マスタープラン

February 14th, 2017

最近、都市計画の分野の本を少しずつ勉強しているんだけど、これまでいかに自分が学んでこなかったかということがわかると同時に、この分野の仕組みや専門家の話が時代とずれている部分も少しわかってきた。

先週は偉い先生が都市マスタープランをいかに機能させるかを論じてる本を読んだ。マスタープランというのは、市区町村の街の姿を中長期的なビジョンとして描くものであるが、それが現実的な実効力をあまり持たないものになっていて問題である、ということが繰り返し書かれていた。そもそも市町村が一定の強制力を持って進められる構造になっていないから効力を持たないし、ゆえに誰も注目もしないと。確かに自分も含めて周りの人たちでも、自分が住んでいる区なり市なりのマスタープランに目を通したことがある人は少なそうだ。

そうした話を最初はふむふむと読んでいたものの、しばらく読んで徐々に違和感が出て来た。マスタープランが機能しないのは自治体への権限移譲が不十分な構造になってるせいだと言う話があるけど、それはすぐには変わらない所与の前提みたいな面があるだろうし、民間で経営する立場だったら政治体制や官僚システムの改善を期待するひまもなく、今の前提の中でワークする方法をすぐにでも繰り出すしかない。都市経営だとか言う以上は、もうちょっと現実をふまえないといけないのではないか?と思える。

で、そもそもマスタープランという考え方や言い方がもう違うんじゃないのか?と思いはじめた。今のある意味出来上がっている都市においては、行政側で識者と一緒に街の将来の絵を先に描いてマニフェストしても今やあまり意味がないのではないか?と。読んだところで内容がふわっとしているというのも確かにある。例えば新宿区のマスタープランで四谷地域については「歴史と文化の香りあふれ、多くの人が集まる夢のまち」とか、若松地域は「誰にもやさしい元気のあるまち」とか書いてある。戸山周辺は「生活交流の心」で、明治通りは「賑わい交流軸」だそうだ。なんじゃそりゃ。キャッチフレーズはまあよいとしても、具体的な部分でも優等生的なことしか書いていないし、風景や体験のイメージがわかない。インフラや大きな都市施設に関してはもちろん公が動かないといけないのは確かなんだけれど、「このあたりはこんな特徴を持ったエリアになる」といった定性的な話になると、そんなの行政が決めてその通りになるわけなくね?とか思ったりする。

地域の特徴とかアイデンティティというのは結局いつも市場(マーケット)の中で動いていくもので、市場でコトが動くというのは、個人なり企業なりがそれぞれに判断していくもので、その判断は不動産会社だろうとパン屋であろうと、収益見込みはもちろん、嗅覚とか個別の見立てとか、けっこう感覚的なものも含めた個別の意思の積み上げで起こっていくものだ。そこのマーケティングがベースになっていないと計画も間違える。用途地域を指定して「ここは近隣商業、ここは中高層住居・・」というのは結構な強制力があるのは事実だけど、それももうある程度できあがったものがあるわけで、ここからマスタープランを描いて、ルールに落とし込むということは行政のプランニングでどこまで適切に誘導できるのかというとかなり疑問。

もちろん行政には大いに役割があるし期待もあるけれど、街の進化や退化というのはとても有機的なもので、イメージ通り、ディレクション通りに進むわけはない。インフラや公共施設というものも、そうした有機的に起こっていく状況を見ながら後追いでやっていく方がいい気がする。だから、マスタープランというのはビジョンを先に規定するものではなくて、仮説に過ぎないわけで、あくまで仮説でしかないという前提で毎年毎年、現れたり消えたりする街のコンテンツや空気との関係で修正するべきものだと思う。

さらに言えば、マスタープランという代わりに「ポテンシャルマップ」みたいなものがある方がしっくりくるのではないかと思える。
すでにある現状を前提に、再開発目線というよりもっとリノベ目線に重きをおきつつ、ポテンシャルを描くためのもの。それが実際その通りになっていくかどうかは住民や事業者の意思や判断なわけだけど、それは偶然ともいえる具体のヒトの登場や出会いやスイッチの入り方によってコトが起こり、街がどっちの方向に振れるかも変わっていく。ポテンシャルマップには、住民なり企業たちが描き込んでいくことができ、ここはこういう場所だよ、こういう場所になるのがいいよ、おれここでこういうことやるから、ということを書き込んでいくイメージの仕組み。

住民や事業者による「ここはこういうエリアだよね」という認識レイヤーも、妄想レイヤーも、プレーヤーたちの実践がマッピングされていくレイヤーも、行政によるプランニングのレイヤーもあって、それらが公開されつつ、各レイヤーの整合性を漸次的に進めていくためのインフラとルールのマネジメントは行政の役割。そうしたマップの姿が街のアイデンティティを浮かび上がらせ、行政に望まれるインフラや施設のニーズも浮かび上がらせ、人の意思にスイッチも入れる。みたいなやつ。

産業の誘致も誕生も維持も、先に計画ありきではなく、むしろこうした状況の可視化と実装とともに起こっていく。言い換えれば、市場が先、マネジメントはむしろ後、みたいな。まあ現実はすでにそうなっているともいえるかもしれないけど。

ポテンシャルマップとマネジメントレポート、というセットがむしろ主役になっていて、それを公共主導の具体的なインフラプランとして支えていくのがマスタープラン、みたいな感じ。「マーケット」と「ストリート」からの発見をふまえて、マネジメントはそれを反映していく。そう考えると、行政や大学というのは、マーケットとストリートの両方からある意味もっとも遠いポジションだったりするので、実効力のあるプランを自ら先につくろうとするのはなかなか難しいのではないか。

ちょっと別の話になるけど、都市計画の話では「都市軸」とかいう言葉もよくでてくる。これも古いなと思う。大きな道路が都市軸だという前提で書いてあることが多いけど、本当の都市軸は狭い路地かもしれない。みんなの頭の中にそれぞれの軸があるともいえるし、動線や居場所というのは道路のスケールなんかとはむしろ対極にあったりする。

と、つらつら偉そうに考えてみたが、いずれにせよ確信しつつあるのは、専門家たちですら「もうかつてのパラダイムじゃないのだ」と言いながら意外と抜け出せていない面がまだあるのかもしれないな、ということ。自分もリノベスクールなんかから学ぶことが多く、考え方がどんどん変わっている気がしている。都市計画の発想を、パブリックがリードしなきゃという前提から、パブリックは並走するんだという根本的な立ち位置感覚に置き換える必要がある。
なんてことを思いながら今週末は岡崎のトレジャーハンティングで戦略づくりのとっかかりを考えることになっていて楽しみにしている。





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