June 23rd, 2012
ゆるいヤツだとよく言われますが、僕は何気に仕事が大好きで、
予定のない週末に喫茶店で仕事のことを考えるのが至福の時間だったりします。
1年半前から走ったり泳いだりチャリ通勤したりというのを日常的にやるようになったのも、
運動すると仕事の能率も上がるし、体が調子よくなれば集中力も上がって仕事の成果も出る、
だから気分がいい、というのがかなり大きい理由だった。つまり僕はいっぱい仕事をしたい。
人並み以上にせっかちなので、無駄を減らす技術とか、遊びも「有意義」なものにするだとか、
ややキモい自己啓発系のノリも含めて、ノウハウ本みたいのもこっそり読んだりもした。
もちろんそうはいっても、友達と飲んでバカ話するとか山に行くとか
映画見るとか本読むとか新島でぼーっとするとかピアノの練習とか、色々必要なことがある。
基本的に割と日々の時間の自由度があるから、ある程度マネジメントしないといけないのだが、
その技もけっこう進化してきた。運動するようになってからは、
「あ~今日も寝っ転がってるうちに夕方になっちった~」みたいなことはあまりなくなったし、
総じてだいぶ無駄がなくなって、これ以上キャパを広げる余地が見えなくなってきた。
好きな仕事はしているし一応食えてはいるけれど、まだまだもっとやりたい、
でも自分レベルの才能では、もっともっと効率的にやらないと、思いに追いつかない・・
で先日、堤清二(=辻井喬)の自伝を読んだ。
なにげに僕は彼にあこがれみたいなものを持っている。
というか、彼は自分が意識する先人としてかなり上位にいる。
西武百貨店を成長させながら、パルコをつくりロフトをつくりセゾン美術館をつくり、
そして無印良品をつくり、クレディセゾンもつくった。
それだけでもスゴすぎるのに、同時にずっと文学者として詩を書き続けた人だ。
「なんでそんな時間があるんだ?!」と改めて思った。
工夫して詩を書く時間をつくり出すとか、そういう話じゃなく、
彼の場合はもう、とにかく詩を書く!というのがありきなはずだ。
人を活かして信じて任せることでクリエイティブな時間を確保しよう!とかそういう次元じゃない。
会社や事業の規模は目的ではないけれど、僕は色んなことをやりたい。
自分の場合は一つのメッセージを追求して深く深く掘り下げ続けて
死ぬまで磨き上げ続けるというのも難しいし、
多作なアーティストのように一人で猛烈にアウトプットするというのも無理だ。
やっぱりレバレッジというやつをやらなきゃいけない。
ということで考えてみると、やっぱり単純な話に行きつく。
当たり前といえば当たり前の話だけど、要するに、
一つの重大なアイディアや選択が大きな流れを生んでいく、
一言の威力が人の意思を数年間にわたって高める力を持つ、
一晩の出会いと酒と会話が大きな物語につながっていく、
ということがどれだけできるかどうかだ。
そういうことの積み重ねで、究極的にはそこにいるだけで周りに才能が集まっていく
というのが理想ということになる。
ノートの技術とか合間時間の活用とか「2次会には行くな!」とかいうたぐいの話もありだけど、
結局、発想と判断の力、人間とビジョンの魅力がなければあまりにも限界があると。
大きく発想したり深く遊ぶ中から、一言の価値が大きく上がるようにならねばならないなと。
でもこないだスタルク(=philippe starck)が言ってた。
パーティ行って人と仲良くなるよりも、
机の前でペンと紙、あるいはコンピュータを前にしている時間が一番クリエイティブだと。
(彼は補足して「あ、あと(創造的であるために必要なのが)セックスね。
奥さんとしかしないけどねw」と言ってた。かっこいい・・)
これは合点がいった。自分がルノアールでの一人シンポジウムが大好きなのも、
そこで色んな考えが生まれるのが快感だから。それを少しずつ塗り重ねていくことが
仕事でも個人でも自分なりのメッセージになってきてる実感があるから。
ともかく僕の場合は、もっと大きく遊んで、人とも熱く話して、
そして一人でもたくさん考えて、みんながわくわくするストーリーをつくれるようになるしかないなと。
人の役に立たないテキストで失礼しました。
June 23rd, 2012
こんなことを言うとけっこう批判的に見られるんだろうけど、
僕は今まで原発の問題をちゃんと真剣に考えては来なかった。
もちろんある程度のアンテナは張っているけれど、かなり中途半端だ。
でも最近、近い仲間が再稼働反対の意思を表明したりするのを聞きながら、
もっと知ったり考えたりしようと思うようになっている。
ゆるいけどマジメな人、でありたい自分としては、
時点時点の自分の思うところを少し表明して、突っ込まれたり学ぶきっかけにしたり
するのもいいのではないかと思った。
(いやぁ、去年までじゃ考えられないマジメさですな。これでも・・)
僕の場合、こないだの首相の再稼働の宣言を読んで、それほど大きな違和感がなかった。
つまり再稼働そのものに明確に反対する意思がない。
自分がどういう方向に一票入れるか今すぐ決めなきゃいけないとしたら、
「部分的に再稼働し10-15年後の脱原発を目指す。その過程の状況イメージをきちんと共有」
というのが一番近い。
そもそも前提として、僕は明確に意見を固められるほどの情報を持っていない。
もっとゴリゴリ情報を調べ、視点を広げる努力をもっとしていくことで、
たぶん意見の精度は上がると思うし、考え方も変わるかもしれない。
でもこんな複雑な問題に対して、別の本業をがんばりながら
自分自身が本当に正しい答えが出せるかというと、そんな自信はない。
僕は女友達から自分の知らない男のことで「こんなこと言われたけど、彼、どう思ってるんだろう?」
と聞かれたり、マーケットや現場の状況を知らない事業について「この戦略、正しいよね?」
と聞かれても、「恐らく・・・ではないか。でも断言はできないね」と応える人間である。
もちろん「ここはいずれにせよ、こう言ってあげた方が絶対にいいはずだ!」という確信があるときは、
無理やり理屈やストーリーをつくってでも言い切って押しまくることはするけれど。
再稼働に関しては、少なくとも、自分が絶対反対を表明することが世界を幸せにするとは確信できてない。
なので現時点では、自分が「この人の考え方と感性には納得感がある。そういう視点・筋道で
考えているならば、この人の考えが正しい可能性が高い」という判断をするのがいいと思っている。
考え方のアングルがちゃんとしている人を支持して信じるということは、意見足りうると思う。
「違うだろ。お前の考えはなんだ?」と言われそうだけど、
少なくとも感覚や半端な情報で判断するのが誠実だとは思えない。
原発に関しては「情報が不十分だろうがなんだろうが、とにかくダメだ!結論は明らかだ!」
という考え方もあるだろうと思う。
モラル的に非常に微妙な例だけど、蛾(ガ)がとにかく死ぬほど嫌いな僕は、
蛾がいるだけでその部屋には絶対にいたくないわけだけれど、それに対して
「それは感覚論だ。あなたにとってのリスクを具体的に分析把握した上で考えてみなさい」
なんて言われたら相当イラっとくる。人の自然な感覚は重要だ。
毎年1万人死ぬクルマはとりあえずあってもいいけど原発や放射線はどーしてもダメ!
(あるいは、なくてもなんとかなるでしょ!!)と多くの人が思っているのは事実だから、
幸せ最大化的に言えば、そういうある種感覚的な原理原則論も考慮すべきだろうと。
人間はいつも客観的に考えて行動するわけじゃないし、100%客観的に幸せや不安を感じるなんてことは
大抵できないから、リスクとリターンバランスの最適化という論理的な話だけでは決めるべきではない。
同時に、個人的には、相当深く考えた上で「今後は脱原発に向かわねばならない」と言う人の意見には
アンテナを張って学ぼうと思うけど、再稼働とにかく反対!という人の言うことを見ていると、
物事の全体解決でなく部分解決の発想に近いことが多いように思える。
内田樹さんという人も、素敵なことを言う人だと思ったことはあるけれど、
原発関係の話はそういう意味で全然しっくり来なかった。
スチュアート・ブランド(whole earth catalogの人。stay hungry, stay foolishの人)は、
地球全体の物理的な分析や、現実的な人間の行動や感覚、人の意思の持つ可能性などを
けっこう広く深く考えた上で、原子力は有力な選択肢の一つだと言っているようだ。
昔は猛烈な反原発主義者だったのに、長年の研究の結果、
「ごめん、考えは変わった。自分は浅かった。フクシマを経てもそれは元に戻らない」と言っている。
今の世界の現実の状況をふまえると、エネルギー消費を減らし、再生エネルギーを増やす努力をしても、
そこまでの間に化石燃料等の影響で地球の自然の体系が壊れてヤバいことになるというのが
彼の重要なポイントのようだ。感覚的にはまだ一部疑問も残っているものの、
僕は彼の考える筋道や枠組み自体は、多くの反対論者より正しく見える。
ともかく、自分や他の人たちの感覚感情も重視はするものの、
その自分の感情自体が、本当の長期全体最適の答えにたどり着くであろう視点と切り離せないし
感情の不合理は修正すべきだという気持ちとともにある。
客観的すぎて多様性を評価しているだけで原理原則が一つに収斂しない、というのは
ダメだけど、幼稚な認識でもそのままなんとなく同調するように教育されている(?)
悪い意味での日本人的な動きはしたくないなあと思う。