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土地公有化の話

April 22nd, 2012

ちょっと前に坂口恭平さんと対談するかもしれない話があって、結局それは流れたんだけど、彼が言っている土地公有化の話はやっぱり気になった。まだそのあたりの話についてきちんと勉強したりじっくり考えたわけではないけど、今の時点での印象を残しておくことにする。ちなみに坂口さんのゼロ円ハウスの本は前にちょっと読んでおもしろいな~と思っているし、熊本で自分の国家のようなものをつくって内閣総理大臣を名乗ったりといういかれた感じにはけっこう共感を持っている。

先進国でも、道路も含めて色んな公有地があるけれど、基本的には土地は当たり前に私有化されるものだということになっている。で坂口さんは「家は自分でタダで建てられるけど、土地はお金がないと持てないのはなんかおかしい」と。仮に富士山を私有させたら削られるかもしれなくて、でもそれはまずい、といった話も聞いたことがある。なるほど・・

ゼロベースで考えてみると、私有の方がいい理由というのはあまりない気がする。今いきなり何もない国家ができて、そこで新たに全ての制度をつくるなら、自分ならとりあえず公有ベースで検討するだろう。おそらく一番の理由は、土地の私有化はバブルを生みやすい、つまり経済のブレを拡大しすぎて”過剰”な状況を時々つくるから。国が土地を全部所有して利用を仕切りすぎると恐いことになるリスクもあるが、利用者の利用権が強ければよいわけだし、所有権に強い意味を持たせない形はつくれるだろう。他にも色々と双方の善し悪しがあるのだろうけど、あまり強い理屈は今のところ思いつかないので、あるなら知りたいところ。やっぱり権力や富を手にした人は、土地を押さえたくなるだろうから、勝者のルールが広がったのが、私有化の基本的な経緯のように思える。

ただし現状の日本で、今公有化することは現実的には厳しいし、賛成しない。大変すぎて、労力に見合わない。もともと公有と私有でどっちがよかったか、という選択も、それほど圧倒的な善し悪しの差ではない気がするし。ただ、今後数十年くらいの中で、大災害なり大革命で前提が大きくひっくり返るようなことがありえるだろうから、そういう時に備えて一つのシナリオとしてイメージするのは無意味ではないと思う。自分が今それをじっくり研究する予定はないけれど、そこまで世の中の枠組みが変わることもありえるんだ、とは思っている。

土地の値段は利用価値から決まる。ある土地にマンションを建てたら家賃がどのくらいになるか、あるいはいくらなら売れるか、が尺度の一つになって、その場所の価値をみんなが将来に向かってどの程度価値が保たれる場所かという推測などが加わって値段が決まっていく。金利も関係する。ちなみに今の日本でも森の奥に行くとタダで使える、あるいはほぼタダで買える土地はたくさんある。そういう土地は持っていても税金はほぼタダになる。

土地の利用価値に差がある以上、そこに値段がないと厄介なことになる。都会のいい場所は取り合いになって、恐いおっさんたちや、セールに押しかけがちな猛烈おばちゃんたちが独占しちゃうかもしれない。価値交換、フェアネスの担保のための道具立ては必要だろう。

つまり利用権の値段は必要、ということになるが、それは既に借地、借地権という制度がある。ただ、借地するにも誰から借りるかというと今は地主がいる。公有化ベースになると、その地主が国になったりして、そうするとバブル創造装置ではなくて経済コントロール装置としてうまく使えるのかもしれない。が、でも国のバランスシートに入るということになると、国が破たんしたら他の国にとられたりとか、超根本的な構造は変わらないのかも。

というところまでとりあえず考えはじめてみたものの、ほんとはその先を考えないとおもしろくない。ひとまずきっかけということで。どうやら今まで日本でも土地公有化論をとなえた人がそれなりにいるようなので、そのうちそういう本でも読んでみようかなと。

坂口さんはそれとは別に「家賃て、おかしくねえ?!」ということも言っているみたいで、不動産屋としてはちょっと気になる。「家賃て当たり前に必要、ではないよね」ってことなんだと思うけど、ちょっとそのへんのことを考えていたら割とそこから外れて自分なりに色々としっくりくる話が出てきたので、次はそれを書こうと思う次第。



答えは間にある

April 18th, 2012

要は多様性のデザイン、バランスの設計だと思うんですよね、という話。

最近よく”脱成長”的な話を目にするが、感覚的には共感を感じるものの、
じゃあ脱してどういうことになるのかという話は曖昧なことが多い気がしている。
なんとなく気分的に、ほっこり主義的な話で終わったりする。
「こういう考え方があると思うんだ」「もっとこっちに行こうよ!」という話はよくあるけど、
どういう全体観やバランスであるべきか、という話は少ない気がする。

基本的には、真っ当な形での経済成長のエンジンがあって、それと同時に、
新しい価値観や、アブナい形での成長に対するアンチテーゼが育って、共存していくのがいい。
で、それらがどのような関係や構造にあるのか、どういう多様性やバランスの全体像に
持っていくのが一番いいのか、そのためにどうしていくのがいいのか、
という客観的な話がもっと必要だという気がする。
「がんばって成長しないとこれから所得レベルが下がっていっちゃうけど、
それでも幸せになれるよね、所得と幸せって関係ないよね」的な話はもちろん一理ある。
自分も所得と幸せが比例しないことなんてめちゃくちゃ実感しながら生きてきた。

一方で、けっこうキッツいことになるよなぁという気もする。失業も犯罪も増えるのはいやだし、会社が次々中国に買われて中国人にいじめられたりしたら、つらいし。僕はあまり貧しい地域や時代を見ていないから、かつて東北の農家が貧しくて娘を500円で売ったりしてた的な話はリアリティがないし、みんなそこまで想像していないけど、とにかく貧しくなるのはきついに違いない。
現状はまだまだ古い価値観が新たな時代に合う形にシフトしていく途中だから、”脱成長”的マインドやメッセージが力を持つのはよいことだと思うが、デキるやつがみんな社会起業家!を標榜する感じになるとさすがにバランス悪いだろうし。
スローで素敵なマインドで、それでお金なくても存分に楽しめる人、あるいはそうした価値観なり考え方をメッセージングすることで結局自分は稼げちゃって困らない一部の人はいいけれど、みんなでそっちに行っちゃうと結構マズい。多くの奥さんが、困る。

僕は規模拡大やメジャー化自体を仕事での目標と目的にしていないから、肉食事業家から見ればだいぶほっこり系に見えるだろうけれど、実は「ほっこり系の素敵なたひとたち」への懸念を持っている。
ほっこり系の方が感性が豊かな場合が多いから、メッセージの表現力や強度はあるが、全体観的視点が弱かったりする。価値観や社会像は豊かで素晴らしいものを持っているのに、それを実現する現実的な手立てやバランスについて詰める技術に欠けている場合が多い。そこが勿体ない。いまいちビジョンに欠けるゴリゴリビジネスな人の方が意外とバランス感はあったりして、それが保守的な方向へ導く力を持ってしまったり。

正しいマイノリティが、マイノリティであるゆえに敗退し、全体最適・長期最適がなされなくなるのは悲しい。
だから、メッセージングにとどまらず、全体視点やバランス視点からも物事を解いていくための現実的なトレーニングを積むべきではないか、と。

世の中の、というか日本の多くの議論は、右か、左か、で主張しあうか、はたまた何となく同調しておくか、そのどちらかであることが多いなと思う。それぞれの異なる切り口や意見があって、お互いいい部分を認めながら一緒に具体的にすりあわせていく議論が下手だと思う。

答えはだいたい”間”にあるものだと思っている。100%いい人とか、100%悪いひとなんてあまりいなくて、だいたい誰しも素敵なとこと邪悪なとこが両方あるものだし。客観性というのは大事なもので、それが欠けると刹那的な感情が世の中の制度を決めてしまうような危ない状況につながる。

いずれにせよ、幸せ(価値観)の多様性と、その健全なバランスが保たれていて、そこに選択の自由が確保されていること、それが豊かさなはずで。その多様性とかバランスがどういう状態だとよいのかを考えて、実際に少しでもよりよい状態に近づけることが自分の仕事なんだと数年前に思うようになってから、だいぶすっきりした気がする。分析好きだねぇとか言われるけど、自分はそれでいいと割り切ることにした。



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