武蔵小杉にて

October 25th, 2015

西鎌倉の実家から電車で東京に戻るとき、なぜか戸塚の商業施設「トツカーナ」が目に入る。もうこの行き帰りで電車の外を見てることはあまりないんだけど、毎回見てしまうのは、実は自分がこの名前を好きだからだろうか? いや、トスカーナの中世都市の隠れ研究家として、これはかなりキツい。公募で決めただそうだ。公募こわい・・

まあしかし、さえない商店街がコレになって喜んだ人はさぞかし多いだろう。その変化の構造とかはどうでもよくて、とにかくその結果に喜び、地元での買い物が増えたのだろう(そのお金の行き先は地元から離れたけれど)。別に街の記憶だとか、Authenticityなんて要らないんだよな、と思わせる強さ。LINEの時代に岩波文庫をみんな読めと言っても無理あるよね、みたいな。だいたい東急プラザとかだって、企業名に外来語足しただけだし、フェークでも、時間が経てばオーセンティック。

・・と、論理的というか構造的に言うとなんだか正当化されるんだけど、それとセンスは別であり、やはりトツカーナはダサい。いかんだろと。
・・なんて思いつつも社会勉強で見に行ってみようかと一瞬考えはしたものの、テナントリストをチェックしたらあまりに想像できちゃう感じだったので、やめる。だけどなんとなく武蔵小杉で久しぶりに下りてみることにした。

駅前の広場に降り立つと、うわーダサい!なにこのタワーとつまらん広場!とやっぱり思ってしまった。それが少数派側の感覚なのは承知だけど、思うもんは仕方ない。それはそれとして、割と最近できたグランツリー(という商業施設)に初めて入ってみた。

1〜2Fはまあ特に意外性とかはないけどマーケティング的にはうまくできてそうな印象。でもけっこう印象的だったのは上階の子供関連のテナントが充実してるあたりと、屋上。最強ですねこの屋上は。植物も色々あるし子供・家族が楽しめる仕掛けも満載で、笑顔がいっぱいで、これはもう子供連れはみんな超ハッピーだよね、と思った。

まあ総じて言うとグッとくるものとか人間味を感じるかというとそういうのではなくて、コンサバなマーケットへのうまく誠実なレスポンスなんだけど、平和な世の中じゃどこだってコンサバがマジョリティで、それを否定しても始まらない。子供もまだつくってない自分が、家族で幸せに住むための街の一つの答えとしてこれを批判なんてできるわきゃねーよと思わされる感じはある。

とにかくこのあたりの開発は、古い商店街のままであるよりもこの場所の経済価値を上げているのは事実だろう。まあそれによって他の場所の価値は下げられているわけだし、こういう施設のつくり方も、これからさらに創造的な方向に進化することができる世界になっていくとも思いつつ。

かつて「まち」にあった人間のふれあいみたいなものも、意外にこうした施設が解決していくということは、ありうるんだろう。そしてオルタナティブサイドにいる「少数派」たちが、大資本がそれらの解決を進めていくような影響力をつくっているという面もある。意識高いマイノリティと、まじめな企業戦士というマジョリティの、コラボレーションは続いていく。

街なり都市なりの競争は必然であって、その競争の先に答えがあるというのも事実である。そうした中で僕は再開発そのものを否定はしないけれど、そうした過程で入れ替えが起こり、無くなるものには注意を払わないといけない。10が3になり1になるのは往々にして自然であり仕方ないのだけど、1をゼロにしてはいけないものがある。その意味ではこの街もそろそろその「足元」のあり方を考えないといけないと思った。



欲しいもの

August 14th, 2014

「この街に欲しいものは何ですか?」と聞くと、多くの人が「カフェと本屋」と答える。
街づくりや開発のときのアンケート等での話。
実際にみんながどのくらい使うかどうかは別として、カフェと本屋はみんな欲しいということだ。

ところで、
「欲しいもの」
「幸せになるもの」
「よく使うor関わるもの」
 あるいは「お金を落とすもの」

どれも必ずしも同じではない。
モノでも家でも、コーヒー屋でも、はたまた異性でも。

マーケティングとは欲しいものを目の前に出すこと。
あるいはお金を落とすようにするノウハウ。
その世界では今のところ、欲しいものをつくる人や
欲しい気にさせる人がデキる人ということになっている。

僕がもっともやりたいシゴトは、幸せになるもの、に気づかせること。
そこが一番で、その上で、それを欲しくなるようにし、お金もちゃんと落ちるようにする。
この状況がつくれれば、サステナブルというやつになる。

資本主義社会のシステムは、我慢からの解放を進め、
面倒なことは減って、選択肢も増えた。つまり自由の実現。

だが自由と幸せも、互いに矛盾することがある。
欲しいものを手に入れる自由が広がることは、
「幸せになること」と同じではない。

今のような自由な世の中では「規制」というのはネガティブに聞こえるが、
ルールというのは前向きで創造的なものでもある。
自由というカオスもいいが、ルールがあるから面白いことも色々ある。

幸せな場をつくるためには、その場の設定が上手いかどうかが大事だ。
いいパーティーをつくるにも、いい世の中をつくるにも。
偉大なリーダーたちはクリエイティブなルールをデザインしていく。

ちなみに、冒頭の「カフェと本屋」はどちらも、
コンビニやドラッグストアなんかに比べて儲かるものではないから、
”みんな欲しい割には” 意外とできにくいものでもある。
「欲しいもの」と「できるもの」も、違う。



続くもの

August 14th, 2014

オフィスの近くにある喫茶店アンセーニュダングルは1975年にできた。
朝によく行く珈琲屋ROWの前身である珈琲野郎は1973年にできた。
40年続いている。

多分、すごく儲かっていたら、そんなに続いていないのではないかと思ったりする。
儲かっていたら、オーナーは別のことをやりはじめ、
そのうち小さな店を続けるための必要条件である「思い」というやつがなくなるからだ。
「儲かる」と「続く」は、相関するけど、しないこともある。

僕はこの二つの店に続いて欲しいという思いがどこかにあるからか、
やけに頻繁に行く。お金もそこそこ使っているんじゃないか。
アンセーニュに週二回、「野郎」に週二回とすれば、
二つ合わせて月に1万円くらい使っていることになる。
これで自分はどの程度貢献しているのだろうか?

単価はケーキ含めて考えると1000円、客数はせいぜい一日50人くらいで、25日で月125万の売り上げ。そこから原価とかバイトとか色々考えて行くと結構ギリだから、まあいい線だろう。
で、自分の貢献は月5000円。200分の1以下。しょぼい。
でも、続いてほしいんだYO!という気持ちを表現をしながら店から出る技を
いつも繰り出しているので、それ以上の貢献はあるのかもしれない。

ところでtwilloという屋台バーがある。
場所が毎日違って、夜になるとその晩の場所がつぶやかれる。
マスターである神条さんに
「これ、当分続けるんですか?次にやりたいこととかあるんですか?」
と聞くと葉巻を燻らせながら、
「先は考えていないですが、当分続けるかなと思ってます。
 やりたいことが表現できているので。」
という。彼は別に、続くことが目的ではない。

「やりたいことを表現できているから、今これをやっている」
というのはシンプルだなと思った。納得感がある日常はいいものだ。

その納得感を優先して生きるか。
あるいは、老後の安心のために多少我慢して生きるか。
はたまた、ほどほどバランスをとるか。
多分自分は、納得感優先だと思いつつ、とはいえほどほどバランスをとっている気もする。

思えば、このあたりのスタンスが自分と同じであるような仲間が周りには多い。
そこが共有できているから仲がいいという人間関係は自然だと思える。
一方で、そこは違うけど、同じ音楽が好きだから仲がいいというような関係もいい。
ただし、事業をやっていくときには、パートナーとそのあたりが握れてないと続かない気がする。
夫婦の場合ってのはまたちがうのか・・

余談だけど「野郎」が万が一閉店したら、おれが継ぐとか言い出す気がする。
今の内装はさして好きなわけでもないので、結構いじらなきゃ、とか思ったりして。
たまに他に継ぎそうな人がいないか見回すのだが、今のところ見つけていない。やばいなぁ。



showrooming

April 15th, 2014

ZOZOがWEARのバーコード読み取り機能(店でスマホ使ってECに飛んでしまうやつ)を一旦あきらめたというのがニュースになっていたけど、まあこういうことも一進一退するものですね。amazonのflowってのもどうなるのか。一方ではスマポっていうアプリみたいに、逆にオンラインからリアル店舗に呼び寄せる仕掛けも出てきたり。

とはいえショールーミングというやつが進んでいくというのはとても自然な話で、今でも僕は本屋でamazonの中古チェックして買うのは時々やってます。本屋には悪いけど、その方が紙(木)の使用量減るし、みたいな。

不動産目線で言うと、リアル店舗での買い物が減っていくと店舗の払える賃料が減って商業不動産の価値は落ちるという理屈があるわけですが、僕はビルを持ってる人じゃないので直接的には利害がないから「いいんじゃね?」と思っています、ぶっちゃけ。まあ厳密に言うと日本の不動産価値が下がれば自分にも色々マイナスは回ってくるんだけど、さらに巡り巡るとそうでもないと思うし(理屈省略)。

でもそもそもファッション店舗の賃料負担力が他の業態に比べてとても高いことへの違和感はずっとあります。でかい物販店舗があれだけ高い賃料払えるものだから、路面から飲食が消えていったり、やたらとビルを建て替えが進んでしまったりということがあるわけで。

いずれにせよショールーミングが進めば、いやおうなくリアル店舗は楽しい体験や意外な出会いをつくるように工夫するだろうし、いろんなプレーヤーがコラボって楽しい空間をつくっていくんじゃないかとか、表参道の道沿いにもカフェなんかがもっと戻ってくるんじゃないかとか、思います。なんか、WEARの読み取り機能に積極的に乗っていたパルコは、やっぱり堤清二さんの文化的なマインドが残っているのかなと思ったりもします。

あるいは例えばECのシェアが伸びて資金力が高まっていくと、ECのウィナーたちが自らある種のショールーム空間をつくり始めるのかも。それはそれでおもしろいかもしれない。
いずれにせよこのあたりの話は、不動産企画でも建築やストリートのデザインにおいても無縁ではなくなってきたようですな。



third wave

April 14th, 2014

珈琲屋の世界もサードウェーブ系というやつがだいぶ本格的に増えているようで、パリからも有名なのが来たようだし、最近東京出店を決めた西海岸系のブルーボトルなんかは数十億の投資を受けてると聞く。ちょっと前まではマイナーな個人たちの世界だったのに・・なんとも早い。

そうなってくるとドトールなんかもサードウェーブ風味の業態つくったりするんだろうし、不動産ディベロッパーはすぐ新しいプレーヤーたちをテナントに入れようとしたりして、スタバも今までのように強い立場じゃなくなったりするんだろうか。

そういう風に、新しい価値観や文化を持ったプレーヤーが現れて支持されて、マーケットの分解や変化が起こって行くのはいいことだ。他のリテールでも、あるいはリノベーションとかリフォームの世界も、きっとそういうことが起こっていく。エネルギーの世界だってそうかもしれない。でかいものたちが人間味をなくした頃に、新しい小さなものたちが力を持っていく。そして、ベンチャーが成長するのはわくわくするけど、ただつまらない巨大化するだけのビジネスなんてウンコだ。大きくなるなら大きい者ならではの革新がないと意味がない。

より動物的感覚としてしっくりくるものが支持されていくということはあちこちで起こっていくはずだし、そこに生じるチャンスは興味深い。質とか価値観とかスタイルというのは論理的な積み上げではない。ロジックからは生まれない価値や、大儲けするために編み出したわけじゃないグッドアイディアたちが、結果的に市場で認められていくのは嬉しいものだ。なんとなく最近、人間的なクリエイティビティが一昔前よりも経済とたくましく共生する世界に近づいているような気が、確信的にしている。



快楽Risktake

April 13th, 2014

今年は目黒川が宴会花見禁止になっていた。意見の分かれるとこなんだろうが、僕は宴会はできるべきだと思っている。

花見は歩いてしたい、という人の方が宴会派よりずっと多いということなら仕方ない。だけど、マナーの悪いやつがいるから、文句が出るから、とりあえず禁止する、という単純な構造は全く納得いかない。なんか、とりあえずまじめ側の意見を正とし、やんちゃ側の考え方はあくまで問題ない範囲で許す、という日本ぽさが嫌い。

さらに言えば、それってただの怠慢じゃん、と思える。「歩行者が迷惑しています」と言っているけれど、それってつまりマナーを改善すればいいはずってことじゃないのか。ならばせめて、今年だけ禁止にすればいい。「マナーが悪すぎたから今年はできない」となったら僕らはそれなりに反省し、翌年はマナーの悪い奴に注意もするだろう。

これはレバ刺し問題を思い出させる話だ。リスクリターンをバランスで捉えない社会のツマラナさ。危ない可能性があれば禁止する。川に落ちる子供がいたらまずいから、浅い川全部に手すりをつける。気をつけなくていいように、判断が要らないように、なっていく。

考えずに責任を避ける人や、豊かさとリスクのトレードオフを理解しない人々は、本来得られるはずの豊かさを妨げる。リスクテイクとはチャレンジであり、ある意味では夢と希望と勇気ではないのかと思う次第。



マンション開発

May 20th, 2013

数週間くらい前だったか、マンション供給、野村不動産トップ!という新聞の見出しがあった。トップ賞はおめでたい。まさに努力の賜物である。個人的には野村は大手マンションデベロッパーの中では好感度が高いので、へえ~やるね☆と思ったわけだけど、一方で「供給トップって微妙だよね」とも思った。

日本で新築マンションの供給戸数が多いことが社会的に立派であるかというと、それは会社自身と日本経済の絆創膏的な処置としては意味があるものの、やればやるほど地方や郊外が寂れる、世の中に空き家が増えるという状況に近づくわけで、要するに社会問題をより拡大することでもある。たくさん供給したぜ!というのは、大げさにいえば「社会問題をより深刻にするような仕事をしましたよ」というメッセージを本当はともなう面があると思う。野村はもちろん賢い会社だから、供給量をただ闇雲に追求しているわけではなく、住宅の新しい価値を追求しながら、企業としての長期的な健全な姿を追求しようとしているだろうし、その中での結果としてのトップ、なんだろうとは思う。

話はいったん変わるが、僕は都市や社会のデザインみたいなことについて考えるときに、キャンプを例えて考えることがよくある。以前にも書いたかもしれないが、何もない状態から人が住み楽しむための環境を整える上での手順と役割分担、その進化の筋道みたいなことをイメージするための参照例として便利なのである。何人かでキャンプをするとき、テントを建てたり荷物を運んだり、そのあと薪を集めたり火をおこしたり、それぞれ得意な人が役割を分担していく。なんでもそれぞれ自分でやるのでなく、うまくシゴトを分担し、合理的にコトを運んでいく。ひとまず場所ができあがった後は、料理したり、あるいはギターひいて歌ったり、それも含めてみんながそれぞれコミュニティに貢献することになる。近くに別のキャンパーチームがいれば、そのうちモノの交換も労力の交換もすればいいし、歌を披露して酒をもらって帰って来るのもいい。さらに進歩すれば、時間のズレがあっても価値交換ができるようにお金のようなものを使うようになる。

で、話を戻すと、マンションをどんどんつくるというのはどういうことか。あくまで例えだけど、キャンプなり無人島なりの世界で、とりあえずいったん住処が全部できて、そしてその後人が減って、家が余っているのにさらに家を建てる、どんどん建てる。で「おれが一番いっぱい建てたぜ!おれんとこにみんな移動してきてるぜ!」みたいなことだと言えなくもない。

もちろん質が上がっていればいいんだけれど、質が上がっていないのに無理矢理に水場に近いところに、本来広場だったあたりに建てまくって「便利だろう!」とやると、確かに人は便利なところに移動しちゃうものだ。結果、水場の周りにはみんながのんびり談笑するような場所はなくなっていく(これは、表参道の路面には賃料が上がりすぎてカフェがなくなったのと同じ感じか)。さらに、建てるための資源がふんだんにあればまだいいけれど、周りの木がなくなってるのに新しく建てまくり、人も減りつつあるのに「さあ木が無くなったから早く隣の山まで木を取りに行くぜ!大変だぞ!お前ら気合い入れろコラ!おぅ!」みたいな。・・そう考えると「なんか、家つくるよりも、今ある家を楽しく少しいじるとか、はたまた歌でも楽器でも練習してみんなで最高な夜でも過ごせたらいいのにね」と思ったりする。

まあ現代社会は複雑にいろんなものや仕組みを既につくった前提があるわけなので、それをふまえて考えないとしょうがないから、自分も無邪気に新築を一切やめるべきとは思っていないけど、立ち戻って考える必要は、あるよね。ほんとは、不動産ディベロッパーが今の資本市場のルールにのっかってしまってること自体が根っこの問題であって、米国でもデベが上場なんてしないんだけど。

なんて言ってもなんなので、現実に大手デベが、社会問題増幅系の仕事でなく、健全にやれるこれからの事業は例えば何なんだろう?となると、確かにこれは難しいけど、無責任に言うは易し的なことを言うならば、途上国の、これから生活水準が上がっていく数十億人のためのまっとうで魅力あるローコスト住宅、とかは、やれることがあるんじゃないか。先を見てそういう市場へのシフトをイメージし、そのための海外でのネットワーキングとパートナーシップを進めていく。”日本だけ”からの脱却へ向かい、世界からもリスペクトされることを目指す。日本だけで無理するよりも、いつかは大きいリターンもあるかもしれない。



競争論

May 6th, 2013

熾烈なグローバル競争、とかいうとなんだか世知辛い格差システムみたいな雰囲気の言葉になるわけだけど、僕らはみんなオリンピックで熾烈なグローバル競争を見て大喜びしている。アカデミーもグラミーもウィンブルドンも同様。競争は見ていてもやっていてもおもしろいし、人ががんばって勝つ姿というのは素敵である。高校野球なら甲子園という目標があるからがんばって練習するし、青春と感動を生む。若者がダンスとか始めて、コンテストに出ようと決めてから俄然努力して上手くなり・・みたいなのもいい。「楽しければいい」「いい技を、いい試合を、それだけでいいんだ」だけの世界は物足りないし進化しない。

何かに取り組むときには、楽しむ、いいプレイをする、競争に勝つ、という三段階、言い換えれば「楽しさ/やりがいの追求」「質の追求」「勝利の追求」がある(解決に向けて行う取り組みだと違ってくるが)。スポーツの世界では勝利を追求しても気持ちがいい。映画つくってカンヌを制したいというのもよい。料理屋であれば、あくまで質を追求するというのが美しい気がするけど、世界で一番の寿司屋になるんだという志は素敵な感じである。しかし世界で一番店舗数の多い最大の寿司屋になるんだと言い出してしまうと、途端につまらない話になる。

スポーツでも、例えば僕の世代の高校野球ではPL学園が強かったわけだけど、毎年PLが優勝しているとつまらなくなるし、あるいはPL学園がグループ化して47都道府県のうち15県がPLグループの高校になるといやになる。つまりは競争自体が問題なのではなく、シェアや規模の競争が問題なのだ。質や美しさでなく量の競争、圧倒の追求になった瞬間に、それはまずい話になってくる。

それは他を駆逐することであり、均質に近づくことである。ビジネスでの熾烈なグローバル競争がなぜいやな感じなのかと言えば、質より量の競争であり、生き残るために量が必要であり、それが駆逐と均質を生むものだから。ユニクロやスタバも、あるところまでははいいんだけれど、駆逐と均質が見えて来るといやになる。人は多様を求めるのだ。生き物や植物が多様に共存しているのだから、多分人間も、人間がつくるものも、多様・共存ができていないと何かがヤバくなる。

じゃあどうしたらいいのか、ということになるわけだけど、そもそも人間のサガというのはあるものなので、基本的な欲を前提に考える必要はある。現代社会における高次の欲(自己実現欲求ってやつに近い?)は「進化したい・達成感を得たい」そして「リスペクトされたい」そして「選択肢を増やしたい」というのがあるように思える。お金が欲しいというのは、基本的には選択肢を増やしたいということだけど、同時にリスペクトされることにもつながる感じがまだ残っている。リスペクトされるようにがんばるのは健全なことだし、進化し達成するということも基本的にまっとうだ。ただ「それが質より量の追求でなければ」というのが全ての前提になる。

人類が領土拡大に歯止めを効かせることができるようになってしばらく経つわけだけど、そろそろ企業の拡大、すなわち量の競争も、歯止めを効かせる必要があるという常識とルールができていい時期が来ている。ただし野球は12球団という縛りの中でのゲームだから球団や選手が完勝しても他者を駆逐するわけではないけれど、アパレル業界を12社に限るということはありえない。でも何らかの、歯止めを効かせる決めごとが必要になるんだろう。

その歯止めを自分自身で決めている会社はたくさんある。ウチもそうだし、思えばマッキンゼーもそうだった。何を目指すのか、持続的なイメージを持っていた。あの会社はもう一つ、人が卒業・循環していくという前提があって、それがうまくワークしていた。オーナーも社長も循環し、無駄な滞留・肥大もやみくもな領土拡大もしない。評価が上がれば会社や個人一人当たりの報酬水準は上がって行く。
ただ、会社がほんとの意味で持続的なかたちであるにはそれなりの良識や冷静さが必要だし、あるいは上場していないことが前提であったりする。

これを詰めていくと、例えば会社が一定規模になったら3つに割る、というようなことを決めてしまうというイメージがあるかもしれない。その規模のラインを決めておき、分割されたらそのとき権利はフェアに整理され、そこからはまた適切な競争が生じる。例えばアパレルだったら1000億を超えたら分割。一定率を持ってる株主は1つを残して売却しないといけないとか。これを資本市場のルールとして、世界が握る、と。

そうすると500億くらいの段階で、解体まで行くのか、ここで質の進化に舵を切るのか、企業(経営者や株主)は判断することになる。大きくならないとやられてしまうというプレッシャーも、それ自体が存在しないルールであれば問題にはならなくなる。株主にとってはどっちの道にいくのが得かは微妙な判断になる。”規模の王者”になりたい人にはもどかしいかもしれないけれど、その欲がそもそもナンセンスという話である。もしかしたら「あいつはもう会社を2度も解体させたんだぜ」というのが自慢になるかもしれない。国の領土拡大の話だって一緒で、ただ王者になるために他者を駆逐するべきではない。

まあこれも全然詰めた話ではないし、あくまでイメトレ的な話だけど、何かこのような類いの考えがもうじき必要だと思うし、そもそも人間の歴史の中ではそのくらいの前提変更というのはけっこうあったし、やってみれば意外と大した話じゃない気がする。肉食プレイの真っ最中の人にとってはアホかという話だけど、そのうち価値観の勢力図が変わる時がくるだろう。で、自分はしばらく両方の間にいるのがいいんだと思っている。



恋愛激戦区

April 29th, 2013

「一時期は楽しいネタがあったのに、最近はなんだかまじめだねぇ」と何人かに言われたので、久しぶりに日常的なネタでカタることにしました。言っておきますが7割くらい冗談ですのであしからず。

恋愛激戦区といわれる現代のTOKYOで、一つの社会問題があります。それは、今この大都会では女性の社会的ポジションがどんどん上がっていると同時に、その上層レイヤーに位置する素敵女性たち、つまり「女性として魅力的で、仕事もできて、人間もできている30代」に、シングルがやたらと多いという問題です。個人的には、これがそもそも問題なのかどうかを問い直すべきと思っていまして、ぶっちゃけ、社会システム、法律の話まで含めてぐいぐい変えていった方が日本の経済も文化も幸せ度も前進するんじゃないかと思っているタイプであります。

ただ、そういう議論を始めても理屈っぽくなってそもそもこの場での主旨的には元の木阿弥ですし、ルールを変える力を持っているわけでも、変えるための作戦まで考えているわけでもないので、ここは一歩引いて、上記のいわゆる女性上位時代(っていう映画が割と好き)の典型的問題を、解決すべき課題として捉えた上で、その問題の構造を少し読み解いてみようじゃないかと思うわけであります。自分の周りにもそういう素敵な人たちがたくさんいるので。

なぜにその素敵層はシングルであるのか。まずは基本的に、相手に依存する必要性が小さいこと、それゆえに結婚への目的意識が薄いこと、があります。よね。そして次に、これが意外と厄介なのですが、自信があること、つまり「私は仕事もがんばってるし、世の中に価値生んでるし」という、持っていて当然な「誇りと自信」があります。その上で経済的にも相対的には余裕がある。自信があるから、必死になるほどプライドを捨てる気にはなりにくいわけです。

目的意識が薄いとはいえ、ないわけじゃない。だけど、マストでもないから必死にはならない。行動のみならず、感情のスイッチがなかなか入らない。これが基本的な構造なわけですが、つまり何が言いたいかというと、これを仕事なりプロジェクトなりに置き換えると、「いや、僕だって仕事はもっとほしいと思っていますよ。ただね、自分にとっていい仕事っていうのは自然にチャンスに出会うものじゃないですか。それに、自分が燃えない仕事をやるくらいなら、無理にやりたくはないですよね」というようなスタンスを意味するわけです。

このスタンスは確かにアリといえばアリでしょう。ただ、ここでの彼の問題は、やりたいことが明確でないことと、それゆえに機会をたぐり寄せるメッセージを発していないということです。やりたいことが具体的なイメージで人に伝わることは、チャンスを引き寄せ、前進を生む。これは絶対だと思います。安藤忠雄センセイも、やりたいことをいつも語っています。

言うまでもないですが、どんなことでも、本気でプロジェクト化した方が実現性は絶対的に高まります。「英語うまくなりたいよな〜」にしても「やばいよ最近太ってきたよ、やせなきゃ〜」にしても「旅館のデザインの仕事やりたいんだよね〜」にしても、なんでもそうです。よし、じゃあゴールを具体的に想像してみよう、とか、「効果的で、自分にとって現実的な行動を決めて、明日から実行しよう」とか、「半年後に達成するのに恐らく必要な努力やマインドチェンジを具体的に組み立てよう」とか、「半年後に振り返って、やるだけやった、これでだめならしゃーないと思えるには何をすればいいか」等等。

望ましい機会や出会いを創るというタイプの目的の場合、ビジョンを大いに語ること、それも目を輝かせて素敵に語ること。それが語れるように、自分の思いやイメージを具体的にしていくこと。伝えるために足を動かし、機会に出会うために人に会うこと、そして人から方向修正の指摘もしてもらえるようなチャーミングでオープンなスタンス、そのあたりが”プロジェクトを実現する”ためには絶対的に意味があるはずだと思っています。そして、少しでも早くプロジェクトを形にしたい場合、無駄なことはしないのも重要であり、意識が明確な人は、形にならないような半端な話はさっさと断り、次へ行くものです。ビジョンが曖昧だとここで必ず無駄が出ます。明確であれば、一見無駄だが有益な発見につながる可能性も察知できるようになるんだと思います。

おっと結婚の話でした。
ところでよく言われることで「結婚そのものに憧れ、戦略的かつ多く動き回って、結果さくっとシュートを決めたタイプはその後、うまくいかない」といった類いの言い伝えがあります。これは僕のリサーチの範囲ではウソです。なぜ?! それは・・・「(関係を)維持することにおいても、目的意識が強いことがポジティブに働く」という、言われてみれば当たり前な話でしょう。もうお気づきかもしれませんが、つまり「ここでも”できる女”は維持する目的意識が弱い」ために問題が起こる可能性があるわけです。

繰り返しますが、僕は目的設定は人それぞれであるべきで、固定観念に縛られる必要なんて全くないと思っているタイプです。ただ「目的意識があるなら、”プロジェクト化”すべき」という考えは大事にしています。それも、マニュアル的に一般論を参照するのではなく、自分ならではのコンセプトや方法でプロジェクトをつくるのが一番の道と思います。自分がやってみたいプロジェクトがあったとき、「それ、やりますか?仕掛けますか?」「それとも、やらなくても構わない」ですか?といつも自分に問うことにしていますが、全ての妄想をプロジェクト化するのは無理なので、もちろん後者の場合もあります。でも前者であれば、仕掛け方を決め、タイミングも決め、タイミングを5年後に設定しても、そこに向けて今打てる手は打つようにto doリストに入れる、という発想はするようにしています。ここがまず出発点なのではないでしょうか。

・・・やっぱり結局理屈っぽく、しかも脱線してしまいました。すみません。読んで下さった方は、つまらん、ぜんぜん納得いかん、何を偉そうに、むかつく、てかお前どないやねん、等色々ネガティブな印象を持たれたもしれません。でもまあ、3割くらいはマジなので、そこが伝わって、世の中の幸せ総量が少しでも上がるといいなと思う次第です。



建築家の役割2

April 16th, 2013

だいぶ前に建築家の役割という題で書いたのは、資本の論理をふまえて戦い方を考えないと、ほんとに食えなくなってしまうという話だった。自分のことをだいぶ棚に上げつつその続きをもうちょっと考えてみる。

そもそも建築家というのは、ニーズなりマーケットがあるからやる、という仕事じゃなくて、「ニーズがあるかどうかでいったらかなりキッツいのはわかってるんだけど、やりたいんだもん」という世界なので、ビジネスの一般論からすれば”儲からない”に決まっている。ただこの話は食える食えないの話以上に、社会的に重要な仕事たりうるかという話であって、そういう意味で正しい形にアップデートしていかないと、そもそも世の中的によろしくない。感覚的な言い方だが、今までのイメージの”建築家”は現状の2割くらいに減っていいと思っている。実際、同世代で”建築家”をやってる人の半分以上は、別の仕事をするか、そうでなくとも”建築道”の王道とは違うアプローチでいった方がずっとわくわくできて、かつ影響力を持っただろう、という感覚がある。

なぜそうなっているのかと言うと、仕事のパイが量的に減ってるということもあるが、社会へ与えるインパクト(影響力)が限られているという実感があるからではないかと思う。空間や街をデザインする際に、建物や内装のかたち(意匠)によって生み出せるメッセージは時代とともに(相対的に)小さくなっていて、そのことがいよいよ実感されてきているということかもしれない。そしてもう一つはいわゆる世知辛い問題、つまり短期合理性が益々追求されて、文化的なるものに予算や時間が与えられにくい社会になっていることがある。

あらゆる課題において新しい切り口や答を出すのが難しくなってきており、ハード中心のコンセプトをつくっても現実は思うような状況にならなかったり、美しき斬新な表現をしてみてもさほど世間から関心を持たれなかったりする。かつて60〜70年代にも、都市の未来構造を絵に描いて”どーだ!”と言っても結果的に現実に全く反映されなかったりしたわけだけど、今はもう建築スケールにおいても、商業空間はもちろん、集合住宅ですら、ハコの意匠の価値の限界はだいぶ見えている。建物の形で人はそれほどの感銘を受けず、価値観はもとより生活や活動にも大きな影響を受けず、更にはアートな文脈ですら新しい強いメッセージとして成立しなくなってしまった。「そんなことないよ」と言いたいのもやまやまだし、素晴らしいものももちろんあるけど、ちょっと冷静になれば認めざるを得ない。ビジョンはもうハードだけでは構成しえないという気がする。

思えば自分は建築家という職能の定義をもっと広げて考えたらいいのではないか、事業企画なり流通なり投資なりを実践することを含めて捉えてもいいのではないかと思っていた時期もあったが、今はそれはやはり違うと思うようになった。「建築家」は、例えるなら”アーティストではなく絵描き、つまりその仕事は空間創造における手法領域の一つなのだと捉え、むしろその解決領域にはもはや限度があることを前提とすべきだと。近代芸術で絵画というメディアが主であったとすると、現代アートにおいてはあくまで一つの手法の選択肢となった。実際、自分が「こんな場所があったらいいな」と思うことがあったとしても、そこでアイディアやストーリーの軸をつくるリーダーとして建築家が相応であるような機会は減っていると思う。多分、図書館や美術館ですらも、そうなっていく気がする。

グラフィックデザイナーでなく、クリエイティブディレクターなる人がストーリーを組み立てるように、問題解決の複合性とともに創造のフォーメーションは変わって行く。そのときにアーティストやディレクターに相当する言葉が何かは未だにわからない。あえて急いでネーミングする必要があるとも思わないし一つにまとめるべきとも思わないが、直感的に、アーキテクトという言葉でまとめるべきではないとは思う。いずれにせよ、力強い場所創造のディレクションは、建築家の個人技では(極めて一部の例外を除いて)なかなかできないものだ。社会的課題や事業的課題を空間的にクリエイティブに解くということは、少なくとも従来の建築家の教育や思考の枠では務まらなくなっていることは確かだと思う。これはネガティブにも見えるけど、ポジティブに見れば、空間の創造や解決の方法や切り口の幅は多様でありうるということでもある。

そうした中でどう動くのか。当然答えは一つではなく無限にあるわけだけど、いくつかのタイプに整理することはできる。一つは建築家、もう一つはソリューションアーキテクト、それからプロデューサーという具合。「建築家」は美しい空間や、”空間的に斬新な”アイディアを形にするアーティストであり、ソリューションアーキテクトは多面的な問題解決の中で全体観や現実的要請・状況をきちんと把握しながらハードデザインを行うデザイナーであり、プロデューサーは課題解決を多面的に行う際に複合的なキャスティングをしながらハードもソフトも(あるいはマーケティングも)含めて統合的な答えをつくるリーダー、という感じか。

今の建築家は、ソリューションアーキテクトのような感じのカタりをキメながら、実は絵描き的建築家であって、その領域の外については実はあまり現実的な分析や知見を持っていないという人が多いと思う。それは大抵の人が”なんでも設計します”というスタンスである以上、どうしても限界があるのだけど。プロデューサーの立ち位置でマニフェスト的なアウトプットをする人もいるが、惜しいことに、発想はいいのに現実感という意味では途中のカッコいいところで詰めを止めて抽象的なメッセンジャーに留まろうとしてしまったり、他の領域のプロを巻き込みたがらず自分だけでできる範囲だけで解くのをやめてしまう人が多いように思う。

やっぱりそれでは影響力にも、求められる機会にも限界がある。問題解決のリーダーシップをとり、多面的なアイデアを出したり集めたりし、具体的に現実をブレイクする筋道を提示できるような人にならないと、社会から本当に必要とされる場面をつくれないのではないかと思う。建築を好きで学んだ人たちはみんな、いい発想と感性を持っており、そして現実的な分析力も本来はあるんだから、現実の解決志向を避けてきれいに動ける範囲にとどまる構造から脱却すべきだと思う。(もっとも、世界的に活躍しているような一部の人は、ここでの話はちょっとあてはまらないし、あてはめる必要もない。年間数人までとかの話だけど)。

僕の感覚では、建築家の卵にあたる世代に関していえば、”建築家”が1〜2割、ソリューションアーキテクト(ふう、でなくリアルな)が3〜4割、プロデューサーが1割、あとは別の世界で大活躍しちゃいましょう、という感じ。僕は社会学者的な立場ではなくあくまでビジネスのアプローチで建築に関わっているので少し偏りがあるかもしれないが、日本は一般人がデザインリテラシーが低すぎて、建築家がビジネスリテラシーが低すぎることもあって、やっぱり”マーケット(市場)”の理解というのはもう少し危機感を持って取り組むべきだと思う。

建築家に駅前のデザインを頼めば、まず全く市場原理を無視した発想が始まってしまうことはよくある。マツキヨやマックがどれだけ高い条件を提示してくるのかを知らずに無邪気に山手線の駅前の路面に個人店カフェを書いてしまうようではプロとは言えない。市場の現実を最低限わかった上で、短期的な市場原理を乗り越えるための策略とともに答えを提示することができなければそれは案として無価値である。”市場”の力はまだまだ強力であり、当面さらに強力化する。そこにもっと覚悟が必要だと思うのだ。強烈なデザイン一発で課題解決を支配することは理想だけど、少なくとも厄介な意思決定がつきまとう日本という国においては(あるいはこれから市場力が益々増して行く世界各国でも)現実的な戦略は常に必要なのだ。

さらにプロデューサーたろうとする場合、キャスティングをリードすることが必要で、そのためには現実の問題の全体構造を知る必要がある。そしてそれを可能にするのは、きれいごとでなく、現実の状況を解く手順を理解するために必要な知識や洞察を持つことと、場面によって「建築家」としての職能境界を乗り越えていく行動である。自分の表現の邪魔をされたくないという動きをするよりも、巻き込み巻き込まれた方がうまくいくものだ。そこに踏み込んでいくと、自らの究極の仕事は「建築家」じゃないと気づき、その結果、建築事務所に設計者でない人が入ってきて、気づいたら設計事務所じゃなくなっていくこともあるかもしれない。でもそれこそが自然なアップデートなんだと思う。

そう考えて行くと、やっぱり教育もメディアも変わっていくべきだし、新しいロールモデルも必要だと思う。教育に関して言えば、基礎教育は空間意匠でいいのだけど、それにまつわる諸条件、広がり、関連性、といったもの、つまり空間デザインというスキルが社会的に・文化的にリアルに価値を生んでいくために必要な連携なり仕事のあり方というものをチラ見せすることはもっと必要だと思う。メディアに関しても色々思うところはあるけれど、建築家やデザイナー自身が自分のスタンスや知見の範囲をどうしても広く見せオールマイティに答を出せるように見せてしてしまう中で、一人一人の持ち味や視点の限界を客観的に評価して伝えることをしないといけないように思っている。

いずれにせよ建築の機会というのは減るわけだし、建築的発想力やロマンを持っている人は、全然違う場所(業界)にポーンと行って数年を過ごして、その上でオリジナルな、時代と自分に合った新たな仕事に取り組むというのはとてもいいと思う。人は30を過ぎると「自分は○○の人間だから」と新しい領域に飛び出ることをしなくなることが多いけれど、それはもったいない。自分も32から不動産仲介屋を始めて営業をやってみたり、あるいはかつてやらない選択をした「設計」を自分の仕事の中に組み込もうと仲間と組んで仕事の幅を戻すように広げたけれど、「やってみる」と「人と組む」の組み合わせで、仕事なんていかようにもシフトできると思うようになった。かく言う自分もこんな偉そうなウンチクをかたるのも相当えらそうであることはわかっているし、そろそろ自分を固めてしまっている気がしてきたから、数年先にはポーンと別の場所に行くことも考えたりする。
でももちろん、”それでもおれはケンチクなんや!”という人は、建築家として技やアイディアを磨き上げ、時として人に大きな感動を与えるのだろうと思う。



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