月別アーカイブ: 2012年5月

寿司論

May 13th, 2012

前に、greenzの兼松くんと小野くんと飲んでたときに、僕は寿司の話を得意げに話した。
本にも書いたネタだけど、簡単に言うと「お金に関する自分の価値観・バロメーターは、
ウマい寿司を気がねなく食べに行ける経済力があること。そこは確保したい。
それ以上については他の大事なこととのバランス次第でしかない」という話である。
自分にとってはそれはカレーではダメだし、フェラーリではない。
とにかく回る寿司しか食べられないのはいやだ。
だから僕は”それなりに”稼がないといけない、と。

そしたら2人に即座に言われた。
「うーん、僕らはちょっと違うかなぁ。うまい寿司を握っていている人が友達で、
だからすごく安く食べさせてくれる、というのが理想ですねぇ」と。
僕は一瞬で「あ。なるほど・・先行ってる。。」と、自分の感覚が既にちょっと古いんだと感じた。
古いからダメとかいう話でもないんだけど、世の中は彼らの価値観の方に動いてるのは確かだろう。
いずれにせよ僕はスシを食うための手段において想像力が欠けていたわけで。
とりあえず今後はうまいスシを握る人と仲良くなることにする。

ところで、ウマいものを知るとそれほどウマくないものを食べるのがつらくなる、という面がある。
ウマいものを知るのは幸せなことだけど、正直に言うと、
ペヤングを食べる時間の幸せ度は、昔の方がちょっと高かった。
そういう意味で、ときどき「知らない幸せ」みたいなものを意識する。
もちろん「一流のものを知っている」的なこともいいんだけれど、それは
優越感みたいな意味であるならば大した価値はなく、
自分がそれによって本当に質の高いものをつくったりに感動を与えたりできなきゃ意味がない気もする。
ともかく腹を満たすとウマく感じなくなるように、欲望を満たすほど快楽が減っていく面がある。

僕の提唱する(?)「幸せ微分論」というのがあるが、これはつまり、
幸せ感というのは絶対値ではなくて、昨日より進化していること、
そして今日より明日は進化できると思えることにある、
あるいは、欲望は少しずつ満たしていくのがいい、というもの。

大人になるとなかなか感動しなくなるよね、的な話がたまに出るけれど、これは重大な問題だと思う。
不感症になったからお金使って派手にやるというのもあんまりイケてなくて、
むしろ自然に帰った方が感動したりもするわけで、
そうした感動のシフトをしなやかに繰り返し持続できる柔軟なマインドや行動力のようなものを持っていたいと思ったりする。



合間論

May 12th, 2012

こないだヒカリエのイベントで「合間」の話というのをした。
ユトレヒトの江口さんが「aiiima」という一種のギャラリーというかショーケースのようなスペースをつくったのにちなんで、「合間」についての話をしろ、という振りだった。
せっかくなのでどんな話をしたか書きとめておくことにする。

ビルの合間から入っていく神田のそば屋「眠庵」。そもそも合間というのは渋くソソるもので、
感性鋭い人がそこを選ぶ。で、眠庵はとても美味い。合間の店が美味いのには理由があるのだ、という話

R不動産は、ショップとメディアの合間であって、どこまでいってもどちらかに振りきるものではないという話。
そしてそのチームの組織も会社と個人の合間の形であって、それが合っているとうい話。

自分はビジネスマンにもクリエーターにもなれない合間キャラであることに悶々としていたが、
それが実はすごくトクなことなのだとわかったという話

もともと世の中は荒野しかなかったところに人が領域をつくってきたわけで、
特に都市では、フロンティアを探そうとするとそれは合間にあるという話

全部整理して合間がなくなるとつまらんよねぇという話
人はヒマだと何でも整理したがる、会社でもなんでも「役割」を整理したがるんだけど、
整理しすぎるとライトセンター間落球、が起こる。合間の曖昧さも大事だねぇという話

人は進化すると合間に入っていく、どこからも見える真ん中で満足する人は退化する、
人は何かをつかもうとすると合間に入っていくのだ、という話

R不動産でやってるtoolboxなんかは、人間性と合理性の合間。
デジタルによって人間性を合理的に拡大する、という話なんだ、という話

多くのネットサービスやネット自体がそうであるように、
個人性、人間性、あるいは地域性を成立させ拡張させるためにも合理性やデジタル性を組み合わせる
というのが僕のテーマの一つであり、それもある意味で合間、
つまりどちらでもなくどちらでもあることなんだ、といったような感じの話

・・我ながら、わかるようなわからないような感じはするものの、
  自分的にはけっこう色んなヒントを得られるテーマであった。さすが江口さん、深い。



エロキャラ2

May 4th, 2012

前回の振りに応えてさっそく竹本さん(トビムシ)から、以下、文章がきた。
「エコとエロ その理論と現実」という連続講座、をやっていたとは・・
やはり先を行かれていたか。

しかしそもそも自分の発言とか文章を一人で語るというのは、
やってみたらやっぱり非常に照れくさい感覚があるので、
できればこういう場もちょくちょく人を巻き込んだりしたいなと思いつつある。
ブログだかなんだかわからなくなりそうだけど、まああまり深く考えないことに。

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Eat, drink, and be merry, for tomorrow you shall die.

「どうしても途中からエロ話に移行せざるを得ないという良好な関係」にある、
「このあたりの話にはやけに前のめりにのってくる友人」と、
「よりクリエイティブなエロ話でも展開しよう」というフリ、に、
それなりに、身構え(反発)し、身悶え(喜び)もする竹本です。はじめまして。

エロとかエコ(ノミー)とか、あとエコ(ロジー)とか。直近だと、エデュ(ケーション)も。
いずれ林くんはとても論理的だ。
どうしよもない下ネタ、も、どうしよもない理論(林厚見単独説が多い)に基づき、(かつてのジャンボ鶴田のバックドロップ並みに)強引な論理展開をみせる。
かつ、論理的必然に発したりもする(しかも低音美声で)。

林くんと僕は、当然に、嗜好そのものに重なりもあれば異なりもある。
が、その思考的嗜好性は似ている。と思う。
ふたりとも、論理性を志向する右(脳)派、なのか、藝術性を志向する左(脳)派、なのか、
40歳になってなお(互いに)未明ではあるが、それぞれ、よくよく思考する。それ(だけ)は間違いない。
実際、林くんのテクストには、「一人シンポジウム(無言)」や、「一人ブレスト(無声)」が、それなりの頻度で登場する。それ即ち、言わずもがな、である。

旧約聖書のいずこかに、Eat, drink, and be merry, for tomorrow we die 「食らえ、飲め、明日は死ぬのだから」とある。と思う。
林くんは、まさにそんな感じ(?)である。イタリア的、とか、ラテン系、とか、よりも、そんな感じ(?)である。
人生があと10年だったら、1年だったら、1カ月だったら、1週間だったら、1日だったら、ということを、結構真剣に考えたりしている。
そして、思考するだけでなく、陽明学よろしく、な感じで、行動に移る。移るべく準備に入る(という行動に移る)。
それが(また)精緻であり、それが(また)エロである。

かく言う僕も、4年ほど前、某社若手社員向け研修として、「エコとエロ その理論と現実」という連続講座を請負った(?)ことがある。
もしかすると、当時からそれなりに、林くんと近似する問題意識(?)を有していたのかもしれない。そう記憶を改ざんしたりする。
であれば、こうして、林くんのブログ、「快楽サステナブル」に登壇させてもらうのも、そこで意思伝達させてもらうのも、もっと言えば、連歌のように謳わせてもらう、のも、必要必然かもしれない。そう確信に導いたりする。

とはいえやはり、真面目に考えると、人様のブログに土足であがるはどうか、と真面目に考えてしまう。
ので、決して真面目に考えずに、(せめて)内履きであがってしまおう、と不真面目に思う。
いやあるいは、ここで僕が謳うその必然性を、林くんの精緻な理論(但し、単独説)に基づき、
(かつてのタイガース―プレックス並みに)美しくも強引な論理性で説いてもらえれば幸い、と(も)真面目に思う。

いずれにしても、ということで。
しばしの登壇を許し願う、食し呑みながらの今宵ひととき。

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うーむ。だいぶネチっこいキャラだと思われてるんだな。。
それにしても、理論と現実が気になるな。理論はともかく現実が気になる。

(ちなみに竹本さんは、森つくったり、ワリバシのメディア化したり、
うちのtoolboxで扱ってる無垢板タイルもつくってたり、
環境関連の法律つくりまくったり、してて、
隠岐の海士町に住んでるけど割と東京にいたり西粟倉にいたりする人)



エロキャラ

May 1st, 2012

先日マンジョルノ先輩に、facebookで、(林厚見は)たまにいいこと言うけど、
エロである。と断定されてしまった。
「ちょっ、いきなりパブリックにエロキャラ呼ばわりすか!!」とビビったが、
住宅総研の主任研究員である兄貴分にそう言われた以上、反論はしにくい。

確かに下ネタは好きだ。しょうもない下ネタも、しょうもなくない論理的な下ネタも好きだ。
そして正直なところ、エロキャラとしての自負もある。
それはいわゆる「俺は草食じゃないぜ!」というそれではなくて、もっとマジメな話として。

今朝、家からランニングをして三田綱町の住宅街や白金あたりの商店街を走りながら、
「時間をかけてゆっくりできた街はいいもんだな」と素直に思った。
一瞬でドカドカとマンションができたような町より、時間が積み重なった町がいい。
即席というのはペヤング以外は基本的によろしくない。もう日本には即席タウンは要らない。

不動産や金融の世界はしかし、どんどん資本を使いたがる。
急いでたくさん仕事をしないといけないシステムになっている。
ゆっくりやればいいのに、そこまで急がなくても幸せになれるのに、そうはできない。

もっと時間かけてやってきましょうよ、
そんなに新しいモノとか商業ビルとかいっぱいつくらなくてもいいじゃん、
お金かけなくてもドキドキできるっしょ、
と思うわけだけど、なかなかそうもいかない。

で、エロ論に戻る。いや、エロというか、LOVEというか、
これは快楽サステナビリティ的に、本質的に重要である。
要するに、お金をかけなくてもワクワクできること。
電気とか、エネルギーをそれほど使わなくても楽しくて幸せになること。
もちろん、LOVE&EROを求めればそこそこ消費や経済力も求めたり、
がんばったりもしなきゃいけないが、それはそれで健全である。
なおエロとラブを一緒に語るな!という話はまあここでは置いておく、
ていうか、当たり前だし、あくまで例えだし。

ともかく、歌って食べて愛して、それでいいじゃんというイタリア的な感覚はやっぱり良い。
たくさんモノつくったり捨てたり、バブったり上場したりしなくても、とりあえずは人生豊かじゃん、みたいな。
そういうベーシックなところでハッピーであれば、あまり間違えない。
とはいえ、それをグローバルなんとかがぶっ壊しに来るから
それなりに気合入れてがんばんないといけないのは事実だし、
それも適度にやりながらエキサイトするのもおもしろいんだけど、
ともかく物質的、ステータス的でないことにもう少し欲をシフトしておく方が、多分よい。
21世紀に地球が一つの限界を見た今、人の営みの本質に少し戻ろうぜと。
マンジョルノ先輩は、イタリア人みたいだからマンジョルノさんなんだろうけど、
だからきっとポジティブにエロキャラ呼ばわりしてくれていると思う。
だから僕は自負を持ってエロキャラを続けようと思うわけだ。

ところで、愛の最大化の観点からすると、下手すると今の日本の結婚制度なんかも
もはやLOVEのポテンシャルを阻んでいるかもしれない。そこにも「間の答え」を見つけるべきな気がする。

ふぅ。
エロキャラからだいぶ引っ張って熱弁してみたけど、まあ、冗談なんで。
走りながらこういうことを考えてると割と長く走れたりするもので。。
これもいわゆる、しょうもなくない論理的な下ネタでして。

ところで、このあたりの話にはやけに前のめりにのってくる友人がいる。
その竹本さんは、トビムシという、かなりスゴいことをしている会社をやっている。
彼とはだいたい、森とかデザインとか金融とか建築とかの話とかをし始めるのだが、
どうしても途中からエロ話に移行せざるを得ないという良好な関係を維持している。
こないだも大井町の路地裏で肉寿司を食べながらそういう展開になった。
で、その後の謎のスナック「ぺんぎん村」でおばちゃんに乗せられてヘロヘロになりながら、
まじめな話をもう少し引っ張ろうということになった。
彼にも時々ここに登場してもらって、よりクリエイティブなエロ話でも展開しようかと思う。



家賃の役割論

May 1st, 2012

前から若干続きで、家賃の話。
坂口恭平さん的に「家賃なんて払わずに、自分で家をつくってしまいなよ」というのは発想としてアリだし、よく聞く「家賃もったいないからマンション買った」という話も、気持ちとしてわからなくはない。
ちなみに自分は、地価が上がり続け人口が増え続ける時代が終わった今、買う借りるのどっちが正しいという一般論はないし、お得な賃貸やお得な購入、かどうかという話も、正確には”自分にとってトクかどうか”という話だけだと思っている。「一般的には微妙だが自分にとってはイイ」のがお得、一般評価はむしろ逆にもなりうるという感覚。

ところで家賃というのは、広い意味での割賦払い、あるいはある種の共同購入である。家を建てるときには、材料と手間というコストがかかり、それを誰かが負担する。賃貸においては、利用者がそれを少しずつ負担して、リレーしていくわけだ。
要するにこれは「役割分担」だ。買う人がいて、造る人がいて、使う人がいる。お金を最初に出す人や、使う分だけお金を払う人がいる。全部一人でやらずに分担している。

当たり前のことだけど、人間は今までそれをずっとやってきた。役割分担とルールの進化。
無人島で1人になったら、全部自分でやらないといけない。5人くらいいると、木のぼりが上手いやつと潜りがうまいやつで、フルーツ係と魚係を分ける。家づくりがうまいヤツが住みかをつくり、料理がうまい女子は家づくりはせずに料理で貢献する。キャンプに行くと、遊ぶ時間を増やすために役割分担をして仕事を効率よく進める。キャンプ場では役割の進化や技術革新がいっぱい起こるものだ。

ともかく、その無人島的状況から役割分担とルールの進化がぎゅーーんと進んだ結果が現代で、国家とか、業界とか、会社とか、法律とか税金とか、提携とか、シェアとか、色々なことになっている。
住処に関しては、大家さんとか、賃貸とか、銀行とか、不動産屋とか管理会社とか。
家賃を払うというのは「家を自分でつくらないで他のことをする」という選択とも言える。僕の場合は、DIYもちょっとだけやりたいけど、全部一人はさすがにきつい。自分の手でモノをつくるのが得意かというと実はそうではないので、他の得意なことをやって、それで得たお金で誰かに頼む。

役割が進化すると効率が上がって、それはある意味、自由を生む。自分の役割も選択できるようになる。
選択の自由が生まれるのは素晴らしい。とにかく自由や快楽を生むべく、人間はルールや役割分担を進めてきたけれど、それで果たしてよくなってるのかどうか、というと、必ずしも世の中は直線的に豊かで平和にはならず、問題がいっぱい起こる。欲のせいだ。人間の欲はフェアじゃなく、わがままだし、我慢というのが苦手なものだ。今は絶対ラーメン食べない方がいいと思っても、食べてしまう。(いや、ラーメンはいいんだけど)

短期的欲望が、長期全体最適を邪魔し、快楽持続性を阻む。
そして、役割分担を合理的効率的にばかり考えて、人間性を無視するのもまずい。かつ、柔軟でないといけない。

家賃の話とはだいぶ離れちゃったが・・・
坂口さんの話なんかは、そうした役割分担のちょっとおかしなところや、あなた、別の選択もあるぜ、ということを本能的に投げかけてるようなところがある。
僕らは新しい役割定義を考えて、やってみて、新しいルールを提示していかないといけない。



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