October 25th, 2015
国立競技場やエンブレムの件で、「内輪でいい加減に決めやがって」的な炎上とともに「デザインを素人が選ぶのはダメだ」「そもそもデザイン的なるものは民主的に決めるもんじゃない」という話がだいぶ出た。僕も基本的にはそう思っている。
一方で、専門家たちの審査員チームが決めれば安心だね、と思うかというとそうでもない。安藤忠雄センパイひとりが決めるのも正直けっこう不安だし、内藤廣センパイや原研哉センセイあたりが話し合って決めれば超安心だね!と言うのも微妙に違うというか、もうちょっと多くの人の意見を取り込んでみてもいいかも、という気持ちもある。
商業空間のデザインの価値を建築家が評価しきれないように、公的なシンボルには相応の広い価値享受の構造があって、その構造を数人のデザインの専門家が完全に汲み取れると考えるのは難しいように思う。今どき亀倉雄策先生のような人もいないし。
個人的には、それなりの専門家たちが「これならどれに決まっても、アリだ」という2〜5案とかを選んで、その後は、それぞれの案の価値や魅力や意味について専門家たちがわかりやすくきっちり説明した上で、何らかの方法で幅広い市民投票的なことをやるのがいいかな、と。仮に、専門家たちが「これが圧倒的だよね、2案選ぶのは厳しいな〜」というくらい評価に差があった場合は、「専門家としてはこういう理由で圧倒的にA案で一致してるが」と言った上で選ばせる、みたいな。
デザインというのはその深さや未来価値が往々にしてわかりにくいものだから、その基本的な水準の判別はプロがやるべきだと思うけれど、プロセスの一定の部分に適切に「民主的な」方法を差し込むことはアリだろう。それによって人々の関心が集まる面もあるし、いろんな意味で理解も深まるんじゃないかなと。そのようなプロセスやコミュニケーションを工夫することで、デザイン的なるものについて日本の人のリテラシーをいい方向に上げていける可能性があるような気がする。甘いかな。。
ところで、世の中はもっと主観を重視すべきだと思うことがけっこう多い。上のコンペの例ではちょっと逆のことも言っているけど、世の中の色んなことが「民主的」すぎると思うことが多く、誰かの主観で世界をつくっていく部分がもっと多い方がいいんじゃないかと。
民主的の反対語は主観的ではないし(強いて言えば独裁的とか?)、主観的の反対は客観的であるのは知っているけど、一般的に「民主的」に決めよう・創ろうとすると「客観的」になっていく傾向がある。そうすると、したい論でなく、べき論的になり、さらに「誰から見てもそうだよね」に近づいていく。ゆえに、民主的に決めるならなおさら、つくるときに主観的であることを意識した方がいい気がする。
「民主的な」つくり方や決め方はクリエイティブの領域と相性が悪いし、これからは創造性が大事な世の中だという前提で言えば「主観による最終判断」が大事になる場面は増えるだろう。企業経営の世界ではそれは普通のことだけど。
もちろん政治の世界では、無難が票を集めるような面がある。マクロな政策はさすがにある程度「現実的」でないとヤバいので、それはある程度仕方ない。でも「アナタの主観は?」ということを問うのは良いはずだ。現実性と主観は共存できるし、そうしたスタンスは別に独裁者を生むとかいうことにはならない。
話のついでに言うと、選挙のルールなんかも、行けば行くほど一票の重みが増すというのでもいいような気がする。過去の投票率が高い人が一票の重みが増すとか。それで一部の若者が高齢層よりもパワーを持つとしても、それでええやん、と。
戻ると、もし民主的な創造プロセス、が怪しいとするならば、公民館を市民参加でつくるという類いの話はどうなのか。確かにニーズをみんなで出し合うのは重要だ。最後に要件のバランスを決めるのも、意匠を選ぶのもみんなでやればいいと思う。それらを通してコミットメントが上がる面もあるだろう。ただしそうした場合において、投票する人は一定の「理解」を経た上でないと投票できないようにしておく。そしていわゆるデザイン行為、統合的な思考でかたちを練り上げるコアなプロセスが主観的であるようにしておくことは大事だと思う。
主観でつくり、客観で選ぶ。選びきれないならもう一歩突っ込んで最後は主観で腹をキメる。民主的なプロセスは、つくる前や時として途中、そして選ぶ時などに、あくまで必要に応じて差し込む。そういう大原則の上で、ルールやプロセスをデザインする。あるいは言い方を変えると、優れた主観を民主的に共有して選択する。選んだ主観を皆で許容しひとまず期待する。今の日本ではそういう感じがいいのではないかと。
とにかく決め方というのは大事だ。でも全てにおいて状況や事情は常に違うから、決め方を決めるのもそこでプロデューサーとして動く者の才覚にかかる。しかし世の中は決め方が往々にして決まっていて、それを動かしにくい。そういう点で、今の政治システムも、その他多くの社会システムも、まだまだ途上に思える。
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民主的な
October 25th, 2015
国立競技場やエンブレムの件で、「内輪でいい加減に決めやがって」的な炎上とともに「デザインを素人が選ぶのはダメだ」「そもそもデザイン的なるものは民主的に決めるもんじゃない」という話がだいぶ出た。僕も基本的にはそう思っている。
一方で、専門家たちの審査員チームが決めれば安心だね、と思うかというとそうでもない。安藤忠雄センパイひとりが決めるのも正直けっこう不安だし、内藤廣センパイや原研哉センセイあたりが話し合って決めれば超安心だね!と言うのも微妙に違うというか、もうちょっと多くの人の意見を取り込んでみてもいいかも、という気持ちもある。
商業空間のデザインの価値を建築家が評価しきれないように、公的なシンボルには相応の広い価値享受の構造があって、その構造を数人のデザインの専門家が完全に汲み取れると考えるのは難しいように思う。今どき亀倉雄策先生のような人もいないし。
個人的には、それなりの専門家たちが「これならどれに決まっても、アリだ」という2〜5案とかを選んで、その後は、それぞれの案の価値や魅力や意味について専門家たちがわかりやすくきっちり説明した上で、何らかの方法で幅広い市民投票的なことをやるのがいいかな、と。仮に、専門家たちが「これが圧倒的だよね、2案選ぶのは厳しいな〜」というくらい評価に差があった場合は、「専門家としてはこういう理由で圧倒的にA案で一致してるが」と言った上で選ばせる、みたいな。
デザインというのはその深さや未来価値が往々にしてわかりにくいものだから、その基本的な水準の判別はプロがやるべきだと思うけれど、プロセスの一定の部分に適切に「民主的な」方法を差し込むことはアリだろう。それによって人々の関心が集まる面もあるし、いろんな意味で理解も深まるんじゃないかなと。そのようなプロセスやコミュニケーションを工夫することで、デザイン的なるものについて日本の人のリテラシーをいい方向に上げていける可能性があるような気がする。甘いかな。。
ところで、世の中はもっと主観を重視すべきだと思うことがけっこう多い。上のコンペの例ではちょっと逆のことも言っているけど、世の中の色んなことが「民主的」すぎると思うことが多く、誰かの主観で世界をつくっていく部分がもっと多い方がいいんじゃないかと。
民主的の反対語は主観的ではないし(強いて言えば独裁的とか?)、主観的の反対は客観的であるのは知っているけど、一般的に「民主的」に決めよう・創ろうとすると「客観的」になっていく傾向がある。そうすると、したい論でなく、べき論的になり、さらに「誰から見てもそうだよね」に近づいていく。ゆえに、民主的に決めるならなおさら、つくるときに主観的であることを意識した方がいい気がする。
「民主的な」つくり方や決め方はクリエイティブの領域と相性が悪いし、これからは創造性が大事な世の中だという前提で言えば「主観による最終判断」が大事になる場面は増えるだろう。企業経営の世界ではそれは普通のことだけど。
もちろん政治の世界では、無難が票を集めるような面がある。マクロな政策はさすがにある程度「現実的」でないとヤバいので、それはある程度仕方ない。でも「アナタの主観は?」ということを問うのは良いはずだ。現実性と主観は共存できるし、そうしたスタンスは別に独裁者を生むとかいうことにはならない。
話のついでに言うと、選挙のルールなんかも、行けば行くほど一票の重みが増すというのでもいいような気がする。過去の投票率が高い人が一票の重みが増すとか。それで一部の若者が高齢層よりもパワーを持つとしても、それでええやん、と。
戻ると、もし民主的な創造プロセス、が怪しいとするならば、公民館を市民参加でつくるという類いの話はどうなのか。確かにニーズをみんなで出し合うのは重要だ。最後に要件のバランスを決めるのも、意匠を選ぶのもみんなでやればいいと思う。それらを通してコミットメントが上がる面もあるだろう。ただしそうした場合において、投票する人は一定の「理解」を経た上でないと投票できないようにしておく。そしていわゆるデザイン行為、統合的な思考でかたちを練り上げるコアなプロセスが主観的であるようにしておくことは大事だと思う。
主観でつくり、客観で選ぶ。選びきれないならもう一歩突っ込んで最後は主観で腹をキメる。民主的なプロセスは、つくる前や時として途中、そして選ぶ時などに、あくまで必要に応じて差し込む。そういう大原則の上で、ルールやプロセスをデザインする。あるいは言い方を変えると、優れた主観を民主的に共有して選択する。選んだ主観を皆で許容しひとまず期待する。今の日本ではそういう感じがいいのではないかと。
とにかく決め方というのは大事だ。でも全てにおいて状況や事情は常に違うから、決め方を決めるのもそこでプロデューサーとして動く者の才覚にかかる。しかし世の中は決め方が往々にして決まっていて、それを動かしにくい。そういう点で、今の政治システムも、その他多くの社会システムも、まだまだ途上に思える。