マンション開発

May 20th, 2013

数週間くらい前だったか、マンション供給、野村不動産トップ!という新聞の見出しがあった。トップ賞はおめでたい。まさに努力の賜物である。個人的には野村は大手マンションデベロッパーの中では好感度が高いので、へえ~やるね☆と思ったわけだけど、一方で「供給トップって微妙だよね」とも思った。

日本で新築マンションの供給戸数が多いことが社会的に立派であるかというと、それは会社自身と日本経済の絆創膏的な処置としては意味があるものの、やればやるほど地方や郊外が寂れる、世の中に空き家が増えるという状況に近づくわけで、要するに社会問題をより拡大することでもある。たくさん供給したぜ!というのは、大げさにいえば「社会問題をより深刻にするような仕事をしましたよ」というメッセージを本当はともなう面があると思う。野村はもちろん賢い会社だから、供給量をただ闇雲に追求しているわけではなく、住宅の新しい価値を追求しながら、企業としての長期的な健全な姿を追求しようとしているだろうし、その中での結果としてのトップ、なんだろうとは思う。

話はいったん変わるが、僕は都市や社会のデザインみたいなことについて考えるときに、キャンプを例えて考えることがよくある。以前にも書いたかもしれないが、何もない状態から人が住み楽しむための環境を整える上での手順と役割分担、その進化の筋道みたいなことをイメージするための参照例として便利なのである。何人かでキャンプをするとき、テントを建てたり荷物を運んだり、そのあと薪を集めたり火をおこしたり、それぞれ得意な人が役割を分担していく。なんでもそれぞれ自分でやるのでなく、うまくシゴトを分担し、合理的にコトを運んでいく。ひとまず場所ができあがった後は、料理したり、あるいはギターひいて歌ったり、それも含めてみんながそれぞれコミュニティに貢献することになる。近くに別のキャンパーチームがいれば、そのうちモノの交換も労力の交換もすればいいし、歌を披露して酒をもらって帰って来るのもいい。さらに進歩すれば、時間のズレがあっても価値交換ができるようにお金のようなものを使うようになる。

で、話を戻すと、マンションをどんどんつくるというのはどういうことか。あくまで例えだけど、キャンプなり無人島なりの世界で、とりあえずいったん住処が全部できて、そしてその後人が減って、家が余っているのにさらに家を建てる、どんどん建てる。で「おれが一番いっぱい建てたぜ!おれんとこにみんな移動してきてるぜ!」みたいなことだと言えなくもない。

もちろん質が上がっていればいいんだけれど、質が上がっていないのに無理矢理に水場に近いところに、本来広場だったあたりに建てまくって「便利だろう!」とやると、確かに人は便利なところに移動しちゃうものだ。結果、水場の周りにはみんながのんびり談笑するような場所はなくなっていく(これは、表参道の路面には賃料が上がりすぎてカフェがなくなったのと同じ感じか)。さらに、建てるための資源がふんだんにあればまだいいけれど、周りの木がなくなってるのに新しく建てまくり、人も減りつつあるのに「さあ木が無くなったから早く隣の山まで木を取りに行くぜ!大変だぞ!お前ら気合い入れろコラ!おぅ!」みたいな。・・そう考えると「なんか、家つくるよりも、今ある家を楽しく少しいじるとか、はたまた歌でも楽器でも練習してみんなで最高な夜でも過ごせたらいいのにね」と思ったりする。

まあ現代社会は複雑にいろんなものや仕組みを既につくった前提があるわけなので、それをふまえて考えないとしょうがないから、自分も無邪気に新築を一切やめるべきとは思っていないけど、立ち戻って考える必要は、あるよね。ほんとは、不動産ディベロッパーが今の資本市場のルールにのっかってしまってること自体が根っこの問題であって、米国でもデベが上場なんてしないんだけど。

なんて言ってもなんなので、現実に大手デベが、社会問題増幅系の仕事でなく、健全にやれるこれからの事業は例えば何なんだろう?となると、確かにこれは難しいけど、無責任に言うは易し的なことを言うならば、途上国の、これから生活水準が上がっていく数十億人のためのまっとうで魅力あるローコスト住宅、とかは、やれることがあるんじゃないか。先を見てそういう市場へのシフトをイメージし、そのための海外でのネットワーキングとパートナーシップを進めていく。”日本だけ”からの脱却へ向かい、世界からもリスペクトされることを目指す。日本だけで無理するよりも、いつかは大きいリターンもあるかもしれない。





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