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脱都市計画?

July 19th, 2020

先日、上山信一さんのSFCの授業というかゼミ発表会みたいなものにオンラインで潜らせてもらいまして。分野的には都市政策、都市計画、都市デザイン、都市経済、みたいなものがミックスした感じだったのですが、なかなかに面白くて、さすが上山さん、さすがSFCの学生たちだなという感じでした。

ちょっとカタい話になりますが、それを聴きながら改めて思ったのは、Urban Planningとか都市計画という言葉をもうやめちゃえばいいんだということでした。捉え方を少しい変えて、というかそれらを包含する形で、都市デザインとかcity&area designとかにしてしまう方がよいのだと。

かつて人口増加や衛生問題に対応して管理したりインフラつくったりする時代には計画が有効だったために、それがズルズルと今まできてしまったわけですが、今は状況は全く変わっていて、特に市場の力があまりにも強くなった中では、公セクター側としてはもうルール設定によって都市の姿を誘導することが基本なわけです。

そしてその行為自体が、個々の空間のデザインとは少し違う意味で、やはりデザインであって、それは想像力を活かす創造行為であるというべきだろうと思います。

ある頃から、もうそれは数十年も前にはなりますが、マスタープランよりミニプランやゲリラアプローチが有効性を持つという話になって、それは今風にいえばtactical urbanismaみたいなことであったり、小さなリノベプロジェクトで新しい暮らし方を提示するような行為につながっているように思います。

ミクロなプロジェクトがメディアで広がってカルチャーと化していく流れは実際にそれなりのインパクトを生み、そこから新たなルールが生まれる面が実際にあります。それは想定通りに行きやしない「計画」よりも有効と言える面があると思います。が、かといってマクロな戦略や政策が無価値であるという意味にはならないと僕は思っていますし、ミクロなヤツとマクロなヤツが両方いて、それぞれがクリエイティブなヤツで、そして一緒に仕掛けている、というのがいいと思っています。

SFCの発表では小さなリノベプロジェクト的、tactical urbanism的なコトを実行していく人たちをstreet entrepreneurと呼んでいましたが、僕がそこに感じるのは「やっぱりみんな、デザインしたいんだ」ということです。新たなアイディアをカタチにしたいという欲求がそうさせるのだと。そしてかつてはフィジカルな空間の形をデザインと捉えていた時代から、徐々に彼らは生活像や価値観を含め、仕組みとかコミュニティのあり方だとか、そういうものを統合的にデザインして表現するようになっています。

僕はそのようなシフトがもう一歩進んでいくとの期待があって、つまりは街なり都市なり地域なりの、ある程度マクロ目線の(そして今のところ”広義”な意味での)デザイン、という方向にも展開すると感じています。そうなると、政策なりルールなりというところまで含めて街のデザインをしていくことに、創造表現欲求が向いていくのではないかということです。

そしてそうした「デザイン」は当然ながら、都市経済、交通、テクノロジー、福祉教育、そして政治構造も、コンテクストとして具体的に織り込みながらリアルなかたちを戦略思考&デザイン思考で探っていくことになります。これは広い視界を必要とするために、必然的にコラボレーションで進めていく話になるでしょう。そしてコラボする以上は共通言語が求められ、関連領域をそれなりには把握することが必要になります。

建築セクターでいえば、丹下黒川磯崎菊竹といった大御所たちの誇大妄想感のある構想は、ある種の挫折があったと思いますが、それはすでにあの時代にも経済的あるいは政治的なコンテクストを包含したプロセスでなければリアライズしえなかったということだと思います。

しかしながら創造的な人々というのはやっぱり「創造」「デザイン」をしたいわけで、「計画」をしたいわけではありません。自治体がつくる総合戦略にせよマスタープランにせよ、条例、公共施設施策、あるいは地区計画、どれも「都市計画」みたいな捉え方で表現していると、クリエイティブな香りがしてこないのが問題だと思っています。

都市計画とかまちづくりといったものが都市経済や産業戦略の話と分断されてしまっていることもだいぶ問題だと思っていますが、ルールや戦略によって現実の姿を誘導して編み上げる思考や行為も、ひっくるめてデザインと呼んでしまって、創造欲求を満たす超ポテンシャルな世界なんだぜと叫んでおき、同時にアカデミーでも体系化しておくことで、けっこう状況は変わっていく気がします。

僕がいま構想している「コレクティブ・ディストリクトのディベロッパー事業」という、これだけ聞くと意味不明の事業モデルも、いってみれば開発ビジネスなんですが、むしろ気持ち的にはエリアのデザインそのものだというつもりでいます。

今の大学生の世代は、テクノロジーにもマーケティングにも普通に興味がいくような人たちが、街のあり方とか情緒みたいなものにも同時に関心を抱いていて面白いなと最近しばしば思いますが、ハードデザイン系の大人たちも、これからの30年のお仕事をいい形でつくっていくためにも、今のうちにこれまでさほどマジに突っ込んでこなかった話を「具体的に突っ込んで」勉強していくのがいいのではないでしょうか。とりあえずいろんな分野の人たちと交わりながら。

とかクソ偉そうなことを言って恐縮です。僕も精進します。



コロナ、コミュニティ、或いはサードプレイス

July 3rd, 2020

1. 東京オアシス
蒲田の歓楽街に東京オアシスというカラオケパブがある。僕に言わせればここは東京で最も素晴らしいコミュニティ・プレイスである。天才的な司会者兼店長である”もんちゃん”の手腕と情熱によって、そこにいる地元の中年男女グループも、普段中目黒あたりにいそうな若者や時々訪れる海外の有名クリエーターなども、気づけば70-80年代の歌謡曲を歌い、オアシス・ダンスを踊り、互いに喝采と握手を繰り広げることになる稀有な酒場である。蒲田のもんちゃんこそ、かの山崎亮先生と並ぶ日本の誇るコミュニティデザイナーである。だがその東京オアシスも、このコロナ禍において制約を余儀なくされ苦境に立たされていると聞く。行かねば。

2. コミュニティ・プレイス
いつからか、この言葉がよく語られるようになった。いわゆるまちづくり界隈では皆がコミュニティのための空間、居場所、多様性ある共生空間、といったものを構想し、実際にその実現や運営に奮闘している。だが現実にはそこで当初謳われていたような「様々な属性の人々が出入りし居場所として過ごし、そこに繋がりが生まれる」といったことが思惑通りに起こるとは限らない。都市や地域の中で孤独化した人々のための居場所を意図したとしても、結果的には元気で仲間も多い意識高めのリア充たちの部室と化すことも多いと思われる。
一方、サードプレイスという言葉も、一体その実態が何なのかは未だ明確化されていない概念であるようにも思える。例えば、おじさんたちの溜まり場として昔から存在しコンビニよりその数はずっと多いと言われる「スナック」こそコミュニティプレイスの完成形の一つでありサードプレイスそのものなのだといった話が説得力を持つわけであるが、もしそこに「ダイバーシティ」までをも求めるならば、必ずしも属性的な意味でのそれが宿る場所とは言い切れない。僕はパーキングエリアや運転免許試験場に行ったとき、都市において稀有なレベルで”多様な属性や嗜好性を持つ人々が偏りなく一堂に会しているその空間で、人々の嗜好性タイプの割合・分布の観察を行っているが、そうした空間は意図的に簡単にはつくれない。またコミュニティとは一定の人のかたまりと繋がりであるとすれば、そこに多様性が必要な理由というのはジェネラルには語れないはずであり、そもそもコミュニティプレイスとは何なのかという問いに戻ってくることになる。

3. カルチャー
ところで「文化」という言葉と「カルチャー」という言葉には、微妙な差異があるように思える。僕はこの二つの言葉の語感的な違いとは、ファッションやトレンドといった概念の有無ではないかと思っている。カルチャーという言葉にはある種のファッションやトレンド、あるいは嗜好性要素が含まれており、文化という言葉はむしろトレンドに意識的ではない形で自然発生的に広く共有されるに至った感覚と行為・慣習であるように思われる。カルチャーとコミュニティという言葉は、ある文脈においては距離の近い概念と思われる一方で、いわゆるカッコ付きのコミュニティプレイス論で語られる場合には、むしろ”カルチャー”は相反する側面を持っているわけである。

4. カラオケ
カラオケそれは文化である。歌い踊るという人間の普遍的本能をベースに、現代社会に生み出された一大娯楽の形であるが、ここにはファッションの追求意図は基本的にはない。80年代頃にはカラオケは一つのトレンドと言われたとしても、それはあくまで結果であったし、さらに言えばそれは「文化となすこと」を意図したものでもなかっただろうが、現実としてそれは20世紀に日本に根付いた一つの文化なのである。カラオケボックスのようなある種の機能空間としても、はたまた「東京オアシス」のようなコミュニケーション酒場においても、それは必然的に、そして自然に浸透していった。

5. サードプレイス
家や職場の他に第三の居場所があることは豊かなのだ、というのはわからなくはない。自分も喫茶店をハシゴして仕事をするタイプであり、一人で街の中で机を構える場所がないと困ってしまう。スターバックスのいうところのサードプレイスがコミュニティだとか出会いだとかいった意味を含んでいるのかどうかは知らないが、パブリックな環境にある机には普遍的かつ多様なニーズがある。そして少なくとも自分の場合、周りに知らない人たちがいてかつ関わる必要がないという環境から、ほどよい緊張感と圧倒的な自由とともに、結果として大いなる集中力と癒し、そして街への帰属感を享受する。
そこにいる人の多様性という意味で言えば、それが高いといえる居場所空間の一つはファミレスであり、少なくともスタバよりも属性は多様である。だがファミレスに多様な属性の人がいることが特段の意味を持っているとは言えないかもしれない。

6. コミュニティプレイス再び
そもそも、多様な人々が共生し、彼らの互いのコミュニケーションが生まれる場所、というのを創り出す必要がなぜあるのだろうか。これはいくつかのタイプで語られることが可能であろう。ビジネスだとか、イノベーションだとかいった軸でいえば、そうした場所の持つ意味があるだろう。だがそこではある程度同様な意識、目的軸を持っている人々が触れ合うことがむしろ大事であったりする面があり、おじいさんも子供も中学生も日常的に一緒にいることを目指すべきとも思いにくい。一方で、日常や災害時などにおけるリアルな共助が望まれるような地域社会においては、失われた関係性を補完するための空間として、世代を超えた共生の空間や機会は意味を持つに違いない。後者においてそうした空間は、その場所や地域や国の共有された「文化」を取り込むことはあっても、「カルチャー」を排除した方が目的に近づけるだろう。ここではいわゆるオシャレの弊害も見え隠れすることとなる。そしてさらにいえば「皆の居場所」といった抽象的なイメージをもって、そこに「それらしさ」をかぶせることは、多様性から遠ざかる道に他ならず、「らしさ」のデザインはその対象をしっかりと見定める必要がある。

7. コレクティブ
これからの生活環境を考えていく上で、コレクティブという概念に着目している。北欧に多くあるようなコレクティブハウジングは、生活空間の一部を共有する形で暮らす住宅であるが、僕のイメージしているコレクティブ(リビング)とは、近隣を含めた街の中も含めた範囲で一定の空間やサービスを共有し、そこに世代をまたぐ関係性があることで様々なベネフィットも生まれるというものである。これからの都市、郊外、あるいは中山間部などにおいて、これまでとはまた違う「コレクティブ」の形に大きな可能性を感じている。そこではやはり、共有されるサードプレイスとでもいうべき空間が特に高齢者や子育て層といった人たちにとって意味を持つ可能性は高いだろう。だがその空間は一つの共通のモデルであるべきものではなく、それこそ多様な種類のそれがつくられる方がいい。「多様性とコミュニケーション」はいつも登場するべき与件ではない。

8. コロナ再び
最初の話に戻るが、東京オアシスに興味を持った人は、ぜひこの時期にこそ行ってみていただきたい。マスクをつけても歌は歌える。手のひらも体もアルコールにまみれながら、コミュニティをデザインしていただきたい。まち界の出川哲郎と言われ、住みたくない街ランキングに登場しながらも愛され続ける蒲田という街の真髄をここに見ることができる。ただし意識や感度が高いと自覚するような人たちが大勢なだれ込むことはここでは無粋である。
僕としてはまあ6人くらいの多様性に富んだグループのお誘いをお待ちしております。

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* 近頃、何が言いたいかよくわからないけどなんとなくそれっぽい感じの文章書くのがストレス発散みたいになってきています。お許しください。



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