メモ

October 25th, 2015

磨くべきは、知識よりも、思考
持つべきは、ライフスタイルでなく、マインドセット
提示すべきは、意匠(デザイン)でなく、価値観
つくり変えるべきは、風景でなく、コモンセンス

みたいな。
我が師匠YY氏の教えに少し加えてみた。



中心市街地

October 25th, 2015

大型商業は好きではないけど、やっぱりイオンはイオンで進化してて、そのうち自動運転が進めば、おじいさんもおばあさんも郊外で楽しく団らんしたり出会ったりすることもできていくだろう。

中心市街地やばいね系の話というのは、個店の努力不足という責任と世の中の進化に伴う構造的必然が重なって・・ということなのだけど、とにかく全部は救えないことは明らかになっている。

そんなことで、自治体の方針も資源投入も、選択と集中の話にならざるを得ない。スマホのようにコンパクトで生産性の高く、かつ魅力的なOSをつくるところには公金は使うっても、その上で動くアプリ(店とか)は、強いものだけが残る、という割り切りを明確にするしかない。

そのためには新しい切り口の制度を色々とつくる必要があるんだと思うけど、一部の人や街を振り落とすようなルールはなかなかできないのがつらいところ。せめて、一定期間以上入居者が決まらない物件の募集賃料に上限をつけるとか、その程度のミクロな決まりはもっと実験していっていい気がする。

それと一つの例えとして、駅に近いシャッター商店街の空き店舗は(その一部とか2Fとかでもいいんだけど)職業訓練を兼ねた方法や体制でリノベーションをやって若い層とか元気な高齢者の住宅にして、その代わり路面を自由な小商いの場として外に開くべしとするみたいなことを考え、その実験・検証の範囲にだけはイニシャルに若干の公的なインセンティブサポートを出すなりある程度の強制力をかけるとかは、いいような気がする。買い物の予算は大型シフトするにせよ、住む場所はもう少し多様なパターンが残る気がするので。

今は各自治体が今後のシナリオをつくるための予算がついているようだけど、これは、リーダーの資質も含めて、イケてるもの、イけるものや場所にのみ手を差し伸べるというふうにしないとマズいんじゃないか。むしろそのための正しい判断をするためのコストにこそリソースを向ける必要があるんじゃないかと思う。



目黒グランドスラム

October 25th, 2015

僕が目黒のグランドスラム・Bシリーズと呼んでいるのがある。
夜にマッシュタン(バー)で飲み、翌日の朝に珈琲屋ROWのモーニングを食べ、昼にスパゲッティ・ダンで食べるという連続技を意味する。先週久しぶりに達成した。
なおAシリーズ(メジャー系)は、誰かやってくれという前提。

別に僕はいわゆる通人では全くないので、偉そうにグルメ批評をキめたいわけではなくて、むしろ強いて言えば都市社会論的なネタである。まあ講釈はいいや。要は雑談です。

第三位:スパゲッティ・ダン

ここは創業40年。相棒yosshyにかなり前から教えられていたけど、行くようになったのはsowxpの西村琢ちゃんに連れてってもらった数年前から。昼時に目黒にいると胃が「ダンが食べたい」と言い始める。パスタが食べたいのではない。ダンが食べたいのだ、と。僕のスタンダードは「たらこウニイカ大根おろし」の大盛り。お世辞にもキレイとは言えない場末的な個人店のランチで1320円という単価は相当である。「お、意外とするね」とは思うけど、結果、高すぎるよとは思わせないプライシングに、40年持続させる経営センスを感じさせる。作業の合間に素敵な笑みを浮かべてモデル立ちするおばさまの笑顔につい笑顔を返して店を出るのである。

第二位:マッシュ・タン

モルトバーの業界では有名な店らしい。マスターが厳しいとの評判がある。先日も、
アラフォー女性「え、えと、アイラモルトを」
マスター「アイラはいまオフィシャルは2つしかないんですよね・・」
「え、、うーんと、違う方がいいんですね」
「・・・(無言)」
といった極めて難しいやりとりがあったり、その後に来たお兄さんは
「えーと、おすすめはありますか?」と聞いてしまい、周りが「うっ」という空気になった後、
「人によって好みが違いますから・・」
という正論が展開されて若干つらかった。

彼は客をいじめてるつもりもなくて、いわば素直なオタクであり、強いて言えばちょっとしたコミュ障である。
知らない人をばかにしてるわけでも、来てほしくないわけでもない。
ウィスキーを飲むこと、における正論と、サービス業、における正論、どこを目指すか。ビジネス論的に解釈したとしても、ここのあり方は戦略の一つとはいえるかもしれない。客筋を乱さず、常連は心地よくなるという道。でもここには「戦略」なんていうさもしいものは一切ないのだ。
そして僕はこっそりグーグル先生の助けを借りて付け焼き刃の知識を少しずつ学び、なんとか振る舞い、行ったこともないスコットランドの海辺の風の香りを思い浮かべて酔い、帰路につくのだ。

第一位:珈琲野郎

本当は珈琲屋ROWであって珈琲野郎ではないんだが(かつては野郎だった)あえてそう書く。
別にここにみんな行くべし、というつもりもない。むしろ地元の人でなければわざわざ行かなくてよろしい。ここは僕にとっては、たまたまちょっと気にいって買ってずっと居間に置いているうちに愛着がしみついた椅子のようなものだ。味もいいし雰囲気もいいんだけど、通り道にあるからついつい寄って慣れてしまい、慣れたからいい、慣れていることそのものがいい、という場所。ただ、家の近所で落ち着く質のいい個人店というものを決して失くしてなるものか、という気にはなる。ちなみにドトールがそれにあたると誰かに言われたとしても僕は別に批判などしないタイプである。

第0位:一茶庵(おまけ)

子供の頃に親によく連れて行かれて大好きだった蕎麦屋。当時はとんかつとんきもロータリーの二階に別館があった。一茶庵はその裏路地、まさにマッシュタンやダンの並ぶ路地にあった。古くて味のある日本家屋だったこの蕎麦屋はもうないけれど、あの頃から三十数年経った今、自分が同じ路地をさまよっているのは面白い。この路地の空間性が、きっと何か共通した感性を引きつけているんだろう。

都心が高密化するのは基本的にはいいと思うけど、ここはあまり変わらないで欲しいなと思う。都市計画的なことでいえば、用途のゾーニング制限はもっとゆるめていいけど、文化のゾーニングみたいなものがあっていい気がする。仮にこの道だけは個人の小さな店しかできず、10店舗以上のチェーンはダメみたいな場所があったとしたら、そこは利回りが下がるかもしれないけれど、ジグライ(土地の格、ゆえに価格も)が少しずつ上がるかもしれない。
僕がこだわるのはそういう微細な多様性の維持である。それは経済価値という意味でも、長期全体最適につながると思う。でも日本では、公の概念にかなりの修正が加わらないと、そういう類いの意思決定はなかなか難しい。



武蔵小杉にて

October 25th, 2015

西鎌倉の実家から電車で東京に戻るとき、なぜか戸塚の商業施設「トツカーナ」が目に入る。もうこの行き帰りで電車の外を見てることはあまりないんだけど、毎回見てしまうのは、実は自分がこの名前を好きだからだろうか? いや、トスカーナの中世都市の隠れ研究家として、これはかなりキツい。公募で決めただそうだ。公募こわい・・

まあしかし、さえない商店街がコレになって喜んだ人はさぞかし多いだろう。その変化の構造とかはどうでもよくて、とにかくその結果に喜び、地元での買い物が増えたのだろう(そのお金の行き先は地元から離れたけれど)。別に街の記憶だとか、Authenticityなんて要らないんだよな、と思わせる強さ。LINEの時代に岩波文庫をみんな読めと言っても無理あるよね、みたいな。だいたい東急プラザとかだって、企業名に外来語足しただけだし、フェークでも、時間が経てばオーセンティック。

・・と、論理的というか構造的に言うとなんだか正当化されるんだけど、それとセンスは別であり、やはりトツカーナはダサい。いかんだろと。
・・なんて思いつつも社会勉強で見に行ってみようかと一瞬考えはしたものの、テナントリストをチェックしたらあまりに想像できちゃう感じだったので、やめる。だけどなんとなく武蔵小杉で久しぶりに下りてみることにした。

駅前の広場に降り立つと、うわーダサい!なにこのタワーとつまらん広場!とやっぱり思ってしまった。それが少数派側の感覚なのは承知だけど、思うもんは仕方ない。それはそれとして、割と最近できたグランツリー(という商業施設)に初めて入ってみた。

1〜2Fはまあ特に意外性とかはないけどマーケティング的にはうまくできてそうな印象。でもけっこう印象的だったのは上階の子供関連のテナントが充実してるあたりと、屋上。最強ですねこの屋上は。植物も色々あるし子供・家族が楽しめる仕掛けも満載で、笑顔がいっぱいで、これはもう子供連れはみんな超ハッピーだよね、と思った。

まあ総じて言うとグッとくるものとか人間味を感じるかというとそういうのではなくて、コンサバなマーケットへのうまく誠実なレスポンスなんだけど、平和な世の中じゃどこだってコンサバがマジョリティで、それを否定しても始まらない。子供もまだつくってない自分が、家族で幸せに住むための街の一つの答えとしてこれを批判なんてできるわきゃねーよと思わされる感じはある。

とにかくこのあたりの開発は、古い商店街のままであるよりもこの場所の経済価値を上げているのは事実だろう。まあそれによって他の場所の価値は下げられているわけだし、こういう施設のつくり方も、これからさらに創造的な方向に進化することができる世界になっていくとも思いつつ。

かつて「まち」にあった人間のふれあいみたいなものも、意外にこうした施設が解決していくということは、ありうるんだろう。そしてオルタナティブサイドにいる「少数派」たちが、大資本がそれらの解決を進めていくような影響力をつくっているという面もある。意識高いマイノリティと、まじめな企業戦士というマジョリティの、コラボレーションは続いていく。

街なり都市なりの競争は必然であって、その競争の先に答えがあるというのも事実である。そうした中で僕は再開発そのものを否定はしないけれど、そうした過程で入れ替えが起こり、無くなるものには注意を払わないといけない。10が3になり1になるのは往々にして自然であり仕方ないのだけど、1をゼロにしてはいけないものがある。その意味ではこの街もそろそろその「足元」のあり方を考えないといけないと思った。



欲しいもの

August 14th, 2014

「この街に欲しいものは何ですか?」と聞くと、多くの人が「カフェと本屋」と答える。
街づくりや開発のときのアンケート等での話。
実際にみんながどのくらい使うかどうかは別として、カフェと本屋はみんな欲しいということだ。

ところで、
「欲しいもの」
「幸せになるもの」
「よく使うor関わるもの」
 あるいは「お金を落とすもの」

どれも必ずしも同じではない。
モノでも家でも、コーヒー屋でも、はたまた異性でも。

マーケティングとは欲しいものを目の前に出すこと。
あるいはお金を落とすようにするノウハウ。
その世界では今のところ、欲しいものをつくる人や
欲しい気にさせる人がデキる人ということになっている。

僕がもっともやりたいシゴトは、幸せになるもの、に気づかせること。
そこが一番で、その上で、それを欲しくなるようにし、お金もちゃんと落ちるようにする。
この状況がつくれれば、サステナブルというやつになる。

資本主義社会のシステムは、我慢からの解放を進め、
面倒なことは減って、選択肢も増えた。つまり自由の実現。

だが自由と幸せも、互いに矛盾することがある。
欲しいものを手に入れる自由が広がることは、
「幸せになること」と同じではない。

今のような自由な世の中では「規制」というのはネガティブに聞こえるが、
ルールというのは前向きで創造的なものでもある。
自由というカオスもいいが、ルールがあるから面白いことも色々ある。

幸せな場をつくるためには、その場の設定が上手いかどうかが大事だ。
いいパーティーをつくるにも、いい世の中をつくるにも。
偉大なリーダーたちはクリエイティブなルールをデザインしていく。

ちなみに、冒頭の「カフェと本屋」はどちらも、
コンビニやドラッグストアなんかに比べて儲かるものではないから、
”みんな欲しい割には” 意外とできにくいものでもある。
「欲しいもの」と「できるもの」も、違う。



続くもの

August 14th, 2014

オフィスの近くにある喫茶店アンセーニュダングルは1975年にできた。
朝によく行く珈琲屋ROWの前身である珈琲野郎は1973年にできた。
40年続いている。

多分、すごく儲かっていたら、そんなに続いていないのではないかと思ったりする。
儲かっていたら、オーナーは別のことをやりはじめ、
そのうち小さな店を続けるための必要条件である「思い」というやつがなくなるからだ。
「儲かる」と「続く」は、相関するけど、しないこともある。

僕はこの二つの店に続いて欲しいという思いがどこかにあるからか、
やけに頻繁に行く。お金もそこそこ使っているんじゃないか。
アンセーニュに週二回、「野郎」に週二回とすれば、
二つ合わせて月に1万円くらい使っていることになる。
これで自分はどの程度貢献しているのだろうか?

単価はケーキ含めて考えると1000円、客数はせいぜい一日50人くらいで、25日で月125万の売り上げ。そこから原価とかバイトとか色々考えて行くと結構ギリだから、まあいい線だろう。
で、自分の貢献は月5000円。200分の1以下。しょぼい。
でも、続いてほしいんだYO!という気持ちを表現をしながら店から出る技を
いつも繰り出しているので、それ以上の貢献はあるのかもしれない。

ところでtwilloという屋台バーがある。
場所が毎日違って、夜になるとその晩の場所がつぶやかれる。
マスターである神条さんに
「これ、当分続けるんですか?次にやりたいこととかあるんですか?」
と聞くと葉巻を燻らせながら、
「先は考えていないですが、当分続けるかなと思ってます。
 やりたいことが表現できているので。」
という。彼は別に、続くことが目的ではない。

「やりたいことを表現できているから、今これをやっている」
というのはシンプルだなと思った。納得感がある日常はいいものだ。

その納得感を優先して生きるか。
あるいは、老後の安心のために多少我慢して生きるか。
はたまた、ほどほどバランスをとるか。
多分自分は、納得感優先だと思いつつ、とはいえほどほどバランスをとっている気もする。

思えば、このあたりのスタンスが自分と同じであるような仲間が周りには多い。
そこが共有できているから仲がいいという人間関係は自然だと思える。
一方で、そこは違うけど、同じ音楽が好きだから仲がいいというような関係もいい。
ただし、事業をやっていくときには、パートナーとそのあたりが握れてないと続かない気がする。
夫婦の場合ってのはまたちがうのか・・

余談だけど「野郎」が万が一閉店したら、おれが継ぐとか言い出す気がする。
今の内装はさして好きなわけでもないので、結構いじらなきゃ、とか思ったりして。
たまに他に継ぎそうな人がいないか見回すのだが、今のところ見つけていない。やばいなぁ。



showrooming

April 15th, 2014

ZOZOがWEARのバーコード読み取り機能(店でスマホ使ってECに飛んでしまうやつ)を一旦あきらめたというのがニュースになっていたけど、まあこういうことも一進一退するものですね。amazonのflowってのもどうなるのか。一方ではスマポっていうアプリみたいに、逆にオンラインからリアル店舗に呼び寄せる仕掛けも出てきたり。

とはいえショールーミングというやつが進んでいくというのはとても自然な話で、今でも僕は本屋でamazonの中古チェックして買うのは時々やってます。本屋には悪いけど、その方が紙(木)の使用量減るし、みたいな。

不動産目線で言うと、リアル店舗での買い物が減っていくと店舗の払える賃料が減って商業不動産の価値は落ちるという理屈があるわけですが、僕はビルを持ってる人じゃないので直接的には利害がないから「いいんじゃね?」と思っています、ぶっちゃけ。まあ厳密に言うと日本の不動産価値が下がれば自分にも色々マイナスは回ってくるんだけど、さらに巡り巡るとそうでもないと思うし(理屈省略)。

でもそもそもファッション店舗の賃料負担力が他の業態に比べてとても高いことへの違和感はずっとあります。でかい物販店舗があれだけ高い賃料払えるものだから、路面から飲食が消えていったり、やたらとビルを建て替えが進んでしまったりということがあるわけで。

いずれにせよショールーミングが進めば、いやおうなくリアル店舗は楽しい体験や意外な出会いをつくるように工夫するだろうし、いろんなプレーヤーがコラボって楽しい空間をつくっていくんじゃないかとか、表参道の道沿いにもカフェなんかがもっと戻ってくるんじゃないかとか、思います。なんか、WEARの読み取り機能に積極的に乗っていたパルコは、やっぱり堤清二さんの文化的なマインドが残っているのかなと思ったりもします。

あるいは例えばECのシェアが伸びて資金力が高まっていくと、ECのウィナーたちが自らある種のショールーム空間をつくり始めるのかも。それはそれでおもしろいかもしれない。
いずれにせよこのあたりの話は、不動産企画でも建築やストリートのデザインにおいても無縁ではなくなってきたようですな。



third wave

April 14th, 2014

珈琲屋の世界もサードウェーブ系というやつがだいぶ本格的に増えているようで、パリからも有名なのが来たようだし、最近東京出店を決めた西海岸系のブルーボトルなんかは数十億の投資を受けてると聞く。ちょっと前まではマイナーな個人たちの世界だったのに・・なんとも早い。

そうなってくるとドトールなんかもサードウェーブ風味の業態つくったりするんだろうし、不動産ディベロッパーはすぐ新しいプレーヤーたちをテナントに入れようとしたりして、スタバも今までのように強い立場じゃなくなったりするんだろうか。

そういう風に、新しい価値観や文化を持ったプレーヤーが現れて支持されて、マーケットの分解や変化が起こって行くのはいいことだ。他のリテールでも、あるいはリノベーションとかリフォームの世界も、きっとそういうことが起こっていく。エネルギーの世界だってそうかもしれない。でかいものたちが人間味をなくした頃に、新しい小さなものたちが力を持っていく。そして、ベンチャーが成長するのはわくわくするけど、ただつまらない巨大化するだけのビジネスなんてウンコだ。大きくなるなら大きい者ならではの革新がないと意味がない。

より動物的感覚としてしっくりくるものが支持されていくということはあちこちで起こっていくはずだし、そこに生じるチャンスは興味深い。質とか価値観とかスタイルというのは論理的な積み上げではない。ロジックからは生まれない価値や、大儲けするために編み出したわけじゃないグッドアイディアたちが、結果的に市場で認められていくのは嬉しいものだ。なんとなく最近、人間的なクリエイティビティが一昔前よりも経済とたくましく共生する世界に近づいているような気が、確信的にしている。



快楽Risktake

April 13th, 2014

今年は目黒川が宴会花見禁止になっていた。意見の分かれるとこなんだろうが、僕は宴会はできるべきだと思っている。

花見は歩いてしたい、という人の方が宴会派よりずっと多いということなら仕方ない。だけど、マナーの悪いやつがいるから、文句が出るから、とりあえず禁止する、という単純な構造は全く納得いかない。なんか、とりあえずまじめ側の意見を正とし、やんちゃ側の考え方はあくまで問題ない範囲で許す、という日本ぽさが嫌い。

さらに言えば、それってただの怠慢じゃん、と思える。「歩行者が迷惑しています」と言っているけれど、それってつまりマナーを改善すればいいはずってことじゃないのか。ならばせめて、今年だけ禁止にすればいい。「マナーが悪すぎたから今年はできない」となったら僕らはそれなりに反省し、翌年はマナーの悪い奴に注意もするだろう。

これはレバ刺し問題を思い出させる話だ。リスクリターンをバランスで捉えない社会のツマラナさ。危ない可能性があれば禁止する。川に落ちる子供がいたらまずいから、浅い川全部に手すりをつける。気をつけなくていいように、判断が要らないように、なっていく。

考えずに責任を避ける人や、豊かさとリスクのトレードオフを理解しない人々は、本来得られるはずの豊かさを妨げる。リスクテイクとはチャレンジであり、ある意味では夢と希望と勇気ではないのかと思う次第。



マンション開発

May 20th, 2013

数週間くらい前だったか、マンション供給、野村不動産トップ!という新聞の見出しがあった。トップ賞はおめでたい。まさに努力の賜物である。個人的には野村は大手マンションデベロッパーの中では好感度が高いので、へえ~やるね☆と思ったわけだけど、一方で「供給トップって微妙だよね」とも思った。

日本で新築マンションの供給戸数が多いことが社会的に立派であるかというと、それは会社自身と日本経済の絆創膏的な処置としては意味があるものの、やればやるほど地方や郊外が寂れる、世の中に空き家が増えるという状況に近づくわけで、要するに社会問題をより拡大することでもある。たくさん供給したぜ!というのは、大げさにいえば「社会問題をより深刻にするような仕事をしましたよ」というメッセージを本当はともなう面があると思う。野村はもちろん賢い会社だから、供給量をただ闇雲に追求しているわけではなく、住宅の新しい価値を追求しながら、企業としての長期的な健全な姿を追求しようとしているだろうし、その中での結果としてのトップ、なんだろうとは思う。

話はいったん変わるが、僕は都市や社会のデザインみたいなことについて考えるときに、キャンプを例えて考えることがよくある。以前にも書いたかもしれないが、何もない状態から人が住み楽しむための環境を整える上での手順と役割分担、その進化の筋道みたいなことをイメージするための参照例として便利なのである。何人かでキャンプをするとき、テントを建てたり荷物を運んだり、そのあと薪を集めたり火をおこしたり、それぞれ得意な人が役割を分担していく。なんでもそれぞれ自分でやるのでなく、うまくシゴトを分担し、合理的にコトを運んでいく。ひとまず場所ができあがった後は、料理したり、あるいはギターひいて歌ったり、それも含めてみんながそれぞれコミュニティに貢献することになる。近くに別のキャンパーチームがいれば、そのうちモノの交換も労力の交換もすればいいし、歌を披露して酒をもらって帰って来るのもいい。さらに進歩すれば、時間のズレがあっても価値交換ができるようにお金のようなものを使うようになる。

で、話を戻すと、マンションをどんどんつくるというのはどういうことか。あくまで例えだけど、キャンプなり無人島なりの世界で、とりあえずいったん住処が全部できて、そしてその後人が減って、家が余っているのにさらに家を建てる、どんどん建てる。で「おれが一番いっぱい建てたぜ!おれんとこにみんな移動してきてるぜ!」みたいなことだと言えなくもない。

もちろん質が上がっていればいいんだけれど、質が上がっていないのに無理矢理に水場に近いところに、本来広場だったあたりに建てまくって「便利だろう!」とやると、確かに人は便利なところに移動しちゃうものだ。結果、水場の周りにはみんながのんびり談笑するような場所はなくなっていく(これは、表参道の路面には賃料が上がりすぎてカフェがなくなったのと同じ感じか)。さらに、建てるための資源がふんだんにあればまだいいけれど、周りの木がなくなってるのに新しく建てまくり、人も減りつつあるのに「さあ木が無くなったから早く隣の山まで木を取りに行くぜ!大変だぞ!お前ら気合い入れろコラ!おぅ!」みたいな。・・そう考えると「なんか、家つくるよりも、今ある家を楽しく少しいじるとか、はたまた歌でも楽器でも練習してみんなで最高な夜でも過ごせたらいいのにね」と思ったりする。

まあ現代社会は複雑にいろんなものや仕組みを既につくった前提があるわけなので、それをふまえて考えないとしょうがないから、自分も無邪気に新築を一切やめるべきとは思っていないけど、立ち戻って考える必要は、あるよね。ほんとは、不動産ディベロッパーが今の資本市場のルールにのっかってしまってること自体が根っこの問題であって、米国でもデベが上場なんてしないんだけど。

なんて言ってもなんなので、現実に大手デベが、社会問題増幅系の仕事でなく、健全にやれるこれからの事業は例えば何なんだろう?となると、確かにこれは難しいけど、無責任に言うは易し的なことを言うならば、途上国の、これから生活水準が上がっていく数十億人のためのまっとうで魅力あるローコスト住宅、とかは、やれることがあるんじゃないか。先を見てそういう市場へのシフトをイメージし、そのための海外でのネットワーキングとパートナーシップを進めていく。”日本だけ”からの脱却へ向かい、世界からもリスペクトされることを目指す。日本だけで無理するよりも、いつかは大きいリターンもあるかもしれない。



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