脱都市計画?

July 19th, 2020

先日、上山信一さんのSFCの授業というかゼミ発表会みたいなものにオンラインで潜らせてもらいまして。分野的には都市政策、都市計画、都市デザイン、都市経済、みたいなものがミックスした感じだったのですが、なかなかに面白くて、さすが上山さん、さすがSFCの学生たちだなという感じでした。

ちょっとカタい話になりますが、それを聴きながら改めて思ったのは、Urban Planningとか都市計画という言葉をもうやめちゃえばいいんだということでした。捉え方を少しい変えて、というかそれらを包含する形で、都市デザインとかcity&area designとかにしてしまう方がよいのだと。

かつて人口増加や衛生問題に対応して管理したりインフラつくったりする時代には計画が有効だったために、それがズルズルと今まできてしまったわけですが、今は状況は全く変わっていて、特に市場の力があまりにも強くなった中では、公セクター側としてはもうルール設定によって都市の姿を誘導することが基本なわけです。

そしてその行為自体が、個々の空間のデザインとは少し違う意味で、やはりデザインであって、それは想像力を活かす創造行為であるというべきだろうと思います。

ある頃から、もうそれは数十年も前にはなりますが、マスタープランよりミニプランやゲリラアプローチが有効性を持つという話になって、それは今風にいえばtactical urbanismaみたいなことであったり、小さなリノベプロジェクトで新しい暮らし方を提示するような行為につながっているように思います。

ミクロなプロジェクトがメディアで広がってカルチャーと化していく流れは実際にそれなりのインパクトを生み、そこから新たなルールが生まれる面が実際にあります。それは想定通りに行きやしない「計画」よりも有効と言える面があると思います。が、かといってマクロな戦略や政策が無価値であるという意味にはならないと僕は思っていますし、ミクロなヤツとマクロなヤツが両方いて、それぞれがクリエイティブなヤツで、そして一緒に仕掛けている、というのがいいと思っています。

SFCの発表では小さなリノベプロジェクト的、tactical urbanism的なコトを実行していく人たちをstreet entrepreneurと呼んでいましたが、僕がそこに感じるのは「やっぱりみんな、デザインしたいんだ」ということです。新たなアイディアをカタチにしたいという欲求がそうさせるのだと。そしてかつてはフィジカルな空間の形をデザインと捉えていた時代から、徐々に彼らは生活像や価値観を含め、仕組みとかコミュニティのあり方だとか、そういうものを統合的にデザインして表現するようになっています。

僕はそのようなシフトがもう一歩進んでいくとの期待があって、つまりは街なり都市なり地域なりの、ある程度マクロ目線の(そして今のところ”広義”な意味での)デザイン、という方向にも展開すると感じています。そうなると、政策なりルールなりというところまで含めて街のデザインをしていくことに、創造表現欲求が向いていくのではないかということです。

そしてそうした「デザイン」は当然ながら、都市経済、交通、テクノロジー、福祉教育、そして政治構造も、コンテクストとして具体的に織り込みながらリアルなかたちを戦略思考&デザイン思考で探っていくことになります。これは広い視界を必要とするために、必然的にコラボレーションで進めていく話になるでしょう。そしてコラボする以上は共通言語が求められ、関連領域をそれなりには把握することが必要になります。

建築セクターでいえば、丹下黒川磯崎菊竹といった大御所たちの誇大妄想感のある構想は、ある種の挫折があったと思いますが、それはすでにあの時代にも経済的あるいは政治的なコンテクストを包含したプロセスでなければリアライズしえなかったということだと思います。

しかしながら創造的な人々というのはやっぱり「創造」「デザイン」をしたいわけで、「計画」をしたいわけではありません。自治体がつくる総合戦略にせよマスタープランにせよ、条例、公共施設施策、あるいは地区計画、どれも「都市計画」みたいな捉え方で表現していると、クリエイティブな香りがしてこないのが問題だと思っています。

都市計画とかまちづくりといったものが都市経済や産業戦略の話と分断されてしまっていることもだいぶ問題だと思っていますが、ルールや戦略によって現実の姿を誘導して編み上げる思考や行為も、ひっくるめてデザインと呼んでしまって、創造欲求を満たす超ポテンシャルな世界なんだぜと叫んでおき、同時にアカデミーでも体系化しておくことで、けっこう状況は変わっていく気がします。

僕がいま構想している「コレクティブ・ディストリクトのディベロッパー事業」という、これだけ聞くと意味不明の事業モデルも、いってみれば開発ビジネスなんですが、むしろ気持ち的にはエリアのデザインそのものだというつもりでいます。

今の大学生の世代は、テクノロジーにもマーケティングにも普通に興味がいくような人たちが、街のあり方とか情緒みたいなものにも同時に関心を抱いていて面白いなと最近しばしば思いますが、ハードデザイン系の大人たちも、これからの30年のお仕事をいい形でつくっていくためにも、今のうちにこれまでさほどマジに突っ込んでこなかった話を「具体的に突っ込んで」勉強していくのがいいのではないでしょうか。とりあえずいろんな分野の人たちと交わりながら。

とかクソ偉そうなことを言って恐縮です。僕も精進します。



コロナ、コミュニティ、或いはサードプレイス

July 3rd, 2020

1. 東京オアシス
蒲田の歓楽街に東京オアシスというカラオケパブがある。僕に言わせればここは東京で最も素晴らしいコミュニティ・プレイスである。天才的な司会者兼店長である”もんちゃん”の手腕と情熱によって、そこにいる地元の中年男女グループも、普段中目黒あたりにいそうな若者や時々訪れる海外の有名クリエーターなども、気づけば70-80年代の歌謡曲を歌い、オアシス・ダンスを踊り、互いに喝采と握手を繰り広げることになる稀有な酒場である。蒲田のもんちゃんこそ、かの山崎亮先生と並ぶ日本の誇るコミュニティデザイナーである。だがその東京オアシスも、このコロナ禍において制約を余儀なくされ苦境に立たされていると聞く。行かねば。

2. コミュニティ・プレイス
いつからか、この言葉がよく語られるようになった。いわゆるまちづくり界隈では皆がコミュニティのための空間、居場所、多様性ある共生空間、といったものを構想し、実際にその実現や運営に奮闘している。だが現実にはそこで当初謳われていたような「様々な属性の人々が出入りし居場所として過ごし、そこに繋がりが生まれる」といったことが思惑通りに起こるとは限らない。都市や地域の中で孤独化した人々のための居場所を意図したとしても、結果的には元気で仲間も多い意識高めのリア充たちの部室と化すことも多いと思われる。
一方、サードプレイスという言葉も、一体その実態が何なのかは未だ明確化されていない概念であるようにも思える。例えば、おじさんたちの溜まり場として昔から存在しコンビニよりその数はずっと多いと言われる「スナック」こそコミュニティプレイスの完成形の一つでありサードプレイスそのものなのだといった話が説得力を持つわけであるが、もしそこに「ダイバーシティ」までをも求めるならば、必ずしも属性的な意味でのそれが宿る場所とは言い切れない。僕はパーキングエリアや運転免許試験場に行ったとき、都市において稀有なレベルで”多様な属性や嗜好性を持つ人々が偏りなく一堂に会しているその空間で、人々の嗜好性タイプの割合・分布の観察を行っているが、そうした空間は意図的に簡単にはつくれない。またコミュニティとは一定の人のかたまりと繋がりであるとすれば、そこに多様性が必要な理由というのはジェネラルには語れないはずであり、そもそもコミュニティプレイスとは何なのかという問いに戻ってくることになる。

3. カルチャー
ところで「文化」という言葉と「カルチャー」という言葉には、微妙な差異があるように思える。僕はこの二つの言葉の語感的な違いとは、ファッションやトレンドといった概念の有無ではないかと思っている。カルチャーという言葉にはある種のファッションやトレンド、あるいは嗜好性要素が含まれており、文化という言葉はむしろトレンドに意識的ではない形で自然発生的に広く共有されるに至った感覚と行為・慣習であるように思われる。カルチャーとコミュニティという言葉は、ある文脈においては距離の近い概念と思われる一方で、いわゆるカッコ付きのコミュニティプレイス論で語られる場合には、むしろ”カルチャー”は相反する側面を持っているわけである。

4. カラオケ
カラオケそれは文化である。歌い踊るという人間の普遍的本能をベースに、現代社会に生み出された一大娯楽の形であるが、ここにはファッションの追求意図は基本的にはない。80年代頃にはカラオケは一つのトレンドと言われたとしても、それはあくまで結果であったし、さらに言えばそれは「文化となすこと」を意図したものでもなかっただろうが、現実としてそれは20世紀に日本に根付いた一つの文化なのである。カラオケボックスのようなある種の機能空間としても、はたまた「東京オアシス」のようなコミュニケーション酒場においても、それは必然的に、そして自然に浸透していった。

5. サードプレイス
家や職場の他に第三の居場所があることは豊かなのだ、というのはわからなくはない。自分も喫茶店をハシゴして仕事をするタイプであり、一人で街の中で机を構える場所がないと困ってしまう。スターバックスのいうところのサードプレイスがコミュニティだとか出会いだとかいった意味を含んでいるのかどうかは知らないが、パブリックな環境にある机には普遍的かつ多様なニーズがある。そして少なくとも自分の場合、周りに知らない人たちがいてかつ関わる必要がないという環境から、ほどよい緊張感と圧倒的な自由とともに、結果として大いなる集中力と癒し、そして街への帰属感を享受する。
そこにいる人の多様性という意味で言えば、それが高いといえる居場所空間の一つはファミレスであり、少なくともスタバよりも属性は多様である。だがファミレスに多様な属性の人がいることが特段の意味を持っているとは言えないかもしれない。

6. コミュニティプレイス再び
そもそも、多様な人々が共生し、彼らの互いのコミュニケーションが生まれる場所、というのを創り出す必要がなぜあるのだろうか。これはいくつかのタイプで語られることが可能であろう。ビジネスだとか、イノベーションだとかいった軸でいえば、そうした場所の持つ意味があるだろう。だがそこではある程度同様な意識、目的軸を持っている人々が触れ合うことがむしろ大事であったりする面があり、おじいさんも子供も中学生も日常的に一緒にいることを目指すべきとも思いにくい。一方で、日常や災害時などにおけるリアルな共助が望まれるような地域社会においては、失われた関係性を補完するための空間として、世代を超えた共生の空間や機会は意味を持つに違いない。後者においてそうした空間は、その場所や地域や国の共有された「文化」を取り込むことはあっても、「カルチャー」を排除した方が目的に近づけるだろう。ここではいわゆるオシャレの弊害も見え隠れすることとなる。そしてさらにいえば「皆の居場所」といった抽象的なイメージをもって、そこに「それらしさ」をかぶせることは、多様性から遠ざかる道に他ならず、「らしさ」のデザインはその対象をしっかりと見定める必要がある。

7. コレクティブ
これからの生活環境を考えていく上で、コレクティブという概念に着目している。北欧に多くあるようなコレクティブハウジングは、生活空間の一部を共有する形で暮らす住宅であるが、僕のイメージしているコレクティブ(リビング)とは、近隣を含めた街の中も含めた範囲で一定の空間やサービスを共有し、そこに世代をまたぐ関係性があることで様々なベネフィットも生まれるというものである。これからの都市、郊外、あるいは中山間部などにおいて、これまでとはまた違う「コレクティブ」の形に大きな可能性を感じている。そこではやはり、共有されるサードプレイスとでもいうべき空間が特に高齢者や子育て層といった人たちにとって意味を持つ可能性は高いだろう。だがその空間は一つの共通のモデルであるべきものではなく、それこそ多様な種類のそれがつくられる方がいい。「多様性とコミュニケーション」はいつも登場するべき与件ではない。

8. コロナ再び
最初の話に戻るが、東京オアシスに興味を持った人は、ぜひこの時期にこそ行ってみていただきたい。マスクをつけても歌は歌える。手のひらも体もアルコールにまみれながら、コミュニティをデザインしていただきたい。まち界の出川哲郎と言われ、住みたくない街ランキングに登場しながらも愛され続ける蒲田という街の真髄をここに見ることができる。ただし意識や感度が高いと自覚するような人たちが大勢なだれ込むことはここでは無粋である。
僕としてはまあ6人くらいの多様性に富んだグループのお誘いをお待ちしております。

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* 近頃、何が言いたいかよくわからないけどなんとなくそれっぽい感じの文章書くのがストレス発散みたいになってきています。お許しください。



タワマン

March 15th, 2020

ある自治体仕事の締切的なやつがあって、ここ数日ずっと鬼のようにキーボードを叩きまくっている。木曜金曜土曜と続けて、夜中の2時すぎまで24時間営業の喫茶店にいた。今日日曜も1時間のジム以外は10時間以上集中し続けている。誰か褒めてほしい。まあこれまでずっとサボっていたのが原因ではあるのだが・・

いま僕は、operation exellenceの鏡である珈琲貴族エジンバラにいるが、ここは日曜の23時でもほぼ満席の賑わいである。そのなかで僕は鬼の形相でパソコンに向かっている。リア充でないことは確かだが、たまにはそんな時もあるだろう。しかしさすがに疲れたので息抜きでこれを書いている。

つい30分前、今晩はまた2時コースだなと腹を括り、家だと一瞬で寝て終わるのでチャリで爆走して新宿まで来たわけだが、その途中でイヤなものを見た。それは「すみふ」のオフィスとマンションである。

すみふとは住友不動産である。僕はすみふが嫌いだ。といっても個人的に嫌いなだけで、当然ながら大変立派な会社であり、まったくもって健全経営である。すみふ出身の友人たちも結構いるが、みんな仕事はできるし人として魅力的なやつばかりである。すみふのタワマンに住む友人も人としてとても素晴らしかったりすることは認めざるをえない。

先ほど目にしたすみふのタワーたちは山手線沿いにあった。かつてそこに何があったのかは知らない。跡形もないからわからない。いかにもちょい贅沢風味のライティングに照らされたいかにもな草むらがタワーを囲み、その向こうに何棟かのビルがそびえ立つ。一見するとBMWとかで入っていくのが正解、みたいな感じになっているが、よく考えたら馬場と大久保の間でカッコつけてんなよ・・という感じである。

こういう開発が嫌いだとか言うのは、貧乏性か、おっさん世代のプチ文化系といったところであろうか。つまり自分。貧乏性のプチ文化系とはこの俺である。しかもガリ勉出身の不動産屋だからこういう開発がどういう理屈でたくさん行われるかはよくわかっている。どう考えても合理的で、批判したところで止まることはないと知っている。

ところで僕はかつていたビジネス系の世界の友人らから「お金に興味ない人だよね〜」とか言われる。興味ないわけではないのだがそれほどない。食うに困るとか将来に大きな不安を感じないくらいには稼いでいるが、好きでない仕事をしてまで今以上に稼ぎたいとは100%思わない。それはつまり好きな仕事で今以上稼ぐ能力がないということなのだがまあ置いておこう。
僕は48とかになっても出張でホテルに高いお金を払うのは無駄と思い安宿を探すし、回らない寿司に行くことはあっても星付きレストランのスタンプラリーみたいのは恥ずかしいとすら感じる。仮にベンツをタダでもらってもチャリの方がカッコいいだろと思う(ポルシェなら戴くけど)。かつては「ここでこっちの道に行けばけっこう金持ちになるんだろうな」と思いつつ逆の選択をしてきた。貧乏とは言わないにせよ、貧乏性的要素は十分にあると思われる。こういうタイプにすみふ嫌いは多い。タワーより低層がいい、スカした店より裏道の古い店がいい、という類の志向である。

しかし僕は誇り高き貧乏性である。自分なりの幸福最適の戦略としてそれを保っている。たぶん余計なコガネを手にするとついついスカした店に行き、下手するとすみふのタワーに住んだりしてしまうのではないかと恐れている。そんなことをしたらこの東京がさらにイケてない街に変貌していくことに加担してしまうと考えるのである。実際のところ、よく言われるように一定のラインを超えると幸福度と収入は相関しないと実感もしている。自分の所得を上げるより会社に置いておいて事業に使う方がいい。

話がそれたが、ほんとうは嫌いなのは贅沢風味の空虚な足元に囲まれたタワーであって、それはいろんな会社がつくっている。すみふだけを嫌いと言うのはフェアじゃないかもしれない。しかし、他の大手たちはすみふよりも街のことを丁寧に考える。すみふはそんなことは考えない。ビルの収益に集中する。そうするのが健全経営のコツたりうるのである。

行政としては所得の高い人が多く住む方が財政が健全化するからそれを望む。所得の高い人を多く集めるには高級マンションをつくるのが王道である。ゆえに工場跡地にタワーが建ち、小さな土地を買いあさって整理してタワーを建てるならば区はルールも変更して応援する。基本的にお金持ちにタワー好きは多いものだ。そういう志向性の方がお金と相性がいいのである。そういう国であり時代なのである(まあ金持ちでなくてもタワー好きが多いんだけど)。

こんなことを書くと「それ、グチじゃん」と言われそうだ。その通りである。だが自分としての自分のためのまちづくりがここにあるのである。僕の友人知人たちにはいろんな志向を持つ人たちがいて、みんな好きなのだけれど、自分と風情的な好みや美意識が同じわけではない。クリエーターと言われる人たちはその意味では近い側にいることが多いとは思うが、立派なビジネスマンたちは逆側にいる人も多い。

僕はこうして密かに少しずつ、メインストリームで稼いでいるビジネスマンたちにメッセージを差し込むのである。日本のディベロッパーがつくるタワーはダサいのだ。キモいものなのだと。これはある種の投票行為でもあり、世間の価値観を自分が望む方向に1mmずつでもズラそうとする幸福追求行為の一部なのである。そして僕の仕事というのも根本的にそういうことであって、全くもって利己的なものである。ただその利己的行為が利他的な意味でもポジティブなものになるために、僕は貧乏性としての自分を擁護しているのであり、そこにおいて自分の価値観に対する信頼があるのである。

・・こうして今日の仕事の終了時間がまた伸びてしまった。鬼の形相でパソコンを続けます..



地域のビジネスモデル

January 10th, 2020

浜松天竜でがんばっているウチの元メンバー中谷明史と話していたら、色々と頭が整理された感じになったので書いておくことにします。

僕は最近ソレ系の場でちょいちょい話すのが、地域再生というのは「まちづくり」と「(地域の)ビジネスモデルづくり」であるという話です。

まちづくりというのは、風景とかストリートの活気とか、魅力的な場所づくりとかコミュニティに関する問題解決など、なんとなく皆が”まちづくり”と呼ぶ系のもの、です。「ビジネスモデルづくり」というのは、「昔はこの街は○○で栄えてねぇ、それに関わる色んな仕事や人の行き来があったものだよ」といったように、その地域の経済を支える生態系のようなものを指して言っています。

この2つはニワトリタマゴ的というか、ビジネスモデルが弱くなるとマチも活気がなくなったり問題が増えたりするという話と、マチが魅力がないと経済的な生態系というのも強くならないという話が両方あります。その二つがうまく並走してシナジーしながら良い方向へ向かわないといけないし、どちら側に関わりを持つ人も、もう一方のことが見えていないと、鶏が卵を産まなくなったり卵から鶏が生まれにくくなったりするんだと思います。

日本では市民住民たちも、まちづくりを頑張ろう!ということで色々がんばっているし、行政も一生懸命考えています。一方、ビジネスモデルづくりの方は商工会議所や地元企業の団体とかあるいは行政の企業誘致系や産業振興系の部署などが、これまた一生懸命やっているということだと思います。ただあえて偉そうに言ってしまうと、まちづくり系も、地域のビジネスモデル系もなかなかうまくいかない場面が多いのが現実で、それはそのやり方がイマイチだからであると考えることは大事だと思われます。

ここではビジネスモデルづくりの方の話で思っていることを書きますと、これからの時代は、自動車産業とか製紙業界とかの集積によってその周辺産業も含めて集まってきてクラスターが形成されて発展する、みたいなことがかつてのようには起こらなくなっています。製造業は工場やその近接集積が必要だったけどそれは減っていくし、一次産業に近いところでローカルで爆発的成長が生じるとかもなかなかに難しいし、シリコンバレーっぽいことも地方で起こることはめちゃ難しいと。

小さい都市なり地域の話でいえばそこまででっかい規模で地域のビジネスモデルが再編成される必要はないわけなので、観光でいけそうなところはとりあえず観光を頑張るというのはまあ一つの妥当な道なのだと思いますし、ある種の環境下にある地域はエネルギーに絡めた新たな解き方はあるだろう、とかはあるでしょう。ですがそれ以外でいうと「だいたいどこでもこれ系でいけるよね」というのは基本的になく、それぞれに筋のいい道は違うでしょう。

そして、新たなビジネスモデルというのは机上でバン!とシナリオを描くみたいなことで生まれるようなことはほぼなく、やっぱり一人の個人の志や才覚、偶発的な出会いや得体のしれない化学反応みたいなもの、あるいは既存企業のちょっとした挑戦みたいなものとかが連鎖して生まれたり変わったりしていく、みたいなことだったりします。

そうしたことが起こるように何を仕掛けて行くか。よくあるような「起業促進に向けてコワーキング拠点をつくります」みたいなことは、まあとても安易な発想で、表面的にやる限りは何の意味もないいのではと思います。よほど複合的・戦略的な何かがないと、そもそも近隣でフリーランス的にデスクワークをしてる人たちがおしゃれな拠点に場所を移した以上に大して意味が生まれないと考えるべきでしょう。

僕は最近、地方のそこそこ規模のある企業で、潜在的な成長可能性があるのにそれを現実化するための作戦を生み出す視点や人材が欠けている、みたいなところに、都会でバリバリ戦略的なビジネスモデルを仕掛けているような人とか、やたら販路を持ってる人とか、ある種のクリエーターとかが一定の関わりを持って知恵を注ぎ込むような状況を生むための人のマッチングシステムがあるといいかもと思って、周りで興味を持ちそうな人にそんな話をしたりしています。それは要するに、その会社にとって「足りてないピース」を埋めるという話です。

量的なインパクトが出やすいい一定規模の地場企業とかでなくても、新しい小さな種を生み出すみたいな話ももちろん大事なわけですが、プロジェクトなり新規事業なり起業みたいなものが始まってドライブしていくということを考えたときに、地方地域ではそこで「組み立てるヤツ」が欠けていることが多いように思います。アイディアの断片のようなものがあったときに、それをうまく展開していく「勝ち筋事業」に仕立てるシナリオライター&ドライバーみたいな人、です。それが往々にして「足りないピース」わけですが、そのことが軽視されてると思うわけです。

どんな地域にも何がしかの資源といい役者はいるもので、ゆえに集まって議論すると「なんかいけるかも?!」なアイディアが出る。で、「誰がやるんだ?」「やってみたけど続かないなぁ」みたいなことがよくあります。これを解くのが上述の「組み立て屋」であって、「こういう形にすると、この人もこの会社も継続的にコミットできるよね」といった形のデザインをしたり、「あ、なんかうまくいってないのはココが問題だから、こうすればいけるよ」みたいな適切な判断をしたりする役割です。

しかし悩ましいのは「組み立て屋」人材というのは少ないということです。地域の観光や産品のデザインをするようなクリエーターなどの数に対しても圧倒的に少ないわけです。そうした訓練を日々やっている人というのは都会の大きな会社とかベンチャーとかにたくさんいたりして、マクロで見ると、地方地域では不足している状況なのだと思われます(まあ都会でもそうなんですが)。もちろん地域にもちゃんといるんですが、衰退地域で小さなきっかけを生み出すみたいな世界においては特に、この組み立て&ディレクションの部分がけっこうなレベルの能力がないと難しいこともあり、結果的に足りないピースになっているということだと思います。

この辺の話でヒントとして、僕は鎌倉のカマコンバレーは一つのヒントになると思っています。カマコンバレーは月に一回とか集まって様々な新しい事業や活動仕掛けなんかについてアイディアを出したりそれを現実的に進める知恵を出したり関わる人を集めたりする場としてのイベントシリーズ&コミュニティになってましたが、これは地方地域においては必ずしもリアルに集まらなくてもできる考え方に思えます。今の時代、手段は広がっているので。

組み立て屋(それ以外にも色々な種類のピースがありえますが)なんかについて言えば、都会でゴリゴリやって様々な繋がりや情報やスキルを持ってるような人たちも、自分の地元や関わりある地域のコトに役立ちたい、離れててもできることはないかな、と思っているような人たちはけっこういると思うのです。彼らをうまいこと巻き込んで適切な知恵や情報のぶつけあいをするようなインフラをつくる、彼らをうまくレバレッジしちゃう、というようなことが、とりあえずコワーキングスペースで起業促進みたいなハコ志向で動くより意味があるのではないかと思いますし、優遇策つくって誘致営業をがんばるみたいなことよりも面白いことにつながりえるように思います。
冒頭の浜松天竜ではそんなことが始まるかも?という話になってるので、楽しみです。

それと若干話が変わりますが・・小さい街にいって話を聞いてよく思うことですが、何しろ目の前に空き物件が多かったりすると、それをどう生かすかという話がよく出ます(僕の仕事柄ってのも大きいでしょうが)。それはそれで個別の問題として重要なんですが、そのときに「まちづくり」文脈の世界だと「リテール」つまり「そこにやってくる人がお金を落とす商い」の話になりすぎる問題というのがあります。そこに人がいないのに、どうやってそこに人を引っ張ってくるか、という問いが立ちすぎるというものです。人が来て売りが立つ世界というのは楽しいですが、そもそも「売りが立つ」というのは、人が来て立つ売りと、人が来なくて立つ売りがあるわけです。つまり輸出産業をもっと考えようよと思ってしまうわけです。輸出産業をドライブさせたりブランディングするために、聖なる物理空間を設定する、という方向でも楽しい筋道は描けます。でも、物件をネタにコトを考えようという視界の中にいると、ついついリテールにいきがちであるというのは意識しておくべきに思えます。

僕は、”まちづくり”と”(地域の)ビジネスモデルづくり”が融合していく話がようやくちゃんとされはじめる元年みたいなタイミングに日本はいるのだろうなと思っています。自分の元々の仕事分野である建築(デザイン)と不動産の間みたいなところでは、それが融合した話が広がっていった元年は2000年代の初め頃でした。その後そうした分野ではだいぶ視界が進化してコトが進みました。街とか地域といった世界では、今ようやくそういうところにいるんだろうな、みたいな気がしています。

というわけで、気づいたらだいぶ長くなっちゃったのでいったんここまでということで。
「で、何やりゃいいんだよ!」みたいな感じで恐縮ですが、その答えを生み出すためにその手前でやることがあるんじゃね?という話でした。すいません。

 



バンド救国論

September 8th, 2019

1年ほど前に仕事仲間と勢いでバンドを組んで月一くらいで練習しているのだが、これがめちゃくちゃ楽しい。技術的にはいわゆる”上手い人”は自分も含めて一人もおらず、せいぜい知り合いのパーティで無理やり盛り上げるのが関の山である可能性が今のところ高いのだが、最近わかってきたのは、これは社会を救うのではないか?ということである。

誰でも知ってる簡単な曲のコピーもまあ楽しいのだが、ウチのバンドはたまたまヴァイオリンがいたので、パッヘルベルのカノンをベースにしてメジャーなポップス曲を乗せまくるというアレンジを始めてみた。カノンというのはそのコード進行がめちゃ汎用性が高いので、かなり多くの有名な日本のヒット曲をそのまま乗せることができる。それで色々遊んでいるうちにオリジナルな表現が色々生まれ、異常に楽しくなってきたのだ。

それはそれとして、なぜバンドは社会を救うのか。まず僕はこのところ、高齢者住居には音楽スタジオがなければならないと主張している。これには明確な理由がある。

今から約60年前、1957年にビートルズがデビューした。彼らのヒット作が連発したのは60年代である。エルヴィスも実はほぼ同時期にデビューしている。つまり、1960年代に10代の青春を過ごした世代、まさにこれから70代を過ごす世代の人々というのは、「ロックで青春を過ごした人類初の高齢者」なのである。ここに社会とバンドの関係における重大な意味が存在するのだ。

日本の高齢者施設では様々な「レクリエーション」が行われている。その中のひとつが言わずと知れたカラオケである。歌うのは確かにいいものだ。他によく行われる「玉入れ」や「タケノコ釣りゲーム」などに比べれば人気があるだろう。だが当然ながら、機械の伴奏に乗せて歌うのとチームで演奏するのは全く違うものだ。

なにしろバンドは創造行為である。アレンジもいくらでもできるし、バラバラな状態から少しずつ完成度を上げていく過程の面白さも、バシッと合ってきたときの気持ち良さも、仲間とともにつくりあげる楽しさも、何もかも違う。これからの高齢者たちは、10代の頃の青春の感覚を思い出しながら、頭と体を駆使して創造行為を繰り広げるのである。

こんなことを言うと、若い頃に楽器をやっていた人にしか許されない遊びではないか、バンドで合わせられる技術を持った高齢者などほぼいない!との異論もあるだろう。しかしこれから楽器のテクノロジーは間違いなくすごい進化をとげる。GとかFとかAmと書いたボタンを押して弦を弾けばきれいなコードを奏でることもできるし、メロディを弾けば伴奏もついてくるといったことも可能になる。技のレベルに依存せずにそれぞれのレベルで楽しめるようになるのである。楽器を必死で学ぶモチベーションがわかない人も、リズムくらいは叩ける。

そうして彼らは日常に「もっとがんばろう」「上手くなりたい」「モテたい」といった欲求が芽生え、そして時に人に大喝采を浴びるスターとなる。アーティストとしての自分を認識したとき、彼らの人生の意味は変わる。そして指と頭を使い続けることでボケの防止になり、健康寿命は長くなり、結果的に医療コストも介護コストも下がっていく。そしてバンドはどんどんメンバーやパートを交代して楽しめるため、気づいたら孤独問題、コミュニティ問題も解けていくのである。バンドはまさにこの高齢化社会の諸問題を根本から解決する手段なのだ。

ということで、これからは全ての高齢者住居、CCRC、多世代共生住宅といったものには必ず音楽スタジオとライブスペースを設置することを建築基準法で必須とすべきである。さらに各自治体は全ての高齢者に何らかの楽器を無償で提供することを国として義務付けるべきである。法律になるまでの間、財政難の自治体こそ我先にと先鞭を切って明日にも政策決定すべきである。そして全ての音楽家と楽器メーカーやスクール事業者などは、この市場をめがけて新商品の開発や、コード進行と曲のガイドブック、アプリ、動画共有やレッスンのプラットフォームとコンテンツを開発しなければならない。

日本の殆どの問題は、こうしてバンドによって解決していく。今、僕にはそのビジョンが明確に見えているのである。いやマジで(笑)。

 

*反論として「ならばクラシックだって吹奏楽だっていいではないか。それがこれまで高齢者コミュニティの中でそれほど大きく広がらなかったのになぜロックならできるのか」といったものが想定されるが、それはナンセンスである。もちろんクラシックをやってもいいのだが、ロックの方がゴマカシが効くというのがが一つ。簡単に弾ける楽器が開発されるというのが一つ。そしてじいさんばあさんがクラシックをやっても破壊力に限界がある。高度成長を支えてきたモーレツ世代のエネルギーを、そして彼らを家で我慢して支えてきたご婦人たちの溜まり溜まったエネルギーを、ロックで爆発させてこそ、彼らはその隠れたるマグマで破壊的パワーを発揮し、世の中を変革していくのである。



凡人の主張

June 12th, 2019

斜に構えない大人になろう!キャンペーンを今こっそりやっておりまして、まあ簡単に言うと、思ったことを素直に言おうという感じのやつです。僕は人に嫌われたり批判されたりするのがこわいので、ついついそれをガードしちゃう悪いクセがあるんですが、今更ながらそれじゃだめだなというソロ運動です。

で、ちょっと急に変なことを思い立ちまして、偉大な建築家や建築界に文句を言って(書いて)みようと思った次第なのです。練習っちゃ練習ですけど。まあ僕自身はケンチク家を挫折した人間ですし、建築に関する評論的なものなど書けるわけもないポジションと見識レベルなのですが、それを気にしないのが今回のキャンペーンということで。ぶっちゃけこれ読む人ってあまりにもニッチすぎるのですがそれも気にしないことにします。

昨日、磯崎新さんのレクチャーを聞いたんですよね。本業は不動産屋なので、アカデミックで知的なお話はたまに家でかっこつけて読んだりはしますが、そっち系のシンポジウムとかは滅多にいかないのですが、次世代都市の交通とデザインみたいなやつだったし、そこで磯崎新に内藤廣に・・とか聞くと、なんか元建築少年的にちょっと気になったりもするもので、ふと思い立って行ってみたわけです。

で、まあぶっちゃけ期待はずれだったんですね。いやもちろん、内藤さんや磯崎さんの話は流石にめちゃ知的というか粋というか、かっこいいというか・・それこそいわゆるuberがどうとか自動運転時代のモビリティうんぬんみたいな話についてのありがちな未来分析のような世俗な話は一切せずに、1000年前くらいに行ってみたりめちゃ抽象的な図像とか出てきたりするわけです。そして1960年代の都市モデルの絵とか、いわゆるメタボリズムとかのアレが出てきたりして、それが投影された脇に磯崎さんが座ってるだけでオーラ満載、みたいな。

もちろん知的刺激といいますか、右脳のマッサージというか、イケてるなぁとは思ったんですが、一方でなんというか、オナニー感みたいのを感じてしまったわけです。かのセンパイたちはレベル高すぎかつビジネスマンでもないわけなので、変に現実的なソリューション☆みたいな話をしたら興ざめだよねという感覚も持っているつもりではあるのですが、さすがにこれ知的ゲームだよね、みたいな・・これをオーディエンスたちが「ふむ、勉強になった」みたいな感じになるのも微妙だなあと思ったのです。

知的ゲームはそれ自体、文化的にも社会的にも意味があると思いますし、本当に大事なことを意識して仕事するためにも高尚な目線に触れなきゃいけないとは思いつつも、さすがにこれじゃ現実の問題だとか仕事だとかとの距離ありすぎじゃね?的な感覚を持ったわけです。最初から「たまにはケンチクのウンチクを楽しもう。そういうの、大事だぜ」と言われてるならいいんですけどね、みたいな。今回の設定からすると、大先生たちはもうちょい、オーディエンスたちがこの世の厄介なコトに立ち向かう武器を与えるべきじゃない?とか感じたんですよね。

なんか、建築の偉い世界っていうのはこういう空気というかプロトコルというか、このカッコいい感じっていうのが昔からあって、それは価値はあるんだけど、その感じばかりで押してくるので多くの学生からプロまでもがその影響受けすぎてなんか勿体無いことになるような気がしています、昔から。まあ芸術カテゴリっていう意味では、そうそう俗世な話ばかりに行ってはいけないのは当然なんでしょうが、ケンチクにおいてはそれは1980年くらいならよかったかもしれないけど今さすがに違うくない?みたいなやつです。ソリューション的に「提案」みたいのもなかったし。深い投げかけがなかったとはもちろんいいませんけど・・

でですね、途中から見方を変えましたと。いわゆる60-70年代の都市モデルみたいなやつを見ながら、これ系って、いつも賞賛されてるけどいいのかしら?という問いを持ってみたわけです。メタボリズムとかって、思考実験とかアートワーク的に言えばすごいバリューありまくりだと思うけど、失敗ちゃうの?みたいな。当時は批判もされたけどもう過去だから、価値あるとこだけ振り返ろうよみたいになってない?みたいな。僕なんぞは現実的に日本の都市とか地域とかについてまじどうすりゃいいんだ?とか割とまじめに考えたり一応しているので、リアリストといいますか、まあファンタジーに欠けることがいつも反省だったりもするわけですが、でもやっぱりあの時代の一連のやつって、政治もキャピタリズム自体も含めた現実には反映できなかったのは事実でしょうと。

リアリストとしてはやっぱり、思考や表現に価値はあったもののそこで終わることは本望ではなかったはずだよねと思うし、野望を実現するためにもうちょい必要な他業種の人とのコラボ議論とか現実的な戦略とかスタディしておけば違ったのでは?くらいはやればいいんじゃないのとか思うわけです。でもそういう形の批判や反省というのは全く見あたらないんですよね。自分の文化的見識の浅さを自覚した上でも、むずむずします。

いやいや、ああいう挑戦的な思考があって色々生まれたんだ!とか、カプセルタワーは偉大だろうが!とか、コルブのガーデンシティがあった上で色々やってみて人間は気づきを得てジェイコブズとかに進展したんだとか、いろいろあるのは一応わかっているつもりではあります。しかし、負けというか挫折というかそういう部分について、何が欠けていたんだろう?的な話をしないで来たことでケンチク族や世界が失ったものも大きくないですかね、みたいな。しかもあんな頭よくてクールな人たちが皆でポジティブに語ってたら誰も現実的なほうから文句なんて言えないし・・とか。

そんなことを柄にもなく考えたりしてるうちに「メタボリズム 批判」みたいなググりを始めてしまいました。おれ何やってんだって感じですが面白くなってきてこれを書くに至っているわけですが、ともかく出てきたのは何かというと・・
例えばこういうの(https://www.mori.art.museum/blog/2012/01/6-3.php)が出てきました。いわく「メタボリズム当時に唱えられたメイン・ストラクチャーとサブ・ストラクチャーという概念は、今持続可能な建築モデルとして、ストラクチャーとインフィルという概念で受け継がれようとしている。今後、しっかり受け継いで貰いたい」とか、ぶっちゃけいまいち無理があるなあという感じだったり、
「黒川さんの都市型の農村住居は、四角いコンパクトなコミュニティの提案で、今回の震災と重ね合わせた時(中略)すでに現れていたことを改めて感慨深く見つめ直すことができる」とかって言うのも、感慨深く見つめなおせる、って言ってもあんまり未来につながる感ないなあとか、「震災を題材にメタボリズムを進展させることはできないだろうか?」とかって問いかけられても・・みたいな。

さっきの話に戻ると、メタボリズムとかも若干苦しげな賞賛するよりも「まあ運動や発想やパッションは改めて刺激受けるべきだけど、あれは現実には勝てなかったね、実現していこうとするならこういうコトや視点やヒトが必要だったんだろうね。で、今からの話として考えるならさあ・・」ってやった方がいいような気がしたりします。そしてそもそもああいう都市モデルをどかーんと提示するならば、リアルにやろうと思うならもっと現実分析が必要だったんだなぁとか、逆にアート的態度でガン!とやるのであればそう宣言した方がよかったし、そういう意味ではピータークックの方がむしろマトモやん、みたいな感じもしてきます。

この南條さんとレムの話のレポート(http://www.tokyoartbeat.com/tablog/entries.ja/2011/10/why_metabolism_now.html)なんかも、面白いけど微妙にムズムズする話が続いたあとに「政府や(国交省次官だった)下河辺さんらが描いた脚本に沿って(メタボリストたちは)自分たちの役割を果たした」とかってなってるけど、実際は下河辺さんは丹下さんとかのめちゃ知的でバリュー高いフレームワークに大いに耳を傾けたけど中身的にはほぼ採用しなかったということのようだし、やっぱ答えてないじゃん!という印象を持ちます。いま解体で話題の都城市民会館も偉大だし、そうしたアートピース(というのが良いのかアレですが)が生まれること自体の素晴らしさとかはわかってるつもりではあるんですが・・

ともかくですね、やっぱり閉じたコミュニティといいますか、偉大な先輩は批判しない的な空気を感じるんですよね・・(自戒を込めて)

で、そんな中でとある税理士のブログ(http://blog.livedoor.jp/ifukano/archives/3771535.html)がなかなか個人的に傑作でした。これによると、僕は知識が浅くてわかってなかったんですが、磯崎さんは「メタボリズムは今やお笑い。その展示やシンポはお笑い番組なんだ」とか言ってるんですね。ここへ来て、さすがやね・・と思いました。でこの税理士は「結局一度もカプセルは取り替えられることなく、取り壊しの危機に瀕しています。これが失敗でなくて何でしょう」と堂々と言い「結局メタボが対処できなかった都市の変貌は、アレグザンダーや磯崎さんが表現した都市の自然的or偶発的形成ですらなくむしろ必然的暴力が背景にあり、それを生んだのはキャピタリズムという化け物だったのではないでしょうか」とか言っていたりして、なんか専門家の話よりすっと入るな、みたいな。

ともかく、僕の今宵の勉強によると、全総の時代は政府も官僚も建築家に期待していた、しかしその期待には答えきれなかったということなんだなとわかりました。そして今、国交省なんかがリノベまちづくりに期待していたりするわけですが、僕はそうした中でも自分も関わるリノベまちづくりを自己批判もしながら進化させていくべきと思ってたりするあたりが自分のマジメさだよね、とか思っています。



野心論

April 27th, 2019

最近久しぶりに三国志の漫画を読んで、思ったこと等。

僕は、歴史とか政治といったジャンルは弱いタイプである(他にも当然いろいろ弱いジャンルはあるが)。この5-6年になって仕事でようやく行政とかにも関わろうかということになって、政治の構造についても考えることがでてきたものの、政党がそもそもなぜ必要なのかもいまだに深く理解できていない。そして人文系より自然科学や表現系に寄ってやってきたので歴史も文学も浅い。

国会中継などでしょうもない突っ込み合いしてるのを見ると、おいおい・・と普通に思うし、政治家というのは国のマネジメントの中身よりも権力闘争の方に意識とエネルギーが行かざるを得ないものなんだなぁ、それってどうにかならんのかねぃ・・と思いつつ、その理由や構造をちゃんと理解できていなかった(今もだけど)。

自分なりの整理として、政治の世界では権力闘争で勝ち残ることは、僕ら民間が生き残ってテーマを追求するために利益を確保する努力をするのと同じようなものなんだな、と思うことにしている。選挙で勝って万歳三唱してるのもなんだかピンとこないところがあるけど、我々も最高売上だとなればイェ〜イとなるし、まあ同じよね、と。ビジネスでも、目的と手段が多少こんがらがる場面はあるもんだし、手段がうまくいくこともゴールの一部だしな、とか。

で、三国志(漫画だけど)を読んでいると、このあたりのことをつい考える。劉備は、人民の平和と幸福に対する強い思いがあり、漢王朝の復権はそのための手段であり、単に天下を取ることが目的なわけではない。諸葛孔明は「戦い」のディレクターであるが、戦いに勝つことが目的ではやっぱりなくて、国のために誰が天下を取るべきかという判断として、劉備を勝たせるために知恵を出している。

だが三国志というのはその「戦い」が物語の全てなわけだ。勝った上でこういう治世をしていくんだとか、こういう技術を生み出して世を進歩させるんだとかいう話は、ない。三国志に限らず、歴史の話はだいたいそれがメインになっているわけで、そういう意味で正直言うと僕は、歴史というジャンルが不思議なのである。戦って勝つことはゴールじゃないじゃん、文化史や社会の形の進歩みたいのがメインじゃないの?と、つい思ってしまうわけだ。今でも国際情勢は重要だし、国内政治も大事なのは当たり前なのだけれど、社会システムや技術や文化の進化こそが人類の進歩の歴史であって、誰が誰にどう勝ったというのはメインじゃなくない?と考えるタイプなのである。

だが三国志は面白い。戦いの歴史は面白い。

人間には、ソーシャル野心と勝利野心(支配野心)と表現野心(創造野心)があるように思える。マズローでいえば自己実現欲求の中の話として。僕自身は、ソーシャル野心と表現野心が大きくて、勝利野心は割と小さい。リスペクトはされたいが、人に勝ちたいという感覚は薄い。割と善良で平和な人間なのである。

芸術家は表現野心が圧倒的に強く、事業家はソーシャル野心が強い人もいれば創造野心が強い人もいるし、勝利野心だけじゃんみたいな人もいる。スポーツの偉人たちはどうか。ここでいうなら勝利野心のように一瞬、思える。だがスポーツにおける勝利野心は、人を負かすというより、がんばって結果を残すということ、自分の能力や可能性に対する挑戦、の一形態である。そう考えるとちょっと違う気もしてくるし、3つの野心の分類がナンセンスなのかも、とも思えてくる。いずれにせよスポーツの人たちの野心は、美しく、人にわくわくを与える。ここでは勝利野心は良いものである。そして、競争は人や社会を成長させるということを考えれば、勝利野心が悪いとはもちろん言えない。

しかし政治に関しては、勝つことがゴールでは困る。もちろん芸術家も、勝つことがゴールではない。ビジネスは微妙だ。そもそも勝つことがゴールではない方がいい。だが少なくとも今のシステムは、最大限稼ぐことがミッションであり、勝つことが正義であるというシステムがある。そして勝利する事業家は「すげえ!」と言われ憧れられる。それだけなら全くもって問題ないのだが、やっぱり、勝ち残った上でどれだけ世の中に良き前進を生み出すのかということよりも勝ち負けとか時価総額を主軸に評価するようなところが強く、いまだにビジネスの「成功」とは稼ぎ勝ち残ることを意味しがちである。規模拡大の野心が弱く、成長とは文化的影響力の進化であるとする僕からするとモヤモヤするのである。

三国志の時代には、平和を維持し社会を安定させるために権力を守る必要があり、そのために戦うことで精一杯だったのだろう。それから世の中は大いに前進したから、今の時代に劉備や孔明が生きていたら、殺し合いに人生のほとんどを費やす必要はないだろうし、世の中をどうするかについて考えることにもっと費やすことになるのだろう。あの時代は、疫病や飢饉にどう対処しようとか、税制をこう改革しようといったようなことは、やっぱり集中しきれなかった。
そういう意味で、これからも少しずつ、戦いを減らして、そのエネルギーを世界の幸福持続のための知恵に向けていけるようになるのだろう。

政治の世界では今でも、権力闘争のために、国会で安倍さんにクイズを出しまくったりして数百人の国のリーダーたちの時間を使っている。殺し合いはしなくなったけど、戦いがメインである時代はまだ終わっていない。ビジネスの成功の基準が規模や時価総額のみであるような社会も、ダサいと思う。政治でも、選挙というゲームに勝ったチームが世界を定義できるというルールがいいのかよくないのか僕にはよくわからないが、あくまで自分は戦わって他を倒すことなく進化や感動を生み出したい。

しかしそうはいっても、歴史は戦いこそが面白い。スポーツは言うまでもないが、ビジネスの勝ち負け物語も、やっぱり面白い。そしてそこには、美と感動もある。それは僕らに本質的に備わっている勝利野心のミラーなのかもしれない。

今回のマンガ三国志の感想文はとりあえずそんなところで、「だからどうするの?」まで至っていなくてすみません。
ちなみに今回の三国志での最大の収穫は、自分と相棒と新たな役割論の発見に結びついたことだった。世の中を変えるようなヒントを得るところまではいかなかったものの、自分たちのチームの未来と日常に、そして自分のささやかな寝る前の時間の楽しみには大いに役立ち、やっぱり戦いの話はいいのぅ、と思ったのだった。



最近の話

December 4th, 2018

最近、都市うんぬんについて話をする機会が増えているのだが、そもそもこれからの都市とか言っても広すぎて、何について語るべきなのよくわからない。テクノロジーの話もあれば地域持続性の話もあるし、公共空間の話、リノベーションまちづくり・・とど巷ではそれぞれ盛り上がっていて、それぞれの話でも山ほど議論があるので、むしろ、何があまり話されてなくてもっと考えなきゃいけないのかを見出すことも必要かもねと思い、こんな図を書いて話したりした。

 

左上からいくと、テクノロジーは利便と自由な時間を生み出し、人々の幸せな都市生活に寄与する。同時にテクノロジーは効率を上げて生産性を上げ、経済・財政に寄与し、それにより福祉や治安や文化の維持が可能になり、それは人々をハッピーにする。

右下から言えば、空間やアメニティをうまくつくることでコミュニティの健全な維持に寄与し、同時に福祉や安心をうまく解くこともできる。
そして魅力的な空間やアメニティがあることは、人材や産業を引きつけることにつながる。産業があって地域の財政や経済が回るし、雇用があるから人々はそこに住み続けることができるし生きたい場所で生きられる。

コミュニティデザインとか都市経済学とかパブリックデザインとか、様々なテーマや切り口があるが、この図の中のこのあたりだね、というのを見てみると確かにその居場所はある(部分解といえば部分解であることもわかる)。

また、テクノロジーが変わるときに都市の空間やアメニティの計画・デザインはそれをどう受け止めて先回りしていくかについても”業界”は十分に意識できていないのではないかとか、総じて都市計画とかまちづくりといった分野はアカデミーにせよクリエイターにせよテックと経済に近いところをきちんとできていないように思えるが、これは無責任と言われるべきことかもしれない。というあたりが「?!」のマーク。

ここでは幸せというのをゴール設定のように表現しているが果たしてそれでいいのか。例えば「持続」ではないのか?と。持続可能性というのが目指すべきものだとするとそれはもちろん「財政が破綻しないこと」とイコールではなく、皆が安心して生きがいや誇りを持って、できれば楽しく暮らせる状態の持続であり、ここではそれを幸せと言っている。

このフレームは考えるべきテーマを直接書いていなくて、あくまで領域とか切り口を混ぜこぜのまま、それらの相関関係をそれっぽく図にしたものでしかない。そしてこの「How」レイヤーの図をサンドイッチするように、下敷きとしては政治システムや行政システム、市場のルールなどの社会システムのレイヤーが前提となっていて、一方でこの上にはそれぞれの都市がどういう都市を目指すのかというアイデンティティやビジョンといった「What」のレイヤーがある。

と、こんなことを話すと「それで?」と言われるかもしれない。そんな相関関係をふむふむと眺めて意識したところで仕方ないじゃないかと。おっしゃる通りで、問題はこれらがどう「うまく回るのか」「そのために何ができるか」である。

マクロ的に言えばそれは国単位や自治体単位のマネジメントにおけるビジョンや戦略を描くことである。各々の都市地域がどんな魅力や特徴を目指し、そのためにどこにどうフォーカスすることで全体をうまく回るように持っていくのかというholisticなアイディアとシナリオ。一方でミクロ的に言えば、素敵な店を始めることも、小さな社会的活動も、新しい事業や便利な仕組みやまっとうな個別政策の立案や実行も大いに意味があるし、家族を大事にする気持ちとかだってそうだろう。だがそれらはいずれもこの図には直接的に表現されていない。

しかしとりあえずは、都市うんぬんの話について少し視野を広げてみるのもよいのではないでしょうか?という話。そしていくつかの切り口に着目してみましょうと。

例えば”人材や産業”を意識するとはどういうことか。たとえば公共空間や公共施設ひとつつくるときにも関係してくる。地方ではよく起業促進とかいうけれど、それは実際なかなか大変で、コワーキングスペースをつくりましたといったところで正直たいして関係ない。人との出会いをつくるのは意味があるものの、別にそれは飲み屋イベントでもよく、コワーキングがなくても起業はできる。やるやつはやる、なのである。

むしろ現実的に考えると、既存の地場産業をアップデートして成長させることのインパクトが大きかったりもする。ほんとはあるタイミングで海外進出したり新たな技術を取り込めば地域の雇用が減ることはなかったよねみたいな話は結構ありうる。これまではそうした役割を担う人材が東京へ行って帰ってこなかった時代だった。しかし価値観は変わりつつあり、東京の大手やベンチャーなんかで鍛えた次世代の経営者やその予備軍をUターンさせて中枢に埋め込むことを考える必要もある。彼らやその家族にとって本当に魅力ある公共施設や公共空間があれば「おれは地元に帰って地元の再生に一役買いたいんだ!」という人の奥さんも「うん、あそこならいーかも♫」となるかもしれないわけで、そういう視点で計画することも大事なのではないか。とか。あるいはまた、それこそポートランドなんかでもインテルやナイキの本社があることで経済が潤い、それがカルチャーに流れて支えているみたいなこともふまえつつ、骨太産業をどう維持・創造するかの作戦を練らなければいけないということとか。

・・というような話を最近はする。加えて先月話したネタとしては・・

そもそも地方でしょうもない過大投資が行われたりやばい感じのタワー開発ばかり行われるのも、自治体の戦略性や想像力の問題以上に、国の制度設定の問題だったりもするよねという話。

ディベロッパーにやたら人がいて無駄にメガ開発に走るのも、上場して短期的な数字を出さないといけないからしょうがない。ほんとはデベなんてよほどの地主でもない限り上場させないべき業種じゃね?という話。ついでにいえば鉄道会社なんかも住民巻き込み的な形でMBOして非上場にした方がいいかもじゃない?みたいな話。

そうでなくても原丈史さんが言うように、長期の投資のみを受け入れる市場をつくればそこに上場すべき/したい会社はいるし、金融市場の国際的な差別化にもなるというのは賛成、という話。

企業誘致は依然として意味があるアクションだが、これまでのように税金のインセンティブと土地の紹介みたいなのでなく、新しい生活像や人生観を体現しているローカルヒーローたちを巻き込んでライフスタイルや人のアピールをしていったらどうかという話。

社会課題を解くための新しいルール設定を民間から提案し、提案した事業者が自らそれを事業にしてフロンティア利益を得るようなかたちは、社会の前進の一つの有効なアプローチではないか、ディベロッパーもそうした戦略的ロビイングをビジネスに組み込むべきではないか、という話。

福祉は消費促進の領域に代わってクリエイティブの主戦場の一つになるのでは、という話。などなど。

僕はこれまで、都市を空間的な面で面白く楽しくするべく何ができるかということにしか本質的に興味がなかったのでそういう目線でやってきたけど、それは都市の幸せとその持続においてほんの一部分の話ではある。で、少しテーマを広げようかという感じになってきたのは、地方に実際に行くと、それぞれの街がいいかたちで持続するために必要なことを考えたくなってきちゃったということである。

とはいえ「気持ちいい・楽しい・面白い」は本質的に人間を引きつけるものだし、それが巡り巡って色んな問題を解く力になっていくから、まあ基本路線はたぶん変わらないだろう。小さなワクワク話や面白事業と、マクロな一見カタめな話を行き来するスタイルを、もっとやんちゃかつオトナな感じでやっていこうと思っております。そんなわけで明日からドイツで色々見てきます。



豊橋にて

May 16th, 2018

先週土曜に行った蒲郡での「森、道、市場」は素晴らしかった。ライブのラインナップはもちろん、そして500にも及ぶ「店」の質がとてもよかった。「森道」は、多くの大型フェスと比べると、ほっこり、ゆるい、あるいはある種のクラフト感やオーガニック感のあるコンセプトなのだが、ここへきて一気に集客を増しているのは、オーガナイザーの力量もありつつ、やはり時代の価値観を先取りしているということがあると思う。イベントが始まった7年前はこのネーミングももっとマニアックに見えたのかもしれないけど、場の持つ価値観が時代の感性に年々幅広くハマってきているのだろう。

店をのぞきながら歩いていて、これは「街」なんだな、と思った。質が良くて、発見があり、かつ”顔”の見える店を見ながらそぞろ歩きたい、というのは本来の「街」の楽しみだが、皆それを楽しんでいる。それは非日常の「祭り」とは違う、むしろ「ほしい日常」の表現に思えた。そこに音楽が聞こえるということも含めて。

あらゆる情報やモノに触れている僕らは、リアルの街を歩いてわくわくすることが少しずつ難しくなってきており、ピンポイントで移動するようになりつつある。だから僕らはこうして、街の楽しみをイベントで味わうことになる。日常の活動の中で昔のように体を動かす必要がなくなった現代人がジムへいったり皆でランニングするのと似た構造なのかもしれないけど、世の中の変化の中で、本能の欲求を新しい形で満たそうとしていく姿なのかも、しれない。

「森、道」に行く前夜は、豊橋で一泊してみた。意外だったのは、大抵どこでも1〜2件はあるクオリティの高いバーが駅周りには見当たらないことと、鈴木珈琲店という喫茶店が渋谷「はとう」並のクオリティだったことだが、それはさておき、ともかく夜はいつものように軽い地方都市サーベイということで繁華街を一人でさまよってみた。

豊橋に来るのは初めてだったが、予想通り駅前からアーケード商店街、その先の住宅エリアや公園・川、といった中心街の構造は、まあ他の地方都市ととてもよく似ている。同じ時代の同じ日本人の行動様式ゆえ、結果的に街もまあある程度同じ構成になるのは必然ではある。この日、金曜の夜だけに人が多く出ていて、若者を中心に活気があった。店は例によって、居酒屋、立ち飲み、ダイニングバー的な店、焼肉屋・・・等々が中心。その一本裏側はスナックとキャバクラたち。よくみる光景で、きっと強い記憶に残るものではない。そしてほとんどはいわゆる飲食の虎たちの世界というか、特に凝ったオシャレな店とか濃い世界観の店といったものでなく、日常ニーズに応えるべくがんがん頑張っている飲食野郎たちの店である(悪い意味では全然ない)。

僕らはいわゆるリノベーションまちづくりというやり方に関わっているわけだけど、こうして豊橋の楽しそうな、シャッター街では決してない繁華街を歩いている限りにおいては、ここでは(狭義の)リノベーションというもので街を活性化、といったようなことはそれほどインパクトがあるわけではないな、と思った。シャッターだらけの商店街ならば、一般的なマーケティング発想で店舗事業をやるのとは違うリノベ的な小商いのチャレンジはよりクリアな意味を持つけれど、それだけで街全体がすぐに元気になるとか、ホステルとカフェが一つずつできた瞬間に街が変わるなんてことはない。もちろんそれら一つ一つは確実に前向きな一歩を生むし、そうした小さな一歩こそが大きなうねりを生む源泉になる。が同時に、様々な切り口でマクロな戦略や連携が生まれてこそ状況は解決に向かっていく。そうした次なる方法論へのステップアップが僕らの次のテーマである。

そもそも「街のため」みたいなことを意識する人やその事業が、まちのために強力な影響力を持つとは限らない。「街がうんぬんてなんて、結果だろ」くらいの感覚でしたたかに展開する商人が街に人を呼ぶことの方が多いとも思う。ある意味、飲食の虎たち(街づくり的な文脈ではないたくましい商人マインドの店たち)が、その集積パワーをより強く発揮するにはどうしたらいいかを考えるのも意味があるはずだ。

そこでイメージを持ったのは、(漫画の)サンクチュアリのようなチームである。つまり、持ち場やコミュニティの違う人たちがそれぞれの持ち場で活躍しつつ、それらが裏でつながって、大きな変革をなしとげるべく戦略を持って進むというやつである。つまりここでは、飲食の虎やヤンキー経済の雄たちと、クリエイターや街づくりキャラ、そしてママ集団(主婦もしかり、スナックのママもしかり)、そして地域のコア企業の次世代経営者や戦略家キャラ、そしてとんがった行政マン、あるいはスポーツ系スターといった人たちが、10人くらいでマフィアを組むのである(サンクチュアリは二人だけど・・)。今の時代だからこそ、「虎」たちもスナックママたちも「おぅ、街のためにがんばるのは、俺らも全然やるぜ」と言う空気はつくれる気がする。

公民連携、という言葉はある意味まじめすぎるところがある。そういう言葉に関心を持つ層の世界に閉じてしまう感じもあったりする。民にも色々いるのである。みんなで都市経営やまちづくりをやるのである。地域のアイデンティティも、意識高い系だけで議論せず、ストリートの実力者を含めてカルチャーの違う人が筋道を共有する方がいい。

そして地方都市が経済的にも文化的にも持続繁栄するには、地域のコア企業たちがしぶとく進化して雇用を保つことが必須である。そのためにはコア企業に新しい発想を持ったコア人材がいるor 来ることが重要である。そこで、その街で生まれ育って東京に出て活躍している人材をピックアップし、呼び戻しを画策するのである。これは街づくり系の人たちや行政だけがやってもだめであり、奥さんたちに訴求する女性目線の仕掛けも要るし、ヤンキー豪族も動くのである。これは「青年会議所」でやるのでなく、サンクチュアリでなければならない。オーソライズされた組織では、いかにもちゃんとしていないといけないという空気をまとってしまうのがよろしくない。

なお当然ながら、喧々諤々と志を語りながら、同時に小さな前進をつくるアクションをしていかないといけない。飲み屋ではお客さんが店に対して「こうした方がいーよ!」という意見をまじめに一言いうと串揚げ一本、みたいなのを街のルールにしたとすれば、きっと店はよくなるし、店と客の距離は近づくかもしれない。他の店のいいメニューを教えてあげるのを皆が互いにやろうと決めるのも、もしかしたらいいかもしれない。そうして「今ある環境」を使って、金をかけずとも、人が連携して動いていく。そんな連帯は、大都市ではそうそう起こらない。地方だからこその作戦である。

もちろん違和感もあるだろう。いやいやそんなの実際は話が噛み合わなかったり揉めたりするに決まっているさ、ビジョンを描き引っ張っていくのは揺るがぬ信念を持つ一人の孤独な戦いなのさ、と。まあそれもそうかもしれない。が、いかにも合理的な道筋というのもわからないわけだし、一見不合理的に見えることでも、そこに人の心に火をつける希望やエネルギーが見えることから想定外の光が灯り、コトが急に走り出すこともあるのではないか。

サンクチュアリ連合が街の未来を描き始めれば、そのうち市長も話を聞きに来るだろう。しかしすぐにつるんではいけない。メディアとはつるむ。市民による戦略が共有されていき、しかし首長が変わっても影響されないストーリーがあることが重要である。市長とは方針が違うなら違うで可視化されればよい。徐々に、行政とマフィアたちは意見をすり合わせていくはずだから。

・・などとテンション高めな、真面目なのか適当なのかわからないようなことを考えながら難しい顔をして串揚げ屋を出て、微妙な感じのバーに入り、オーナーのセンスに異をとなえる若いバーテンと「ここ、変えた方がいいよね絶対」「ですよね、僕もそうしたいです」みたいな議論をしばらくやって酔っ払って帰途についたのだった。



雇用の話

April 14th, 2018

今年は各部門合わせて3人の新卒が入ってきました。彼らの雇用形態について、毎年僕は直接説明をしています。というのも彼らは契約社員だからです。

僕らの会社には正社員がいません。そもそも正社員という言葉は法的に定義されていないのですが、慣習的には「期限の定めがない雇用契約」を意味します。そしてそうしたその契約は「相当サボっていても、あるいは適性が会社のニーズとかなりずれていても解雇してはならない」ということになっています。そういう雇用形態が世の主流であることには一定の意義があると思いますが、ウチではそのことがいまひとつしっくり来なかったわけです。

うちの場合は、一定の期間の契約を更新していくわけですが、これは長期的な関係を前提にしており、一時的な雇用とは捉えていません。実際、いきなり終了!みたいなことはしたことありません(最初の試用期間で終了は何度かあったけど)。「サボってても適性なくてもよっぽど悪いことでもしない限り解雇されることはありえない」という状態は、活躍してる人の士気を削ぐような面もあるし、会社の強さ・健全性を保つ上でマイナスではないかということです。

おいおい、お前それは経営者の都合だろう、いざとなったら切れるようにしてるんだろ?と言われるかとも思いますが、いざとなったらという話は、正社員でも会社がつぶれたら雇用は続かないわけなので、倒産しないでいられるようにがんばるためにも、依存関係にならず互いに緊張感を持つほうがいいじゃないかと。がんばったけど本当に合わないねとお互い思ったときは別の道に行く方がよいわけだし、会社に寄っ掛かるような仕切りはむしろよくないのでは?みたいな話です。で、うちの設計系やEC系の社員は「長期前提の契約社員」ということでやっている次第です。

なおうちの不動産仲介メンバーは、保険会社と同じような個人プレーヤー契約なのでさらにドライで、ゆえにメンバーの半分近くは自分の会社をつくって別の仕事もやったりして技を広げています。「やりたいことあるけど、うちの会社ではできないな・・やめよう」というのは会社やチームとしてはやはり勿体ないわけで、ならばはじめから「半社外」つまり「お前はすでにやめている・・」という形にしておけば「いーね、じゃあそれは社外で自分でやればいいじゃん、うちの仕事も続ければいいじゃん、あるいはJVでもつくろうか」ということで結果的に関係が続いてくわけです。それでもメンバー間の人間関係は普通の正社員と同じノリです。(ちなみに僕はうちの形を日本標準にすべしとは思っていませんし、うちの中でも時とともにかたちが変わっていくことはあると思っています)

ところで、経営者の論理は個人の希望とずれることはもちろんあります。経営側は無駄を省くとか生産性を上げるということを当然考えるので、そこに最低限のモラルなり、格差をある程度是正する社会システムは必要です。でもその解は、正社員という雇用ではなくセーフティネットや課税の議論で解く方がこれからの時代にはよい気がします。

いずれにせよ、会社にしても国の財政にしても、それがたくましく持続するようにやっていかないと結局みんなに跳ね返ってくるわけなので、ルールや仕組みを決めるときには部分だけを見ないで、何がどう巡り巡って影響していくか、という「因果関係の理解力」をみんなが持っていないと、社会の意思決定がおかしなことになり、世の中が変な方向に向かっていきます。だから日本はなぜなぜ教育(前回ポスト参照)をやるべきっていう話に、僕の中ではなっていたりもしているわけです。



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