティブに見れば、空間の創造や解決の方法や切り口の幅は多様でありうるということでもある。

そうした中でどう動くのか。当然答えは一つではなく無限にあるわけだけど、いくつかのタイプに整理することはできる。一つは建築家、もう一つはソリューションアーキテクト、それからプロデューサーという具合。「建築家」は美しい空間や、”空間的に斬新な”アイディアを形にするアーティストであり、ソリューションアーキテクトは多面的な問題解決の中で全体観や現実的要請・状況をきちんと把握しながらハードデザインを行うデザイナーであり、プロデューサーは課題解決を多面的に行う際に複合的なキャスティングをしながらハードもソフトも(あるいはマーケティングも)含めて統合的な答えをつくるリーダー、という感じか。

今の建築家は、ソリューションアーキテクトのような感じのカタりをキメながら、実は絵描き的建築家であって、その領域の外については実はあまり現実的な分析や知見を持っていないという人が多いと思う。それは大抵の人が”なんでも設計します”というスタンスである以上、どうしても限界があるのだけど。プロデューサーの立ち位置でマニフェスト的なアウトプットをする人もいるが、惜しいことに、発想はいいのに現実感という意味では途中のカッコいいところで詰めを止めて抽象的なメッセンジャーに留まろうとしてしまったり、他の領域のプロを巻き込みたがらず自分だけでできる範囲だけで解くのをやめてしまう人が多いように思う。

やっぱりそれでは影響力にも、求められる機会にも限界がある。問題解決のリーダーシップをとり、多面的なアイデアを出したり集めたりし、具体的に現実をブレイクする筋道を提示できるような人にならないと、社会から本当に必要とされる場面をつくれないのではないかと思う。建築を好きで学んだ人たちはみんな、いい発想と感性を持っており、そして現実的な分析力も本来はあるんだから、現実の解決志向を避けてきれいに動ける範囲にとどまる構造から脱却すべきだと思う。(もっとも、世界的に活躍しているような一部の人は、ここでの話はちょっとあてはまらないし、あてはめる必要もない。年間数人までとかの話だけど)。

僕の感覚では、建築家の卵にあたる世代に関していえば、”建築家”が1〜2割、ソリューションアーキテクト(ふう、でなくリアルな)が3〜4割、プロデューサーが1割、あとは別の世界で大活躍しちゃいましょう、という感じ。僕は社会学者的な立場ではなくあくまでビジネスのアプローチで建築に関わっているので少し偏りがあるかもしれないが、日本は一般人がデザインリテラシーが低すぎて、建築家がビジネスリテラシーが低すぎることもあって、やっぱり”マーケット(市場)”の理解というのはもう少し危機感を持って取り組むべきだと思う。

建築家に駅前のデザインを頼めば、まず全く市場原理を無視した発想が始まってしまうことはよくある。マツキヨやマックがどれだけ高い条件を提示してくるのかを知らずに無邪気に山手線の駅前の路面に個人店カフェを書いてしまうようではプロとは言えない。市場の現実を最低限わかった上で、短期的な市場原理を乗り越えるための策略とともに答えを提示することができなければそれは案として無価値である。”市場”の力はまだまだ強力であり、当面さらに強力化する。そこにもっと覚悟が必要だと思うのだ。強烈なデザイン一発で課題解決を支配することは理想だけど、少なくとも厄介な意思決定がつきまとう日本という国においては(あるいはこれから市場力が益々増して行く世界各国でも)現実的な戦略は常に必要なのだ。

さらにプロデューサーたろうとする場合、キャスティングをリードすることが必要で、そのためには現実の問題の全体構造を知る必要がある。そしてそれを可能にするのは、きれいごとでなく、現実の状況を解く手順を理解するために必要な知識や洞察を持つことと、場面によって「建築家」としての職能境界を乗り越えていく行動である。自分の表現の邪魔をされたくないという動きをするよりも、巻き込み巻き込まれた方がうまくいくものだ。そこに踏み込んでいくと、自らの究極の仕事は「建築家」じゃないと気づき、その結果、建築事務所に設計者でない人が入ってきて、気づいたら設計事務所じゃなくなっていくこともあるかもしれない。でもそれこそが自然なアップデートなんだと思う。

そう考えて行くと、やっぱり教育もメディアも変わっていくべきだし、新しいロールモデルも必要だと思う。教育に関して言えば、基礎教育は空間意匠でいいのだけど、それにまつわる諸条件、広がり、関連性、といったもの、つまり空間デザインというスキルが社会的に・文化的にリアルに価値を生んでいくために必要な連携なり仕事のあり方というものをチラ見せすることはもっと必要だと思う。メディアに関しても色々思うところはあるけれど、建築家やデザイナー自身が自分のスタンスや知見の範囲をどうしても広く見せオールマイティに答を出せるように見せてしてしまう中で、一人一人の持ち味や視点の限界を客観的に評価して伝えることをしないといけないように思っている。

いずれにせよ建築の機会というのは減るわけだし、建築的発想力やロマンを持っている人は、全然違う場所(業界)にポーンと行って数年を過ごして、その上でオリジナルな、時代と自分に合った新たな仕事に取り組むというのはとてもいいと思う。人は30を過ぎると「自分は○○の人間だから」と新しい領域に飛び出ることをしなくなることが多いけれど、それはもったいない。自分も32から不動産仲介屋を始めて営業をやってみたり、あるいはかつてやらない選択をした「設計」を自分の仕事の中に組み込もうと仲間と組んで仕事の幅を戻すように広げたけれど、「やってみる」と「人と組む」の組み合わせで、仕事なんていかようにもシフトできると思うようになった。かく言う自分もこんな偉そうなウンチクをかたるのも相当えらそうであることはわかっているし、そろそろ自分を固めてしまっている気がしてきたから、数年先にはポーンと別の場所に行くことも考えたりする。
でももちろん、”それでもおれはケンチクなんや!”という人は、建築家として技やアイディアを磨き上げ、時として人に大きな感動を与えるのだろうと思う。



わかっちゃいるけど

April 9th, 2013

去年5月の新島トライアスロンで、一緒に出た友人2人の腹がばきっとしてカッコよかったので、僕はもう1人の友人と「来年はバキバキに割ろうぜ!」「かけるか?」「おう!」とやったのだが、ずるずるしているうちにもう4月に入り、この時点であきらめることにした。

思えばこないだの仕事百貨のイベントでも「あきらめた人」というカテゴリで招かれ、そのときは「僕は”建築”をあきらめないために、”建築家”をあきらめたのだ」という得意の迷言(当然後づけ)でなんとかカッコつけたつもりだったが、今回はただ単にあきらめたダメなやつ、ということになる。挫折に至った理由は言うまでもなく、
「わかっちゃいるけどいっぱい食べちゃったんだよね。」
「わかっちゃいるけどけっこうサボっちゃったなぁ・・」
である。ま、どうせアメリカのパンツの宣伝に出るわけじゃあるまいし、別に腹なんて割らなくていいじゃんというのがあったのは確かだけど、思えば世の中そればかりという気がしてくる。

「この時間にラーメン食べるのヤバいよね。でも、食っちゃうよね。」というのも、僕らの仲間内ではダメというよりむしろ正しい価値観や美意識として認められてすらいる。「今のうちに宿題やんなきゃ後でつらいのはわかってるけど、遊んじゃうよね」「今日中に片付けないといけないのはわかってるけど、やっぱ今日はいいや飲んで寝よう」というのび太的な発想は世界共通、いや人間の本質である。我慢した方がいいのにキレちゃう人とか。いけないのに浮気しちゃうやつとか、今が大事、今を生きる、と。

不動産会社なんかだと「まあ今ってバブルなんだけど、他がみんな高く買うから高く買うしかないよね。しばらくはだいじょぶなんだから、ババ引かないように売り抜ければいいっしょ」となるし、商店街がなくなっていくとか個人店が消えて行く的な話も同じで、「街が大きなショッピングセンターだけになっちゃったらいやなんだけど、やっぱり安いし便利だし、行っちゃうよね。」「やっぱりDHCだね」「ユニクロだけが強くなるのもどうかと思うけど、やっぱり買うよね」
そうして街の多様性は失われて行く。

会社もそうだ。「儲かればなんでもいいってわけじゃないんだけど今儲かることしないと怒られるしね」という立場に気づいたら立ってしまっている人。「こんな主張はただの既得権益守ってるだけかもしれないけど、立場ってのがあるからね」「会社が巨大になればいいとは思わないけど、巨大になるよう努力しないといけないっていう構造になってるし、それは仕方ないんだよ」「店舗数増やして、シェア増やして、最後はどうなるの?っていうとよくわからないんだけど、停滞は死あるのみだし、今を生きるべきなんだよ」

人というのは、ほんとは長期的に考えると・・ということに常に向かって動くのはほんとに難しいわけで、じゃあどうすればいいのかというと、やっぱり、子供だったら母ちゃんが怖いとか父さんがなぐるとか、そういう話なんだという気がする。つまり倫理とか常識とか、それに基づいた法律とか罰則とか、いわゆるバランスのいい”縛り”というやつ。

今まで長い時間をかけて、侵略戦争はだめっしょ、奴隷とか人権的にだめっしょ、人殺すのまずいっしょ、という共通認識をつくってきたわけだけど、今は「経済的な侵略はどんどんしなさい」という前提の時代である。

もちろんそうはいっても「これから途上国はがんがんくるわけだし、自分の国だけ草食みたいな発想でやったら最悪なことになるよ」というのはリアルに理にかなった話なわけで、そうなるとやっぱり世界のインテリジェンスがどこかの段階で、高い目線できっちり”握る”しかないという話になってくる。国連とかダボス会議とか、ってそのへんあんまりわかってないけど、高い志も現実感覚も持った人たちが世界の前提となる”握り”を進化させてきたわけだし、これからリーダーシップをとっていく世代はかなり価値観的には準備ができてきているように見える。

個人的には、経済侵略とか短期売買とか、そのあたりの前提はあと20年くらいでさすがに変わるだろうと思っている(とはいえまるっきり変わるという話ではなく、サッカーにオフサイドやペナルティPKができるくらいのルール変更くらいでも解けるのかもしれないけど)。もちろん、そうして世界の前提が変えるまでは・変えるためにも、まっとうな成功事例をつくっていくのが正しい。

根本的に「意志」は長期ベース、「欲」は短期ベースだけど、欲が意思を邪魔するわけで、だから長期最適のためにはコントロール、縛りが必要である。自分の腹割り論で言うならば、先に罰ゲームを決めていたら、がんばれていたような気はけっこうする。要するに事前の読みが、自分の弱さへの認識が、甘かったわけだ。わかってはいたんだけど。



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