チェーン店と人間性

March 24th, 2012

今週、数年間住んだ武蔵小山から目黒駅近くの新居(”新築”じゃない)に引っ越した。
武蔵小山という街は、愛着を持っている人がけっこういて、おもしろい場所も色々あるようなのだけど、
自分がここに住んでいる間にそれを存分に楽しんだかというと、そうでもない。
うまいと言われている店も全部行ったわけじゃないし、例のスナック街も数度、
清水湯も最後になってやっと行った次第。でも、ほどよい住宅地の良さみたいなものは久しぶりに味わった。

また朝ネタになるが、引っ越す前に駅の近くの nemoというパン屋&カフェみたいな店で朝メシを食べた。
ここは割とおしゃれ寄りで、パンが美味しいこともあって女子受けがよい類の店なのだが、
タバコも吸えるし、適度にゆるく、朝ならおっさんが新聞を読んでいてもさほど違和感がないので
たまに行っていた。きっとオーナー(nemotoさんていうのかな、多分)がいい具合な人なんだろうな・・

等と考えているうちに、一人シンポジウム(無言)が盛り上がり始め、
「このくらいの感じの店がもうちょっと多くあってもいいんだけど・・・ありそでないよね」
「ていうか都心の朝食は結局チェーン系が数的にほとんどを占める現状についてどう考えるか?」
と少し緊張感のある議題に移ってきた。

そして「人間的なこだわりが見える店は、チェーン店に食われてこれからもっと減っていってしまうのか?」
さらに「逆に、チェーンオペレーションは、そもそも構造的に人間的たりえないのか?」
というところでちょっと掘り下げてみることに。

まず人のタイプというのがある。広げることを目的とするタイプの人は、
場所の”質感”のようなものにこだわることは少ない。
一方で「こだわりの世界観」の人は、深く掘り込む方へ行くものであり、
基本的に広げることを目的としないし、当然ながら広げることのディレクションには向かない。

ところで人間的というのは多分、手触りがあるとか、個人の顔が見えるとか、そういう意味で使っていて、
定義は曖昧なものだけど、ある程度の共通感覚はあるかと思う。
で、それはけっこう本質的な、つまり人間にとっての「快楽の持続性」のために大事なことに思える。
あるいは、人間的というのは、時間が経っても人を寄せ付けるもの、時間とともに魅力が増すもの、
といったこととも重なるように思う。

で、「時間とともに魅力が増すものがチェーン化して経済的に合理化されるのは難しい」
のかというと、人・サービスありきの店舗においては基本的にはそうなのだろう。
ただ、その必要がないと割り切ってしまうと最後に無個性的チェーンに世界が征服されて
しまうので、”その間の答え”を考えてしまう。
チェーン前提で事業を始める人が、そのようなテーマを特に意識しない場合が多いという構造はあるけれど、
少しずつ多様化していて、スタバにせよcafe companyにせよ、それぞれの形で
人間性を模索しているように思える。
経年変化でいい具合になっていく牛丼屋とかも、そのうち出てくるかもしれない。

ともかく合理性と人間性というのは、相反するようなイメージがあったけれど、
ようやく、相反するものではなくなってきた。
共存し、融合する。人間的だから合理的足りうる。
それらを両立させることは妥協的なことではなく、生き残るための手段にも近い。

また真面目ぶったノリになって参りましたが・・
いずれにせよ、店とか事業とか会社の魅力っていうのは、結局は思想があるか、ですよね。
それが儲かるかどうかはまた少し別軸なんだけど。





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