肉野菜炒め論

August 15th, 2012

僕は肉野菜炒めが好きだ。最近は火曜日昼の定例会議の出前はカオマンガイが続いているけど、そのうちまた以前のように近所の中華「湖瓜」の肉野菜炒めの時代が復活すると思っている。肉野菜炒めは、当たり前だが肉があって野菜があってご飯があって、そのどれもに意味があり、喧嘩することなく混じり合うものである。人間というのはだいたい、肉と草と穀物をうまいことミックスして食べてるわけであって、ある程度進化した世界において、肉だけとか草だけで生きていくのはなかなかツラいものだ。

で、最近なんとなく、肉的な価値観と草的な価値観がぶつかっているような感じに違和感を感じることが多い。ここでいう肉的というのは20世紀的・資本主義的なベースというか攻め系というか、あるいは科学的であったり合理的であったり、なんとなくそっち系で、草的というのは、もっと根本的に人間のまっとうなあり方を考えようぜ寄りというか、そんな意味である。昔からいつだってある図式ではあるけれど、最近の原発論あたりで内田樹氏とか坂本龍一氏とかが池田信夫氏的あたりとぶつかる感じとかを見て、なんかもうちょっとうまいこと混ぜ合わせて炒められないもんかなあと思ったりする。

日本人はこれから新しい価値観とか匠の技をさらに深めてうまくアピールもすべきだし、一方でハイテクもビジネスの攻めもやっていかないと現実的には大変だ。いろんな人がいて、その層の厚さや多様性が存在感になっていくのがいいし、同時にそこでは野菜を前提とした肉のふるまいも、その逆も両方必要であって、さらに謙虚で主張しすぎないご飯とあいまって美味しい調和を生んでいけばよい。ただここにはいくつか問題があって、一つは、肉好きは野菜も食べるけど肉を食べない人は食べないという状況、つまり草系は割とがんこに閉じる傾向があるということ(言うまでもないけど、自分がベジタリアンにネガティブとかではなくて、たまたまの例えですのであしからず)。そして、いまも恐らく日本では主流である肉寄りの欲望や幻想をベースとする人々の、ゴールやあこがれの指標が時代の現実とずれているということ。

ある本で原研哉さんが「デザインとは欲望のエデュケーションである」と言っていて、さすが先生しゃれた表現しはりますなぁと思った。欲望はとかくルーズに拡散していくものだが、それにケジメをつけつつ健全な方向に導くのが文化であり、デザインはそれをサポートするのだと。それはモノだけじゃなく、社会システムも産業も、そして価値観とか教育にも多分あてはまめて考えることができる。アジアではこれから肉サイドの欲求がものすごい勢いで膨張してくるだろうけど、さすがにそうなると大変なことになる。先進国は自らの反省もふまえてそれをうまく健全な方向へ導くベクトルを立てるのがよいわけだけど、そこでは贅沢とか”一流”といった肉系ゴールにある指標やイメージの変更が必要になってくる。今まで自然的人的な資源のフロンティアを見つけて実現してきた貴族的な贅沢というやつも、それらのフロンティアがなくなって世界中のコストがあがり、イノベーションもそう簡単に全ての問題を解ききれないという時代に入って、さすがにあこがれの対象としておくわけにもいかなくなってくる。そこで提示される新しいイメージや評価軸のようなものが共有されていくには多分うまい言葉が必要で、そこではコピーライティングのような、クリエイターの出番もある気がする。

ちなみに僕は実はかなり貪欲な人間で、だからこそ欲望や選択をかなりマネジメントしている。基本的に、日常をわくわくして生きることや死ぬときに後悔しないことに対してかなりの執着があるため、それに対してけっこう戦略的にやっている。物質的あるいは地位的に高い方へ行きたいと思うと本来の自分の欲が満たされなくなるから注意するし、安定するとむしろ先が恐いからそこから離れるようにもしている。同時に攻めのビジョンもきちんと組み込むように心がけている。個人的には肉野菜炒め的バランスを維持しながら、楽しそうで世のためにもがんばってるおっさん、でありたい。

ともかく、肉がメインストリームで草がそえてあるステーキ時代は終わりつつあるわけで、ならば最高に美味しい肉野菜炒めはどこにあるのか、そのレシピはどこにあるのか、それが問題だ。少なくとも当面は。個人的には、最近そのレシピのヒントを色々感じたのはオリンピックだった。





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