上山さん

March 31st, 2016

大阪市の特別顧問などやっている大先輩、上山信一さんの事務所で、これからの都市デザイン領域でできること、動き方などについて話を聞いてきた。ポイントだけメモ。

本来は地方都市では戦略やビジョンがすごく大事なんだけど、外からそれを提言してもうまく進まない。首長とがっちりでないと。それでもひっくり返っていく。むしろ「点」で針を刺していくように埋め込んでいって、それが徐々に”マスタープランのように”なっていくイメージの方が現実的ではある。

やっぱり安上がりでできること、民間投資でできることが進むから、そういうアイディアから入っていく。長期回収の投資よりも、今安くできることが進むというのはある程度しかたないこと。

プロダクトをつくってしまう手も有効。ソフトのスキームでも、ハード含めた具体手法でも、公共施設・空間の利用フォーマットやアイディアでも。それを一定の汎用展開性のある形で提示して、増殖させていくような。(都市リデザインのtoolbox!)

指定管理は安いことだけが価値になってしまっていて(PFIと違って議会を経ることも原因)、いいかたちになりにくい。(新しい公民連携というのはそこをはるかに良くできる可能性)

インフラでも公共施設でも、失敗反省の仕組みがないからおかしなことはいっぱい起きる。だから「評価」から入るのは有効。

(ひとに読んでいただくようなテイでなくすみません・・まあ僕と近い関心・仕事の方にとってはいいかなっていう甘えで)



パブリックワーク

October 25th, 2015

最近批判が飛び交っていたツタヤ図書館の選書問題について関係者に聞いてみた。問題というのは、古い実用書など価値がなくなっている本や、公の図書館としてそもそも合わないものを買っていた、しかも関連会社から、というやつである。僕が会ったあの会社の人たちは、仕事に対して高い意識や志を持った人ばかりだったので、どういう経緯だったのか興味があった。

で、やはり状況としては「まとめて仕入れたものを一冊ずつチェックする手間をかけていなかった、そのことは問題であり反省している」ということだった。「公の仕事において、それは許されない。買う側だけでなく関連会社も含めたモラルの問題であり、やり方を正していかねばならない」ということだった。

僕は古書の流通の現場についてはあまり知らないし、この件について深く調べたわけでもないが、少なくとも公の仕事の難しさというか微妙な部分について考えさせされた。

民間企業の本屋であれば、大量の本をまず仕入れようという場面において、その調達先に条件を伝えて入って来たものについて、全てチェックするかしないかをまず判断する。もし一冊ずつ確認するという作業をせずに価値のない本が混じった場合、それはただ「売れない」という結果とともに、徐々に店員が気づくなどして余計な本を排除しつつ、業者に対してクレームを言って次に活かすという流れになる。よほどヤバいものでなければ社会からの批判にはさらされない。そうした前提の中で、企業としては、一冊ずつ時間をかけてチェックしていくコストを払わず、一定の不良品率を許容するのも一つの真っ当な選択たりうる。

公立図書館ではそうはいかない。「この野郎!こんな無駄なものを買って!」と炎上する。全部チェックするコストをかける場合、中長期的にはそのコストは税金での負担にもなっていくわけだけど、そうした類いのコストのかけ方は、今までの公共事業の歴史を見ても、あまり問題にならないし、当然必要なものという話になる。もちろん今回のは、関連会社から買っているというのがイタいところなわけだけど、ともかく公金の使い方のべき論は微妙である。どちらが公的利益に資するのか?という話だ。より良い方法と、間違いのない方法、はイコールではない。

もちろん今回の件で、CCCはやり方を変えていくことになる。モラルに課題を残す流通側と、それを前提とした民間合理的な判断に対し、今回のような突きつけが生じることで、ある種の進化はあるだろう。

ただ一方で、公共の仕事というものの捉え方にも進歩が必要だと思う。ニセコの観光協会を株式会社にしたら、全ての宿を勧めるのではなく、いい宿を勧めることができるようになったと聞く。いいことだと思う。「まちの保育園」をやってる松本理寿輝くんは、保育園業界では株式会社であるだけで下に見られることも多かったと言う。社会福祉法人やNPOの、その下だと。でもそんな彼が一億総活躍の会議メンバーに選ばれたのは嬉しい話だ。

公の議論においては、民間の論理をすぐに逆側のものと捉えずに、相互に学び合って近寄っていくべきだ。



民主的な

October 25th, 2015

国立競技場やエンブレムの件で、「内輪でいい加減に決めやがって」的な炎上とともに「デザインを素人が選ぶのはダメだ」「そもそもデザイン的なるものは民主的に決めるもんじゃない」という話がだいぶ出た。僕も基本的にはそう思っている。

一方で、専門家たちの審査員チームが決めれば安心だね、と思うかというとそうでもない。安藤忠雄センパイひとりが決めるのも正直けっこう不安だし、内藤廣センパイや原研哉センセイあたりが話し合って決めれば超安心だね!と言うのも微妙に違うというか、もうちょっと多くの人の意見を取り込んでみてもいいかも、という気持ちもある。

商業空間のデザインの価値を建築家が評価しきれないように、公的なシンボルには相応の広い価値享受の構造があって、その構造を数人のデザインの専門家が完全に汲み取れると考えるのは難しいように思う。今どき亀倉雄策先生のような人もいないし。

個人的には、それなりの専門家たちが「これならどれに決まっても、アリだ」という2〜5案とかを選んで、その後は、それぞれの案の価値や魅力や意味について専門家たちがわかりやすくきっちり説明した上で、何らかの方法で幅広い市民投票的なことをやるのがいいかな、と。仮に、専門家たちが「これが圧倒的だよね、2案選ぶのは厳しいな〜」というくらい評価に差があった場合は、「専門家としてはこういう理由で圧倒的にA案で一致してるが」と言った上で選ばせる、みたいな。

デザインというのはその深さや未来価値が往々にしてわかりにくいものだから、その基本的な水準の判別はプロがやるべきだと思うけれど、プロセスの一定の部分に適切に「民主的な」方法を差し込むことはアリだろう。それによって人々の関心が集まる面もあるし、いろんな意味で理解も深まるんじゃないかなと。そのようなプロセスやコミュニケーションを工夫することで、デザイン的なるものについて日本の人のリテラシーをいい方向に上げていける可能性があるような気がする。甘いかな。。

ところで、世の中はもっと主観を重視すべきだと思うことがけっこう多い。上のコンペの例ではちょっと逆のことも言っているけど、世の中の色んなことが「民主的」すぎると思うことが多く、誰かの主観で世界をつくっていく部分がもっと多い方がいいんじゃないかと。

民主的の反対語は主観的ではないし(強いて言えば独裁的とか?)、主観的の反対は客観的であるのは知っているけど、一般的に「民主的」に決めよう・創ろうとすると「客観的」になっていく傾向がある。そうすると、したい論でなく、べき論的になり、さらに「誰から見てもそうだよね」に近づいていく。ゆえに、民主的に決めるならなおさら、つくるときに主観的であることを意識した方がいい気がする。

「民主的な」つくり方や決め方はクリエイティブの領域と相性が悪いし、これからは創造性が大事な世の中だという前提で言えば「主観による最終判断」が大事になる場面は増えるだろう。企業経営の世界ではそれは普通のことだけど。

もちろん政治の世界では、無難が票を集めるような面がある。マクロな政策はさすがにある程度「現実的」でないとヤバいので、それはある程度仕方ない。でも「アナタの主観は?」ということを問うのは良いはずだ。現実性と主観は共存できるし、そうしたスタンスは別に独裁者を生むとかいうことにはならない。

話のついでに言うと、選挙のルールなんかも、行けば行くほど一票の重みが増すというのでもいいような気がする。過去の投票率が高い人が一票の重みが増すとか。それで一部の若者が高齢層よりもパワーを持つとしても、それでええやん、と。

戻ると、もし民主的な創造プロセス、が怪しいとするならば、公民館を市民参加でつくるという類いの話はどうなのか。確かにニーズをみんなで出し合うのは重要だ。最後に要件のバランスを決めるのも、意匠を選ぶのもみんなでやればいいと思う。それらを通してコミットメントが上がる面もあるだろう。ただしそうした場合において、投票する人は一定の「理解」を経た上でないと投票できないようにしておく。そしていわゆるデザイン行為、統合的な思考でかたちを練り上げるコアなプロセスが主観的であるようにしておくことは大事だと思う。

主観でつくり、客観で選ぶ。選びきれないならもう一歩突っ込んで最後は主観で腹をキメる。民主的なプロセスは、つくる前や時として途中、そして選ぶ時などに、あくまで必要に応じて差し込む。そういう大原則の上で、ルールやプロセスをデザインする。あるいは言い方を変えると、優れた主観を民主的に共有して選択する。選んだ主観を皆で許容しひとまず期待する。今の日本ではそういう感じがいいのではないかと。

とにかく決め方というのは大事だ。でも全てにおいて状況や事情は常に違うから、決め方を決めるのもそこでプロデューサーとして動く者の才覚にかかる。しかし世の中は決め方が往々にして決まっていて、それを動かしにくい。そういう点で、今の政治システムも、その他多くの社会システムも、まだまだ途上に思える。



メモ

October 25th, 2015

磨くべきは、知識よりも、思考
持つべきは、ライフスタイルでなく、マインドセット
提示すべきは、意匠(デザイン)でなく、価値観
つくり変えるべきは、風景でなく、コモンセンス

みたいな。
我が師匠YY氏の教えに少し加えてみた。



中心市街地

October 25th, 2015

大型商業は好きではないけど、やっぱりイオンはイオンで進化してて、そのうち自動運転が進めば、おじいさんもおばあさんも郊外で楽しく団らんしたり出会ったりすることもできていくだろう。

中心市街地やばいね系の話というのは、個店の努力不足という責任と世の中の進化に伴う構造的必然が重なって・・ということなのだけど、とにかく全部は救えないことは明らかになっている。

そんなことで、自治体の方針も資源投入も、選択と集中の話にならざるを得ない。スマホのようにコンパクトで生産性の高く、かつ魅力的なOSをつくるところには公金は使うっても、その上で動くアプリ(店とか)は、強いものだけが残る、という割り切りを明確にするしかない。

そのためには新しい切り口の制度を色々とつくる必要があるんだと思うけど、一部の人や街を振り落とすようなルールはなかなかできないのがつらいところ。せめて、一定期間以上入居者が決まらない物件の募集賃料に上限をつけるとか、その程度のミクロな決まりはもっと実験していっていい気がする。

それと一つの例えとして、駅に近いシャッター商店街の空き店舗は(その一部とか2Fとかでもいいんだけど)職業訓練を兼ねた方法や体制でリノベーションをやって若い層とか元気な高齢者の住宅にして、その代わり路面を自由な小商いの場として外に開くべしとするみたいなことを考え、その実験・検証の範囲にだけはイニシャルに若干の公的なインセンティブサポートを出すなりある程度の強制力をかけるとかは、いいような気がする。買い物の予算は大型シフトするにせよ、住む場所はもう少し多様なパターンが残る気がするので。

今は各自治体が今後のシナリオをつくるための予算がついているようだけど、これは、リーダーの資質も含めて、イケてるもの、イけるものや場所にのみ手を差し伸べるというふうにしないとマズいんじゃないか。むしろそのための正しい判断をするためのコストにこそリソースを向ける必要があるんじゃないかと思う。



目黒グランドスラム

October 25th, 2015

僕が目黒のグランドスラム・Bシリーズと呼んでいるのがある。
夜にマッシュタン(バー)で飲み、翌日の朝に珈琲屋ROWのモーニングを食べ、昼にスパゲッティ・ダンで食べるという連続技を意味する。先週久しぶりに達成した。
なおAシリーズ(メジャー系)は、誰かやってくれという前提。

別に僕はいわゆる通人では全くないので、偉そうにグルメ批評をキめたいわけではなくて、むしろ強いて言えば都市社会論的なネタである。まあ講釈はいいや。要は雑談です。

第三位:スパゲッティ・ダン

ここは創業40年。相棒yosshyにかなり前から教えられていたけど、行くようになったのはsowxpの西村琢ちゃんに連れてってもらった数年前から。昼時に目黒にいると胃が「ダンが食べたい」と言い始める。パスタが食べたいのではない。ダンが食べたいのだ、と。僕のスタンダードは「たらこウニイカ大根おろし」の大盛り。お世辞にもキレイとは言えない場末的な個人店のランチで1320円という単価は相当である。「お、意外とするね」とは思うけど、結果、高すぎるよとは思わせないプライシングに、40年持続させる経営センスを感じさせる。作業の合間に素敵な笑みを浮かべてモデル立ちするおばさまの笑顔につい笑顔を返して店を出るのである。

第二位:マッシュ・タン

モルトバーの業界では有名な店らしい。マスターが厳しいとの評判がある。先日も、
アラフォー女性「え、えと、アイラモルトを」
マスター「アイラはいまオフィシャルは2つしかないんですよね・・」
「え、、うーんと、違う方がいいんですね」
「・・・(無言)」
といった極めて難しいやりとりがあったり、その後に来たお兄さんは
「えーと、おすすめはありますか?」と聞いてしまい、周りが「うっ」という空気になった後、
「人によって好みが違いますから・・」
という正論が展開されて若干つらかった。

彼は客をいじめてるつもりもなくて、いわば素直なオタクであり、強いて言えばちょっとしたコミュ障である。
知らない人をばかにしてるわけでも、来てほしくないわけでもない。
ウィスキーを飲むこと、における正論と、サービス業、における正論、どこを目指すか。ビジネス論的に解釈したとしても、ここのあり方は戦略の一つとはいえるかもしれない。客筋を乱さず、常連は心地よくなるという道。でもここには「戦略」なんていうさもしいものは一切ないのだ。
そして僕はこっそりグーグル先生の助けを借りて付け焼き刃の知識を少しずつ学び、なんとか振る舞い、行ったこともないスコットランドの海辺の風の香りを思い浮かべて酔い、帰路につくのだ。

第一位:珈琲野郎

本当は珈琲屋ROWであって珈琲野郎ではないんだが(かつては野郎だった)あえてそう書く。
別にここにみんな行くべし、というつもりもない。むしろ地元の人でなければわざわざ行かなくてよろしい。ここは僕にとっては、たまたまちょっと気にいって買ってずっと居間に置いているうちに愛着がしみついた椅子のようなものだ。味もいいし雰囲気もいいんだけど、通り道にあるからついつい寄って慣れてしまい、慣れたからいい、慣れていることそのものがいい、という場所。ただ、家の近所で落ち着く質のいい個人店というものを決して失くしてなるものか、という気にはなる。ちなみにドトールがそれにあたると誰かに言われたとしても僕は別に批判などしないタイプである。

第0位:一茶庵(おまけ)

子供の頃に親によく連れて行かれて大好きだった蕎麦屋。当時はとんかつとんきもロータリーの二階に別館があった。一茶庵はその裏路地、まさにマッシュタンやダンの並ぶ路地にあった。古くて味のある日本家屋だったこの蕎麦屋はもうないけれど、あの頃から三十数年経った今、自分が同じ路地をさまよっているのは面白い。この路地の空間性が、きっと何か共通した感性を引きつけているんだろう。

都心が高密化するのは基本的にはいいと思うけど、ここはあまり変わらないで欲しいなと思う。都市計画的なことでいえば、用途のゾーニング制限はもっとゆるめていいけど、文化のゾーニングみたいなものがあっていい気がする。仮にこの道だけは個人の小さな店しかできず、10店舗以上のチェーンはダメみたいな場所があったとしたら、そこは利回りが下がるかもしれないけれど、ジグライ(土地の格、ゆえに価格も)が少しずつ上がるかもしれない。
僕がこだわるのはそういう微細な多様性の維持である。それは経済価値という意味でも、長期全体最適につながると思う。でも日本では、公の概念にかなりの修正が加わらないと、そういう類いの意思決定はなかなか難しい。



武蔵小杉にて

October 25th, 2015

西鎌倉の実家から電車で東京に戻るとき、なぜか戸塚の商業施設「トツカーナ」が目に入る。もうこの行き帰りで電車の外を見てることはあまりないんだけど、毎回見てしまうのは、実は自分がこの名前を好きだからだろうか? いや、トスカーナの中世都市の隠れ研究家として、これはかなりキツい。公募で決めただそうだ。公募こわい・・

まあしかし、さえない商店街がコレになって喜んだ人はさぞかし多いだろう。その変化の構造とかはどうでもよくて、とにかくその結果に喜び、地元での買い物が増えたのだろう(そのお金の行き先は地元から離れたけれど)。別に街の記憶だとか、Authenticityなんて要らないんだよな、と思わせる強さ。LINEの時代に岩波文庫をみんな読めと言っても無理あるよね、みたいな。だいたい東急プラザとかだって、企業名に外来語足しただけだし、フェークでも、時間が経てばオーセンティック。

・・と、論理的というか構造的に言うとなんだか正当化されるんだけど、それとセンスは別であり、やはりトツカーナはダサい。いかんだろと。
・・なんて思いつつも社会勉強で見に行ってみようかと一瞬考えはしたものの、テナントリストをチェックしたらあまりに想像できちゃう感じだったので、やめる。だけどなんとなく武蔵小杉で久しぶりに下りてみることにした。

駅前の広場に降り立つと、うわーダサい!なにこのタワーとつまらん広場!とやっぱり思ってしまった。それが少数派側の感覚なのは承知だけど、思うもんは仕方ない。それはそれとして、割と最近できたグランツリー(という商業施設)に初めて入ってみた。

1〜2Fはまあ特に意外性とかはないけどマーケティング的にはうまくできてそうな印象。でもけっこう印象的だったのは上階の子供関連のテナントが充実してるあたりと、屋上。最強ですねこの屋上は。植物も色々あるし子供・家族が楽しめる仕掛けも満載で、笑顔がいっぱいで、これはもう子供連れはみんな超ハッピーだよね、と思った。

まあ総じて言うとグッとくるものとか人間味を感じるかというとそういうのではなくて、コンサバなマーケットへのうまく誠実なレスポンスなんだけど、平和な世の中じゃどこだってコンサバがマジョリティで、それを否定しても始まらない。子供もまだつくってない自分が、家族で幸せに住むための街の一つの答えとしてこれを批判なんてできるわきゃねーよと思わされる感じはある。

とにかくこのあたりの開発は、古い商店街のままであるよりもこの場所の経済価値を上げているのは事実だろう。まあそれによって他の場所の価値は下げられているわけだし、こういう施設のつくり方も、これからさらに創造的な方向に進化することができる世界になっていくとも思いつつ。

かつて「まち」にあった人間のふれあいみたいなものも、意外にこうした施設が解決していくということは、ありうるんだろう。そしてオルタナティブサイドにいる「少数派」たちが、大資本がそれらの解決を進めていくような影響力をつくっているという面もある。意識高いマイノリティと、まじめな企業戦士というマジョリティの、コラボレーションは続いていく。

街なり都市なりの競争は必然であって、その競争の先に答えがあるというのも事実である。そうした中で僕は再開発そのものを否定はしないけれど、そうした過程で入れ替えが起こり、無くなるものには注意を払わないといけない。10が3になり1になるのは往々にして自然であり仕方ないのだけど、1をゼロにしてはいけないものがある。その意味ではこの街もそろそろその「足元」のあり方を考えないといけないと思った。



欲しいもの

August 14th, 2014

「この街に欲しいものは何ですか?」と聞くと、多くの人が「カフェと本屋」と答える。
街づくりや開発のときのアンケート等での話。
実際にみんながどのくらい使うかどうかは別として、カフェと本屋はみんな欲しいということだ。

ところで、
「欲しいもの」
「幸せになるもの」
「よく使うor関わるもの」
 あるいは「お金を落とすもの」

どれも必ずしも同じではない。
モノでも家でも、コーヒー屋でも、はたまた異性でも。

マーケティングとは欲しいものを目の前に出すこと。
あるいはお金を落とすようにするノウハウ。
その世界では今のところ、欲しいものをつくる人や
欲しい気にさせる人がデキる人ということになっている。

僕がもっともやりたいシゴトは、幸せになるもの、に気づかせること。
そこが一番で、その上で、それを欲しくなるようにし、お金もちゃんと落ちるようにする。
この状況がつくれれば、サステナブルというやつになる。

資本主義社会のシステムは、我慢からの解放を進め、
面倒なことは減って、選択肢も増えた。つまり自由の実現。

だが自由と幸せも、互いに矛盾することがある。
欲しいものを手に入れる自由が広がることは、
「幸せになること」と同じではない。

今のような自由な世の中では「規制」というのはネガティブに聞こえるが、
ルールというのは前向きで創造的なものでもある。
自由というカオスもいいが、ルールがあるから面白いことも色々ある。

幸せな場をつくるためには、その場の設定が上手いかどうかが大事だ。
いいパーティーをつくるにも、いい世の中をつくるにも。
偉大なリーダーたちはクリエイティブなルールをデザインしていく。

ちなみに、冒頭の「カフェと本屋」はどちらも、
コンビニやドラッグストアなんかに比べて儲かるものではないから、
”みんな欲しい割には” 意外とできにくいものでもある。
「欲しいもの」と「できるもの」も、違う。



続くもの

August 14th, 2014

オフィスの近くにある喫茶店アンセーニュダングルは1975年にできた。
朝によく行く珈琲屋ROWの前身である珈琲野郎は1973年にできた。
40年続いている。

多分、すごく儲かっていたら、そんなに続いていないのではないかと思ったりする。
儲かっていたら、オーナーは別のことをやりはじめ、
そのうち小さな店を続けるための必要条件である「思い」というやつがなくなるからだ。
「儲かる」と「続く」は、相関するけど、しないこともある。

僕はこの二つの店に続いて欲しいという思いがどこかにあるからか、
やけに頻繁に行く。お金もそこそこ使っているんじゃないか。
アンセーニュに週二回、「野郎」に週二回とすれば、
二つ合わせて月に1万円くらい使っていることになる。
これで自分はどの程度貢献しているのだろうか?

単価はケーキ含めて考えると1000円、客数はせいぜい一日50人くらいで、25日で月125万の売り上げ。そこから原価とかバイトとか色々考えて行くと結構ギリだから、まあいい線だろう。
で、自分の貢献は月5000円。200分の1以下。しょぼい。
でも、続いてほしいんだYO!という気持ちを表現をしながら店から出る技を
いつも繰り出しているので、それ以上の貢献はあるのかもしれない。

ところでtwilloという屋台バーがある。
場所が毎日違って、夜になるとその晩の場所がつぶやかれる。
マスターである神条さんに
「これ、当分続けるんですか?次にやりたいこととかあるんですか?」
と聞くと葉巻を燻らせながら、
「先は考えていないですが、当分続けるかなと思ってます。
 やりたいことが表現できているので。」
という。彼は別に、続くことが目的ではない。

「やりたいことを表現できているから、今これをやっている」
というのはシンプルだなと思った。納得感がある日常はいいものだ。

その納得感を優先して生きるか。
あるいは、老後の安心のために多少我慢して生きるか。
はたまた、ほどほどバランスをとるか。
多分自分は、納得感優先だと思いつつ、とはいえほどほどバランスをとっている気もする。

思えば、このあたりのスタンスが自分と同じであるような仲間が周りには多い。
そこが共有できているから仲がいいという人間関係は自然だと思える。
一方で、そこは違うけど、同じ音楽が好きだから仲がいいというような関係もいい。
ただし、事業をやっていくときには、パートナーとそのあたりが握れてないと続かない気がする。
夫婦の場合ってのはまたちがうのか・・

余談だけど「野郎」が万が一閉店したら、おれが継ぐとか言い出す気がする。
今の内装はさして好きなわけでもないので、結構いじらなきゃ、とか思ったりして。
たまに他に継ぎそうな人がいないか見回すのだが、今のところ見つけていない。やばいなぁ。



showrooming

April 15th, 2014

ZOZOがWEARのバーコード読み取り機能(店でスマホ使ってECに飛んでしまうやつ)を一旦あきらめたというのがニュースになっていたけど、まあこういうことも一進一退するものですね。amazonのflowってのもどうなるのか。一方ではスマポっていうアプリみたいに、逆にオンラインからリアル店舗に呼び寄せる仕掛けも出てきたり。

とはいえショールーミングというやつが進んでいくというのはとても自然な話で、今でも僕は本屋でamazonの中古チェックして買うのは時々やってます。本屋には悪いけど、その方が紙(木)の使用量減るし、みたいな。

不動産目線で言うと、リアル店舗での買い物が減っていくと店舗の払える賃料が減って商業不動産の価値は落ちるという理屈があるわけですが、僕はビルを持ってる人じゃないので直接的には利害がないから「いいんじゃね?」と思っています、ぶっちゃけ。まあ厳密に言うと日本の不動産価値が下がれば自分にも色々マイナスは回ってくるんだけど、さらに巡り巡るとそうでもないと思うし(理屈省略)。

でもそもそもファッション店舗の賃料負担力が他の業態に比べてとても高いことへの違和感はずっとあります。でかい物販店舗があれだけ高い賃料払えるものだから、路面から飲食が消えていったり、やたらとビルを建て替えが進んでしまったりということがあるわけで。

いずれにせよショールーミングが進めば、いやおうなくリアル店舗は楽しい体験や意外な出会いをつくるように工夫するだろうし、いろんなプレーヤーがコラボって楽しい空間をつくっていくんじゃないかとか、表参道の道沿いにもカフェなんかがもっと戻ってくるんじゃないかとか、思います。なんか、WEARの読み取り機能に積極的に乗っていたパルコは、やっぱり堤清二さんの文化的なマインドが残っているのかなと思ったりもします。

あるいは例えばECのシェアが伸びて資金力が高まっていくと、ECのウィナーたちが自らある種のショールーム空間をつくり始めるのかも。それはそれでおもしろいかもしれない。
いずれにせよこのあたりの話は、不動産企画でも建築やストリートのデザインにおいても無縁ではなくなってきたようですな。



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