月別アーカイブ: 2018年4月

雇用の話

April 14th, 2018

今年は各部門合わせて3人の新卒が入ってきました。彼らの雇用形態について、毎年僕は直接説明をしています。というのも彼らは契約社員だからです。

僕らの会社には正社員がいません。そもそも正社員という言葉は法的に定義されていないのですが、慣習的には「期限の定めがない雇用契約」を意味します。そしてそうしたその契約は「相当サボっていても、あるいは適性が会社のニーズとかなりずれていても解雇してはならない」ということになっています。そういう雇用形態が世の主流であることには一定の意義があると思いますが、ウチではそのことがいまひとつしっくり来なかったわけです。

うちの場合は、一定の期間の契約を更新していくわけですが、これは長期的な関係を前提にしており、一時的な雇用とは捉えていません。実際、いきなり終了!みたいなことはしたことありません(最初の試用期間で終了は何度かあったけど)。「サボってても適性なくてもよっぽど悪いことでもしない限り解雇されることはありえない」という状態は、活躍してる人の士気を削ぐような面もあるし、会社の強さ・健全性を保つ上でマイナスではないかということです。

おいおい、お前それは経営者の都合だろう、いざとなったら切れるようにしてるんだろ?と言われるかとも思いますが、いざとなったらという話は、正社員でも会社がつぶれたら雇用は続かないわけなので、倒産しないでいられるようにがんばるためにも、依存関係にならず互いに緊張感を持つほうがいいじゃないかと。がんばったけど本当に合わないねとお互い思ったときは別の道に行く方がよいわけだし、会社に寄っ掛かるような仕切りはむしろよくないのでは?みたいな話です。で、うちの設計系やEC系の社員は「長期前提の契約社員」ということでやっている次第です。

なおうちの不動産仲介メンバーは、保険会社と同じような個人プレーヤー契約なのでさらにドライで、ゆえにメンバーの半分近くは自分の会社をつくって別の仕事もやったりして技を広げています。「やりたいことあるけど、うちの会社ではできないな・・やめよう」というのは会社やチームとしてはやはり勿体ないわけで、ならばはじめから「半社外」つまり「お前はすでにやめている・・」という形にしておけば「いーね、じゃあそれは社外で自分でやればいいじゃん、うちの仕事も続ければいいじゃん、あるいはJVでもつくろうか」ということで結果的に関係が続いてくわけです。それでもメンバー間の人間関係は普通の正社員と同じノリです。(ちなみに僕はうちの形を日本標準にすべしとは思っていませんし、うちの中でも時とともにかたちが変わっていくことはあると思っています)

ところで、経営者の論理は個人の希望とずれることはもちろんあります。経営側は無駄を省くとか生産性を上げるということを当然考えるので、そこに最低限のモラルなり、格差をある程度是正する社会システムは必要です。でもその解は、正社員という雇用ではなくセーフティネットや課税の議論で解く方がこれからの時代にはよい気がします。

いずれにせよ、会社にしても国の財政にしても、それがたくましく持続するようにやっていかないと結局みんなに跳ね返ってくるわけなので、ルールや仕組みを決めるときには部分だけを見ないで、何がどう巡り巡って影響していくか、という「因果関係の理解力」をみんなが持っていないと、社会の意思決定がおかしなことになり、世の中が変な方向に向かっていきます。だから日本はなぜなぜ教育(前回ポスト参照)をやるべきっていう話に、僕の中ではなっていたりもしているわけです。



教育の話

April 14th, 2018

僕は数年前から「このあとの自分のテーマは都市計画と教育だ」とか「それらのあり方を進化させるような仕事を自分なりにつくっていきたい」みたいなことを言ってみたりしていたのだけど、そうしているとちょっとずつリアリティが増してくる感じはやっぱりあります。

で、教育についてはまだ何か考えてるわけではないのですが、さすがに自分が親になってみると確かに自分ゴト感はぐっと増してきました。仕事とか事業とかはもうちょい経ってから考えるつもりですし、家族マターとしてもまだ1歳になったところで具体的な計画なんかはないのですが、しいていえば自分の子供に関しては「頭を柔らかくしたいな」という思いだけはあります。

人は何かを突っ込んでやってみるとなんでもそれなりに面白くなっていくものですが、それは頭が柔らかくて、自分なりに深めたり広げたりすることがクセになっていてこそ、な気がします。そして頭が柔らかければ、既存の常識にとらわれない価値観・やり方で自分なりの人生を創り出していけるし、多少厳しい環境になっても幸せに感じるように発想転換できるし、時代の変化にも適応できるような気がします。また、頭が柔らかければ、アホになれて自分も面白くなれるし、人から見ても面白い人になりやすく、結果として幸せに生きられると思うわけです。

3歳くらいまではとにかく絵本とか音楽とかパズル的な?やつとかで情操系をやろうと思ってますが、そのあと徐々にやりたいと考えているのは「なぜなぜ教育」です。

これは簡単に言えば、子供に対して「それはなぜ?」と問いかけまくるということです。そして子供自身もやがて「なぜだ?」と自然に考えるくせをつけようというものです。(ほんとは大人でもやった方がいいんだけど)

日本人は自分の意見主張は苦手だと言われますが、そもそも自分なりの「問い」を発する訓練が足りないと思います。問いを生むことを訓練していないと、考えに幅ができなかったり、偏った感覚的な思いだけで意見を固めてしまうようになると思うのです。保育園うるさい!みたいな類の話も、人の立場を考えたり、広い視点で考える力があればもっとマシなことになると思うわkです。

問いの力を育てるにも、そしてそれに対して考えていく力を育てるにも、カギは「因果関係を掘り下げること」だと考えています。「因果関係を掘り下げる」訓練の積み重ねは、論理的な思考にもデザイン思考にもつながると思うし、それをやればやるほど結果的にいろんな発見をして、頭が柔らかくなっていくことにもつながるのではないかと。(当然ながら、言語を介さない感性の側の方も同時にやる前提。)

かつて僕ははじめて就職する前に、建築の道を離れてビジネスの世界に行くことを決めたのですが、面接で落とされないためにビジネスや経済のことを学ばないとあかんなと思いました。ですが時間が迫っていたため「なぜなぜ5回」という勉強法をやりました。

日経を読んで「なぜ」を5回やる。
例えば「A社とB社が合併した」という記事があったとします。当時の僕にはどういうことかよくわからなかったわけですが、まず「なぜA社とB社は合併するのか?」と問います。で、自分の答えとして「合併する方が収益が上がるからだろう」だと。まあ単純です。次に、「 なぜ合併すると収益が上がるのか?」と問い、「効率が上がるからだろう」と答える。
「うーん、なぜ効率が上がるのか?」と問い、「同じことしてる人がいるからその分の仕事が減らせるから?」と。
「なぜ無駄な仕事が減らせるといいのか?」「うーんと、新しいことできるから?」といった具合。
これがとてもよかったのです。いつのまにか理解も進み、知識アンテナも敏感になり、気づいたら色んなうんちくや自分なりの考え方を語れるようになっていったりもしました。
そういうのがそのときからクセとして強化されたため、いまもよく「この場所にはなんでこんなに人が喜んで集まるんだ?」みたいなとこからなんだかんだと因果関係を堀り始めてしまうことが日々あります。たまに疲れますが。

で、問いをつくるとき、答えを考えるとき、その両方で視点を広げる必要に迫られます。因果関係とともに一つの記事を掘り下げると、理解は深まり、視点も広がります。因果関係は論理で掘るものでもある一方で、それを問うときには想像力も必要なので、問いを出すのも答えるのも、論理力と想像力の両方を行ったり来たりするのです。

僕はこれを授業にすればいいと思っています。とにかく色んな問いを持ち寄ってみんなで掘る、みたいな授業のイメージ。理科とか社会とかいう括りとは別にあってもいいし、もしかしたら各科目の教え方をそっちに思い切り振るんでもいいのかもしれません。
先生は新しい分野を教えるのは大変だから、なかなか教育が変わらないのが現状ですが、「なぜだと思う?」というコーチングはそこそこ誰しもできるように思います。「それはね・・」という答えはそのうちAIでできるでしょうから、むしろ「なぜだと思う?」の働きかけや場づくりには、人間だからこそできる何かがあるような気がします。右脳と左脳の思考力と、好奇心。これらを育てるにはこの方法がよい気がします。もしかしたらそのうち、自分がなぜなぜおじさんになって塾でも始めてしまうのではないかと恐れています。

最後に、それとは別に企画学校のアイディアがあって、どこかでやろうと思っているのですが怠け者ゆえまだできておりません。そう遠くないうちに機会をみつけてやってみたいと思います(とりあえず言っておく系)。



© 2018 ATSUMI HAYASHI BLOG |
快楽サステナブル Design by The Up!
PAGE TOP