古いもの

December 4th, 2017

映画「築地ワンダーランド」を改めて見てみた。やはり僕にとって印象的なのは、80年前の新築時の市場の風景であった。新築だから建物はピカピカであり、いま言われるようなレトロ感なんてものはもちろんないが、多くの人々がそこで始まる新しい世界にわくわくしている様子がうかがえる。

そのとき生まれた大規模な施設は、物理的にももちろんインパクトや感動があったのだろうが、そこに見える骨太さというのは、単に新たな「施設」をつくったのでなく、それまでの日本橋の魚河岸とはうって変わった新たな機能とシステム、つまりその先の時代の環境、ニーズに合わせた新しい食品流通のかたちをつくったということだ。

そのかたち自体が時代の要請に応える骨太なものだからこそ繁栄し、80年間持続した。ゆえに愛着も生まれた。築地の風景に人間らしさを感じるのは、建築が人間らしいからではない。そこで動く人々の行為が人間的であるからである。だがそれは実は、80年前に生まれたかたちが続いているからだと言える。その時代の人々の仕事や行為は、今の時代に生まれるものからすれば全てが”人間的”に見えるはずだから。

建物は長い時間が経てば老朽化する。何がしか手を打たなければならないし、なんでも保存すればよいというものではない。引き継ぐべきものの議論と、「これからのあり方」は何かという議論があり、そのバランスで決まる。だから築地や豊洲の話というのも「市場がどうあるべきか」でなく本来は「食の流通が今後どうあるべきか」を問うことからスタートすべきものである。

そしてこれは築地に限らない話として、古いものを残すことの意味とは何なのか。建物も、街割も、記憶や文化も、残すことの意味とは何なのか。これは意外と言語化・共有化が十分にされていないのではないかと思う。

ある場所をどうアップデートするか?という場面においていくつかの軸がある。あるものを残すべきか否かという議論、その場所の持つ価値を本質的に活かすための可能性についての議論(そして市場のようなものであれば、そこに存在する機能やシステムの未来についての議論もある)。

誰が見ても歴史的な文化財と感じるものはともかく、そうでもないけど多くの人が残ってほしいと思うものについては、それを残すには日本では理由のロジックが要る。そのクリアな説明が存在しないから、多くの場合は消えていく。状況に任せて消えていくものの多くはそれでよいと思えるものではあるが、本来残すべきだったのではないかと思うものはやっぱりある。

建物保存の意義についてぱっと調べてみると「人間社会の文化的向上」といったような言葉が出てくる。たしかに文化性、文化的精神を価値あるものとするのは歴史的に正しいと考えられているし、利便だけが向上して文化的なるものが一切引き継がれない世界は豊かなものではないという共通感覚は確かにある。だが、この100年に関する限り、その認識は薄くなっていた時代だったように思える。それが100年後にどうなるのか。これはおそらく一定のサイクルで循環するものではないかと思っている。

いま、特に民間企業で働いて生きている多くの人にとっては、経済的なプラスマイナスを指標として物事が決まっていくのは自然当然である。経済的なプラマイに反する判断には理由が必要となる。だが、長期的な観点からするとそれはあくまで判断軸の一部であることも事実である。文化的であること、歴史・時間を感じること、それらは直接的に人間の心情・感覚にプラスに寄与するのに加え、観光や、都市の魅力という媒介を通じて経済に寄与もしていく。あとはその度合いの問題、個別の判断になるわけだが、少なくとも30年後や100年後に何を残すべきかという目線を社会は持つべきである。人間がもし、古いものや世代・時間を超えて引き継がれたものに魅力を感じなくなるならば保存の正当性は下がるだろうが、おそらくそうはならないだろう。人は永遠に、未来にも歴史にもときめき続ける。

先日、伝統について語ったなかなかいい文章を見つけた。いわく、伝統は残ったから伝統なのであり、ただ古いから伝統なのではないという話だった。残るだけの価値を認められてきたから偉大さがある。そして残ってきたのは愛されてきたから。愛されたものは、機能的な意味での「必要」を超えて残る。多くの人が残したいと強く思うものは、人間にとってそもそも価値がある。結局は人の思いのレベル、バランスで決まる。だから言語化は難しい。

例えばローマの街中に遺跡がある。別に美しい形態が残っているわけでもなく、ガレキの山のような遺跡も街のど真ん中に残されている。我々はそれを見てただ歴史・時間を感じるのであって、形が美しいから見るのではない。活用価値の高い空間をそうしておくのはロスもある。だがそれがあるローマは偉大だと人は思う。

一方でそこに、これから先の数百年に向けて新しい価値を持ち、また愛されるようになるものが新たにつくられたらどうだろう。時代時代に骨太なものが生まれていくことには正義がある。より良くなることに立ち向かうことは必要である。ただしそこに長い目線が関わるようにしなければならない。半端な古いものはもう要らないという人もいてもいい。ただただ残すべきだという人もいてもいい。いずれにおいても我々は、長い時間で物事を見て立ち止まり、意見の敵対する相手の立場や目線をイメージし、客観冷静柔軟に考えられるような人間である方がいい。いずれにせよ”いまここ”だけの評価でなく長期全体最適になるコトが起こっていくよう、残すことの価値波及についても、新たにつくるものの長期価値や波及についても、それらの本質と構造を把握するための枠組みや共通認識を開発しないといけない。そのへんを最近考えております。





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