月別アーカイブ: 2012年3月

牛と桜

March 31st, 2012

それにしても生肉問題がまだ頭から抜けない。
なぜ自分がレバ刺し問題に強く反応するのかよくわからないが、恐らく
僕らの自由をあえて損なおうとする感じとか、
リスクを減らしてリターンはもっと減らしちゃう感じとか、
もっと重大なリスクを無視していることに対するモヤモヤのせいだ。

「一部のクレーマーのせいで多くの人の幸せが損なわれる」「小さなリスクのヘッジのために大いなるリターンを失う」というのは日本では本当によくある。
マンションの世界なんかも、それでつまらなくなった面がすごくある。
(自分も怒られるとすぐ委縮するタイプなんだけど・・)
小学校から「リスクとリターンはバランスで見るんですよ。リスクをゼロにすると幸せもワクワクも消えるんですよ」と教えないといけない。

一方で、花見や花火や伝統的な祭りというは大したもので、
自分が興味ないのに道路閉鎖や騒音で迷惑を被る人もいるはずなのに、かなりのコトが許される。
「素敵なこと」だと大多数が認識していて、かつ
「オトナも子供も楽しめる」というのが大きいのだろう。
あるいは日本人は「日本」が好きだということかもしれない。
花火と温泉と桜という3つについては、いつもその圧倒的な集客の幅と量に感心する。

レバ刺しは、子供にはわからない。周りの女性たちもそこまで思い入れがない。
今一歩、力が足りないのか。残念だ。
納豆に同じことが起こらないことを僕は切に願う。

しかし僕以上に悔しいのは牛たちのはずだ。
「ちくしょう!俺たちの肝臓はしょせん桜にはかなわないんだァ!」
という悲痛な叫びが聞こえて来る。・・いや来ないな。



世の中変えるには

March 31st, 2012

100人のグループを1次会から2次会に移動させるのは大変だ。10人くらいなら叫んだり引っ張ったりして勢いで連れていけばなんとかなるけど、100人になるといくら叫んでも簡単には動かない。”大きな組織が重くてなかなか変わらない”というのはだいたいそのイメージ。つまり基本的には仕方ない。

それでも動かすための方法はいくつかある。ひたすら怒鳴る、遅いヤツに罰ゲームを課す、尻たたき役を数人任命する、早くついたヤツだけ美味しいものが食べられるようにする、その他ゲーム性を持たせる等。
今まで僕は、なかなか動かない人々と2次会の店からのせかし電話の間で焦ったり叫んだりする経験を数多くしてきたが、基本的には1次会の会場を出る前に「うまく動く状況」をつくっておくことが大事であり、特に2次会がただの”続き”でなく、次なる楽しく魅力的な場があるんだという空気をつくることが基本になる。設定がゆるいままでいったんズルズル動きだしてしまうと、後からなかなか収集がつかない。

つまりワクワクするビジョンを示し、その上である程度の役割や仕掛けをつくっておくということがきちんとできれば、ある程度オートマティックにコトは動いていく。マネジメントというのを大ざっぱにそう捉えている。
大きな会社だと、MBA持ってる人やコンサルタントに対して、移動の道筋を考えたり誘導の役割分担を決めたりということを期待したりする。確かにそうしたシゴトには一定の価値がある。さらにこれが政治になると1億人を動かす話なのでそれは大変だろう。ビジョンもルールも役割もかなりうまく定めないとわけがわからないことになって、そもそも大半の人々は今の場所から動こうとしないし、動いても逆方向にいっちゃうヤツとか、意味不明に叫んだりケンカするヤツや、酔っ払って動けないような人もわんさかいる。そうした中での官僚の役割は、詳しくは知らないけど、移動のルールづくりや間違えたヤツへの指導がメインといった印象がある。それももちろん重大な価値がある。

でもやっぱり向かうべき先のビジョンの設定は何より重要で、そこに魅力や納得感があったら自然とみんなノリが変わって「いえ~い!行くぜ!」「わたしも行くわ~!」「っしゃあ!」となるはずで、そこを知恵ある人たちがどんどんやるべきだ。身軽で気合入ったベンチャーがその役割を担う今、政府もせめてもっと応援した方がいい。

それにしても今日知った「レバ刺し禁止」の話など聞くと、ルールメーカーも人生をもっと謳歌しないといかんなぁと思う。何かを判断するとき、議論の各論に入る以前のマインドでだいたいは決まってしまう。僕が知る限りキャリア役人にはナイスガイが多く、プライドが無駄に高い人もたまにいるけど、みんな賢いし「話せばわかる」人が多い。でもなんとなく「ワクワクすることを真剣に考える」ということはしていないんだろうな、という印象はある。遊びがうまい人も少ないという印象があって、それが日本をつまらなくする危険、さらには長期的に日本の価値を減ずる危険を感じることがある。
かつて官僚がノーパンしゃぶしゃぶに行って問題になったが、それは本来、接待が問題であってノーパンは問題ではない(顰蹙覚悟)。むしろ官僚がアホなことやしょうもないことの、良い部分とよくない部分を理解するという意味ではポジティブであった。かもしれない。

世の中変えるにはいろんな役割があって、地道に叫んで盛り上げていくメッセンジャーもいれば、街中のスピーカーでメッセージングするマスメディアもいる。ベンチャーの動きを見て立ちあがり、大きな軍を引き連れて移動する大企業。アートの役割もある。そして全体を仕切る政府・・
未来へ向かう「大移動」を仕掛けるリーダー役はずっとしばらくベンチャーたちだったけれど、最近とくに、社会起業家と言われるような人たちが、その役割において新しい大きな存在になってきたなあと思う。それを動かすためのおもしろいアイディアや表現を出すクリエーターたちも、影響力を増していると思う。消費的な古いタイプは別として。

ちなみに僕は今は、小人数で肩組んでいえ~い!と移動する感じスケールでやっているけど、もっと大勢でどど~っとハイテンションで大移動して、で周りもなんだなんだ?と言うような感じもいいな~と思ったりもします。人々を巻き込んでいけるようなビジョンをつくらねば!と思います。



循環型社会

March 24th, 2012

とある20代のやんちゃ女子2人が言うことには

「お金はどんどん使えばいーんだよ!出どころ一緒なんだからさ!」「だよねー!」

「出どころってどこよ?!」

「日本の経済。ぐるぐる回ってるだけでしょ!」「戻ってくるっしょ!」

厳密な議論はともかく、なかなか悪くない心意気だと思いました。



チェーン店と人間性

March 24th, 2012

今週、数年間住んだ武蔵小山から目黒駅近くの新居(”新築”じゃない)に引っ越した。
武蔵小山という街は、愛着を持っている人がけっこういて、おもしろい場所も色々あるようなのだけど、
自分がここに住んでいる間にそれを存分に楽しんだかというと、そうでもない。
うまいと言われている店も全部行ったわけじゃないし、例のスナック街も数度、
清水湯も最後になってやっと行った次第。でも、ほどよい住宅地の良さみたいなものは久しぶりに味わった。

また朝ネタになるが、引っ越す前に駅の近くの nemoというパン屋&カフェみたいな店で朝メシを食べた。
ここは割とおしゃれ寄りで、パンが美味しいこともあって女子受けがよい類の店なのだが、
タバコも吸えるし、適度にゆるく、朝ならおっさんが新聞を読んでいてもさほど違和感がないので
たまに行っていた。きっとオーナー(nemotoさんていうのかな、多分)がいい具合な人なんだろうな・・

等と考えているうちに、一人シンポジウム(無言)が盛り上がり始め、
「このくらいの感じの店がもうちょっと多くあってもいいんだけど・・・ありそでないよね」
「ていうか都心の朝食は結局チェーン系が数的にほとんどを占める現状についてどう考えるか?」
と少し緊張感のある議題に移ってきた。

そして「人間的なこだわりが見える店は、チェーン店に食われてこれからもっと減っていってしまうのか?」
さらに「逆に、チェーンオペレーションは、そもそも構造的に人間的たりえないのか?」
というところでちょっと掘り下げてみることに。

まず人のタイプというのがある。広げることを目的とするタイプの人は、
場所の”質感”のようなものにこだわることは少ない。
一方で「こだわりの世界観」の人は、深く掘り込む方へ行くものであり、
基本的に広げることを目的としないし、当然ながら広げることのディレクションには向かない。

ところで人間的というのは多分、手触りがあるとか、個人の顔が見えるとか、そういう意味で使っていて、
定義は曖昧なものだけど、ある程度の共通感覚はあるかと思う。
で、それはけっこう本質的な、つまり人間にとっての「快楽の持続性」のために大事なことに思える。
あるいは、人間的というのは、時間が経っても人を寄せ付けるもの、時間とともに魅力が増すもの、
といったこととも重なるように思う。

で、「時間とともに魅力が増すものがチェーン化して経済的に合理化されるのは難しい」
のかというと、人・サービスありきの店舗においては基本的にはそうなのだろう。
ただ、その必要がないと割り切ってしまうと最後に無個性的チェーンに世界が征服されて
しまうので、”その間の答え”を考えてしまう。
チェーン前提で事業を始める人が、そのようなテーマを特に意識しない場合が多いという構造はあるけれど、
少しずつ多様化していて、スタバにせよcafe companyにせよ、それぞれの形で
人間性を模索しているように思える。
経年変化でいい具合になっていく牛丼屋とかも、そのうち出てくるかもしれない。

ともかく合理性と人間性というのは、相反するようなイメージがあったけれど、
ようやく、相反するものではなくなってきた。
共存し、融合する。人間的だから合理的足りうる。
それらを両立させることは妥協的なことではなく、生き残るための手段にも近い。

また真面目ぶったノリになって参りましたが・・
いずれにせよ、店とか事業とか会社の魅力っていうのは、結局は思想があるか、ですよね。
それが儲かるかどうかはまた少し別軸なんだけど。



建築家の役割

March 11th, 2012



大京町の野口ハウスの前を走って通りかかったら、野口ハウスが解体に入っていた。
とても”渋い”建物で、通るたびに立ち止まって眺めていただけに、
解体される風景を見て、やけに悲しい気持ちになった。
このマンシオンの仲介を最初にしたのは7年前、R不動産のかなり初期の時代で、
確かまだ2つ目の売買仲介案件だった。売主会社がちょっとアンフェアなことをしてモメたのを思い出した。

工事のお知らせ看板に近づいてみると、事業主はパナホームとなっていた。
パナホームがダメだというわけではないけれど、
この建物がパナホームのつくるマンションになるのは、個人的な感情としてやっぱり寂しさを感じた。

今のところ世の中はまだまだ大手資本が強い。不動産の世界ではむしろ強さを増している。
なぜ大手が強いのか。単純に言えば、大手の方が、
売り値から費用を引いたもの、すなわち利益が多くなることが多いから。
「信用」があるから高くなる。それは「趣味の良さ」よりもある種の「信用」に価値を感じる人が多いから。
「費用」はたくさんの仕事をしてる会社の方が基本的には安くなる。
そして何より大手は「営業」のパワーがある。
世の中のベクトルは常に双方向的な作用反作用が起こるから、逆の力も着実にあるけれど、
今はこの綱引きは、全体として大手が優勢な状況が強くなっていると思う。

そんな構造に対してどう立ち向かうかという事について、もっと建築家と話したいと思うようになってきた。
本来、建築家には色んな役割がある。
他に例えるなら、グローバルな現代アート文脈の先端を勝ち抜くことだけがアーティストではない。
現代音楽の前衛だけが偉いわけではなくて、サザンオールスターズは素晴らしい(ていうか、好き)。
もちろん、だからといって音大でロックを教えたり美大でマンガを教えるべきとも限らないので、
大学の建築学科はマッシブなマーケットに対するアプローチを教えよと言いたいわけではないけれど。

震災に対する建築家たちの、様々な提案や議論の姿勢を見て、立派だなあと思ったりする。
コミュニティデザイン的分野への若者の関心を見ていても、視点は広がっているんだなと思う。
であるならば、もっといろんな仕事があるよ、もっとおもしろいこといっぱいあるよ、
いろんな達成感や、いろんな価値観の持ちようがあるよ、ということを思うわけだ。

自分に近い話で言えば、資本の論理やマーケティングについてもっと理解を深めることで、
建築家はもっともっと社会を革新できる。新しい守備範囲やマニフェストテーマが生まれる。
しかも、今その資本の論理やマーケティングといったものは、大きく変化するタイミングにある。
徐々に新たな持続的枠組みに移行するここからの数十年は、
今の大きなシステムと新しい価値観の両方を理解する中からすごく大きな発見や創造ができるはずだ。

基本的に建築が好きな人はマッシブなこと、大多数の日本人の感覚に直接訴求することと
相性が悪いかもしれない。
だから、パナホームに入社してそこからイノベーションを起こせ!と言うわけではないけれど、
生産性の高いプロトタイプを提案することにもっと興味を持ったらいいとは思う。
エネルギーの議論にはすごく興味を持つのに、資本の力に対する議論には思考停止するというのは、
怠惰ですらあるのではないかと思う。(思考停止してないよ、と言われるかもしれないけど)

そして、そういう中から、新しい美学も生まれるんじゃないか。
機械化合理化の流れへのアプローチからモダニズムが生まれたように。
実際、日本のチマチマした都市構造から、いわゆるトーキョー的な住宅のデザインが出てきて、
それが知的な意味でも世界にインスピレーションを与えている面はあると思う。
日本には、社会構造的にも、そして経済構造的にも、色んな固有の文脈がある。
そこには新しい答え、あるいは新しい問い、はたくさんあると思う。

こういうことを言うのは、もう一つ重要な思いがある。
それは、古いタイプのデザインアーキテクトは、その多くがこれから「食えなくなる」ということ。
構造はさらに加速的に変わっていき、トラッドな「意匠力」の経済的競争力は下がる。
タマホームはめちゃくちゃ強い。スターツの免震マンションは超パワフルな訴求力がある。
雑誌で建築家特集やリノベーションの話が増えたとかいって、それで
「人々は以前よりデザインに敏感になっている」なんて言っているのはかなりマヌケだ。

”僕ら”にとって、状況はそんなに楽観的なものじゃない。
一部の天才を除けば、戦略転換が必要なのだ。

ともかく、がんばらなきゃ!
(↑そんな結末かよ?)

近々、アトリエアーキテクトにとってさらに厳しい時代になる構造について
もう一回別の角度から書こうと思います。

・・それにしても、なんか、やけに真面目な感じになってきちゃったな・・






残念な判断

March 4th, 2012

マーケティングリサーチや過去実績に基づいた、ある程度の精度で結果が見える企ては、リスクをとる意思決定者にとって、当たり前だけど、乗りやすい。そういう企画というのは基本的に新しくはないから、さほど驚きや感動がない場合が多いのだけど、それだけだとつまらないから、クリエーター的な人たちや、チャレンジ精神旺盛な素敵な経営者などは、時として、感性や創造力によって新しい可能性を提示したり、それに賭けてみたりする。大事なことだ。

こういうときによく見られる2つの残念なパターンがある。1つは、それが実は素敵で成功する「正解」なのにそれを認識できず見送ってつまらない判断をするパターン。もう1つは、提示された「新しい可能性」や「感性の産物」が残念ながら外れているのに乗っかってしまうパターン、である。これらがいわゆる「残念な判断」だ。

これらの残念が起こるのはそもそも、ビジネスとかマーケティング目線のカンや想像力と、クリエイティブ目線の認識キャパが、(意思決定する人やアイディアを出す人、いずれも)に「同居」しにくいことが大きな原因としてある。で、おっさん~意思決定者のことをそう呼ぶことにする~が自分で結果を想定できないアイディアにも「やってみよう!」とせっかく勇気を持って乗っかっても、やっぱり時々外れてしまう。建築や不動産のプロジェクトだと額が大きいだけに、痛い話となる。一方、アイディアが実は見事に成功しうるものなのに、それを認識・想像できないおっさん(達)が見送ってしまう場合は、「痛さ」はさほどではないが、旅行先で死ぬほどうまい蕎麦屋を知らずに通り過ぎて隣の今一な蕎麦屋に入ってしまったくらいの哀しさが生まれることになる。

課題は2つある。提案した本人だけでなく、上記両方の目線を含めた想像力を持った第三者から見ても、明らかに成功する創造的な解だとわかる場合に、それが成功する解だということを意思決定者がいかに知れるか。限られたプレゼン機会や検証では、その認識は大抵不十分になる。もう1つはその逆で、一見おもしろくてうまく行きそうだけど、両目線的に”見えている”人からすれば、明らかに商売的に×、みたいな場合にそれを意思決定者がいかに知れるか。

誰のデザインがどういうタイプの仕事においては当たる外れる、とか、誰々がやる店はきっとこういう条件や規模ならだいじょうぶだろう、とか、誰々のアイディアはリスクは高いけどスゴい結果が生まれることもありそうだ、だけどそのあたりは誰々がアウトプットを見ればどっちかだいたい判断できる、みたいな、そういう見立てができる人というのは、ある程度、いる。それは有名性とはさほど関係ないけれど、専門性にはある程度関係ある。

残念な判断を減らし、素敵でアツい判断を増やしていくには、そうしたプロフェッショナルレビューのような場があるといいかもしれない。それはfacebookのような大きくオープンなプラットフォームで展開するのではないような気がする。情報を活用するユーザーは当然限定的で、それなりの対価を払う。レビューする人も責任を持って仕事としてレビューをし、その情報・判断の質も問われ続ける。confidentialityは誰かがしっかり管理する。みたいな。どうかな。。もうちょっと考えてみることにする。



朝目黒

March 1st, 2012

目黒駅近くに引っ越すことになった。
家の近くの行きつけモーニング喫茶店はとりあえずここになりそう。
独立系だと朝食に挫折する店が多く、
ここも朝は人が少ないのでちゃんと人が来て続くよう宣伝しとかないと。「珈琲屋ROW」です。
すごく美味しいよね、あそこ行くんだ、趣味いいね!
というほどでもない普通な感じが、落ち着いてよいです。



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